平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



法性山(ほっしょうざん)般若寺(真言律宗)は、奈良市の北部に位置し、
奈良坂(京街道)に面して建っています。般若寺バス停から坂道を北へ上ると、
優美な楼門(鎌倉時代・国宝)がまず目に入り、楼門(二階造りの門)からは
十三重の石塔(国重文)の均整の取れた美しい造形が望めます。

般若寺楼門
正門は南大門・中大門でしたが戦国時代の兵火で失われ、楼門だけが残りました。


般若寺の創建ははっきりしませんが、寺伝によると、飛鳥時代の629年に
高句麗の慧灌(えかん)が開いたとしています。
その他にも奈良時代の聖武天皇建立説や行基開基説など諸説があります。
どちらにしても、天平勝宝8年(756)の東大寺の古図に記されているので、
それ以前に創建されたことは確かです。

現在、奈良県庁の東をR369が南北に走っています。
この道を北に行くと京都に通じるので、京街道ともよばれ、かつて奈良と
京都の往来に頻繁に利用されていました。奈良坂はその途中にあり、
般若寺楼門の前から北上して木津(現京都府木津川市)・京都へ向かう道を
奈良坂越え(般若寺越え)とよぶ交通の要衝でした。
そのため、般若寺付近は平重衡の南都焼討、徳政一揆、
およそ半年間にわたり繰り広げられた松永久秀の
東大寺大仏殿の戦い・多門城の戦いの兵火にかかるなど、
多くの合戦の舞台となりました。

般若寺HPより転載した境内図に文字入れしました。

受付・拝観入口

楼門(鎌倉時代)国宝
般若寺楼門は1897(明治30)年に「古社寺保存法」により
(旧)国宝に指定され、戦後も「文化財保護法」(1950)施行と同時に
再び「国宝」に指定されました。
鎌倉時代、叡尊上人らによる
文永(1267頃)の際、文殊金堂と十三重石塔を囲む廻廊の西門として
建てられ、かつての境内の真ん中を貫く京街道に面して建っています。
室町・戦国時代には度重なる合戦の渦中におかれながらも
奇跡的に兵火をのがれました。楼閣づくりという意味の「楼門」
建築では日本最古の遺構です。はばたく鳥のつばさのような
軽やかな屋根のそりをもち、小さいながらも均等のとれた姿は
「最も美しい楼門」とたとえられています。全体の伝統の和様式で、
蟇股(かえるまた)や屋根を支える木組の肘木(ひじき)などに
新しく伝来した「大仏様」(だいぶつよう、天竺様とも)が折衷され、
二階の扉や欄干などにも軽快で繊細な感覚が見られます。
明治41年と昭和33年の大修理が行われましたが、
現在も各所に傷みが進行し修理が必要となっています。(
説明板より)



十三重石宝塔 重要文化財
(花崗岩製、総高14.2メートル、基壇辺12.3メートル)
奈良時代、平城京のため聖武天皇が大般若経を地底に収め
塔を建てたと伝えるが、現存の塔は東大寺の鎌倉復興に渡来した宋人の
石大工 伊行末(いぎょうまつ)が建長5年(1253)頃に建立した。
発願者は「大善功の人」としか判明しないが、完成させたのは
観良房良慧(かんりょうぼうりょうけい)で、続いて伽藍を再建し、
般若寺再興の願主上人と称された。以後数度の大地震や兵火、
廃仏毀釈の嵐に見舞われるも、昭和39年(1964)大修理を施し現在に至る。
初重軸には東面薬師、西面に阿弥陀、南面に釈迦、北面に
弥勒の四方仏を刻む。なお修理の際、塔内から発見の白鳳金銅阿弥陀仏と
その胎内仏は秘仏として、特別公開の時のみ公開される。(説明板より)

相輪だけが別に置かれています。
現在、頂上部分に置かれているのは後に補われたものです。
石造相輪(そうりん)
この相輪は十三重石塔の最上部に置かれる部分である。
石塔創建時(鎌倉時代、765年前)に造られた初代作で
大地震(南北朝か室町)で墜落し、三つに割れている。
昭和の初めに、国道(現県道)が般若寺旧境内を分断する形で
造られた時、工事現場で発見された。相輪は下から
露盤・覆鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪・
水煙・龍車・宝珠の七つの部分からなる。
二代目は本山西大寺の本坊庭に現存。
三代目(元禄16年作)は青銅製で当山に現存。
四代目は昭和の大修理の際、初代を模して新調された。
当相輪は、過去の大地震を記録する証しである。(説明板より)

戦国時代、旧金堂が焼けたあと寛文7年(1667)に再建された本堂。
本堂に安置されている本尊八字文殊菩薩騎獅(きし)像(
国重文)は、
再建の際に経蔵の秘仏本尊を移したものです。
文殊菩薩は、通常頭髪の結びを、
五髻(ごけい=五か所を結って髻が5
つある髪形)に
結っているのに対して、八字
文殊は八髻に結い、
真言も八字
で表されることからこの名がつけられています。

本堂前の般若寺型石灯籠
石灯籠(鎌倉時代、花崗岩製、総高3,14)
古来「般若寺型」あるいは「文殊型」と呼ばれる著名な石灯籠。
竿と笠部分は後補であるが、基台、中台、火袋、宝珠部は当初のもので、豊かな
装飾性を持つ。火袋部には鳳凰、獅子、牡丹唐草を浮彫りする。(説明板より)
灯籠の火を点す所を火袋(ひぶくろ)といいます。

重要文化財 笠塔婆(かさとうば)二基 (花崗岩製 南塔総高4,46m 北塔4,76m)

笠塔婆形式の石塔では日本最古最大の作例。また刻まれた
梵字漢字は鎌倉時代独特の雄渾な「薬研彫り」の代表作とされる。
弘長元年(1261))7月、宋人石工、伊行吉(いぎょうきち、いのゆきよし)が
父伊行末の一周忌にあたり、その追善と現存の悲母の供養のために建立した。
両塔の前面下部に伊行末の出身地、東大寺再建に従事したことなどその業績を記す。
当初は寺の南方にあったた般若野五三味(南都の惣墓)の入口、
京街道に面して建っていたが、明治初年の廃仏毀釈に遭い破壊され
明治25年に境内へ移設再建される。能の謡曲「笠卒塔婆」は本塔を題材にした
平重衡の修羅もので室町の頃は重衡の墓と見られていた。(説明板より)

2020年1月にスタートしたNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』にも
初回から登場する
下剋上の代表的人物として悪名高い松永久秀。
その居城多門山城(たもんやまじょう)の部材が般若寺に残されています。

石塔部材群(鎌倉、室町、戦国時代)
戦国時代、般若寺の近く(南西700m)に松永弾正久秀が築いた
多門山城(現在市立若草中学校敷地)という城があって、
日本で最初の天守閣(四層櫓と推定される)を備え、壮麗な城構えは
ヨーロッパにまで名を知られていたといいます。松永は織田信長に敗れ、
城は信長の命令で打ち壊され、建物は京都へ、城壁石材は郡山城移されました。
石垣には寺の礎石や「般若野」(般若寺の南側にあった奈良の惣墓所)の墓石、
石仏などが徴発利用され、今も郡山城に多数残っています。
般若寺境内に散在する五輪塔、宝篋印塔、石仏などの部材は、
多門山城跡の住宅地(城の北側空堀跡・現在の呉竹町など)から
寺に奉納されたもので、元の「般若野」から運ばれたものと推定される。
 現在も若草中の南入口近くには大量の石仏などが集められている。
(階段下の右側にあり)
(説明板より)

松永久秀は三好長慶の家臣として頭角を現しますが、その権力を奪おうと
長慶の子の義興(よしおき)を暗殺します。さらに室町幕府
13代将軍足利義輝を暗殺して14代将軍に義栄(よしひで)を
擁立し、
畿内の支配者となりました。織田信長が上洛してくると、いち早く降伏して
その家臣となります。のちに謀叛を起こした久秀は、
居城信貴山城(奈良県生駒郡)に籠城しますが、織田信忠に攻め落とされ、
信長が欲しがっていた天下の名物「平蜘蛛の釜」とともに自爆して果てました。

大塔宮護良親王が唐櫃に隠れ危難を逃れた経蔵。

重要文化財 経蔵 (鎌倉時代)
お経の全集である一切経(大蔵経)を収納するお堂。
建物は当初、床のない全面開放の形式で建てられ
何に使われたかは不明であるが、鎌倉末期に改造された。
収蔵のお経は中国で南宋から元の時代に大普寧寺で開版された
「元版一切経」(5500巻)で800巻余が現存している。
般若寺の一切経は仏教の教学研究に利用されるとともに、
毎年4月25日(旧3月)の「文殊会式」では一週間かけて
「一切経転読供養」が営まれ滅罪生善の利益を授けることにも供された。
『太平記』によると「元弘の乱」のとき、後醍醐天皇の子息、
大塔宮護良親王が南都において討幕の活動をして敵方の探索にあい、
般若寺にかくまわれた際、当経蔵にあった大般若経の唐櫃に潜み
危難をのがれることができたという。本尊は旧超昇寺の脇仏であった
十一面観音菩薩像(室町時代)(説明板より)

三つの唐櫃のうち、大塔宮は蓋の開いているひとつに身を潜め、経で身を覆った。
『太平記絵巻』(埼玉県立博物館蔵)『太平記2』より転載。

大塔宮が隠れたという大般若経が納めてあった唐櫃(からびつ)
般若寺蔵 『太平記2』より転載。

『太平記』は、南北朝の動乱を描いた軍記物です。
後醍醐天皇の第3皇子、大塔宮護良(もりなが)親王は、11歳で
比叡山延暦寺に入り、法名を尊雲(そんうん)と号し、天台座主を
4年間務めました。比叡山の大塔に住んだことから、大塔宮と称され、
「修学修行」(=学びを深め、それを実際に行動で示すこと)をよそに、
武芸にばかり励む血気にはやる異色の門主でした。
天皇親政の時代を招くため、父の討幕計画の推進力となって活躍し、
後醍醐天皇にとって最も頼もしい皇子でした。

『太平記(巻5)大塔宮熊野落ちの事』によると、討幕計画がもれ、
後醍醐天皇が還幸されていた笠置山が幕府の大軍に攻められると
いち早く抜け出した大塔宮護良親王は、
信貴山毘沙門堂にひそみ、さらに奈良の般若寺に隠れました。
これを知った幕府方の追手興福寺の塔頭一乗院に仕える侍者、
按察法眼好専(あぜちのほうげんこうせん)は、五百余騎を率いて
未明に般若寺に攻め寄せてきました。大塔宮は防戦しようにも、
その時つき従う者が1人もなく、もはやこれまでと自害を決意しましたが、
その前にあるいは助かるかも知れぬ、隠れて見ようと思い返し、
お経を入れた唐櫃の中に身を隠して難をのがれました。
こうなっては奈良近辺は危ういので、般若寺を出て
赤松則祐(のりすけ)、村上義光ら9人のお供とともに
山伏姿に身をやつし、十津川、吉野、紀州熊野などを転々とし、
還俗してゲリラ戦を展開しました。

その後、倒幕に成功して建武の中興とよばれる天皇の親政による
天下の和平が訪れましたが、それも長くは続きませんでした。
父・後醍醐天皇のもとで大塔宮は、征夷大将軍に任じられながら、
最後は鎮守府将軍足利尊氏と対立して鎌倉に送られ、
東光寺の土牢に長期幽閉された末に殺害されました。
明治になって東光寺跡に大塔宮の霊を祀る
鎌倉宮が創建され、土牢が復元されています。

大塔宮が追手を逃れるため経蔵の唐櫃に
潜んだということをふまえて詠まれた和歌や俳句です。
♪般若寺は 端ぢかき寺 仇の手を 
            のがれわびけむ 皇子しおもほゆ 森鴎外
♪般若櫃 うつろの秋の ふかさかな 阿波野青畝(せいほ)


般若寺中興願主上人 観良坊 良慧大徳 追慕塔
戦火のため廃墟と化してした般若寺を復興した中興の祖、
観良上人を追慕するために建てられた五輪塔です。





♪般若寺のつり鐘ほそし秋の風 子規
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
『アクセス』
「般若寺」奈良市般若寺町221
JR・近鉄奈良駅よりバス青山住宅行「般若寺前」下車徒歩約5分
拝観時間9:00~17:00(最終受付16:30)
短縮拝観時間(1月・2月・7月・8月・12月)9:00 〜 16:00
拝観料金 大人500円 中・高生200円 小学生100円

聖武天皇が奉納と伝える秘仏阿弥陀如来公開
4月29日~5月10日  9月20日~11月11日
『参考資料』
「奈良県の歴史散歩(上)」山川出版社、2007年
 野島博之「図解日本史」成美堂出版、2007年
徳永真一郎「物語と史跡をたずねて 太平記物語」成美堂出版、昭和53年
日本の古典を見る「太平記(2)」世界文化社、2002年

 



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コメント
 
 
 
歴史の古いお寺が未だに残っているのは奇跡ですね。 (yukariko)
2020-02-04 14:19:50
629年に開かれたといわれる般若寺が度々の戦火に会いながらも栄枯盛衰を繰り返しながらも存続し、明治の廃仏毀釈の嵐にも無くならず、その昔の歴史を今に伝えているのは素晴らしいことですね。

実家が伏見だったので高校生の頃は自転車で宇治萬福寺や平等院へ、木津から奈良坂越えで奈良の町を走り回ったのですが、奈良阪まで来ると『やっと奈良に着いた』と思えたので懐かしい気がします。
歴史は好きでしたが今のような詳しい知識もなかったので、各地を回れる現代の『歴女』が羨ましいです。
 
 
 
サイクリングですか。 (sakura)
2020-02-07 12:17:40
気持ちよさそうですね。
あの頃は元気で楽しかったですね。

最近はアニメや大河ドラマなどがきっかけになって、
歴史好きの若い女性が増えてきましたね。
インターネットなどを通して歴史の舞台の情報や
アクセスが簡単に手に入るようになって訪問しやすくなってきました。
 
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