コメント
 
 
 
水分神社までは何度も行きましたが… (yukariko)
2017-09-15 13:42:07
友人達もその上まで行こうといっても『もう何もないだろう』と同意してくれず、いつも神社に参拝して引き返しています。
だから体力の無くなった今はもう無理なので、詳しい記事と何枚もの写真で見せて頂けて嬉しいです。
世俗を離れた筈の西行がじっと世の移り変わりを見ていたのですね。よく知っている人達の転変だからこそ、感慨もひとしおだったことでしょう。

2008年の春に西行法師が桜に囲まれて入寂された終焉の地「弘川寺」を姑と主人の三人で訪ね西行庵のずっと奥山まで登りましたが、姑が気にかかるので心を残しながら帰りましたっけ。
 
 
 
そうでしたね (sakura)
2017-09-16 07:54:54
その節は、弘川寺を訪ねてくださってありがとうございました。
あの頃は、お姑さんが快く送り出してくださるので、
あちこちお出かけになれていい時でしたね。

世俗を離れたはずの西行がじっと世の移り変わりを見ていたのですが、
平重衡によって焼かれた東大寺再建のため、奥州へ旅立っています。
69歳の時です。勧進職の重源から、西行の同族藤原秀衡への
砂金勧進の依頼を受け平泉を訪ねたのです。

♪年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

これは、難所で有名な掛川の小夜の中山を通る時に詠んだ歌です。
弘川寺にもこの歌碑があったと思います。

二度目の奥州への旅、若い時と違い文字通り命がけの旅だったのでしょう。

平成16年の秋、講師に引率されて大峯奥駆け道を歩いた時、西行庵も訪ねました。
その時は何とも思わなかった庵への急坂、
今度は手すりを持ちながらゆっくりと下りました。
 
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