平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



藤原景清(?~1195年?)は伊勢を本拠とした上総介藤原忠清の子で、
上総判官忠綱・上総兵衛忠光の弟にあたります。
上総七郎兵衛とも悪七兵衛ともよばれ、体は大きく、公達そろいの
平家一門の中では、異色の勇猛果敢な豪傑として知られています。
本姓は藤原ですが、俗に平景清といわれます。
父の忠清は小松家(重盛やその息子たち)の有力家人で、
源氏が挙兵すると侍大将として各地を転戦し活躍します。

景清は頼政軍との宇治川の橋合戦に侍大将として初登場し、以降、義仲追討の
北陸合戦には、父忠清や兄忠光とともに侍大将として出陣し大敗します。
新宮十郎行家との播磨室山合戦、一ノ谷合戦など平家方の主要な武将の
一人とし
数々の合戦に参戦しました。
屋島合戦では、十人力のもち主という源氏方の
美尾屋(水尾谷、美穂谷)十郎と死闘を繰り広げ、何とか逃げようとする十郎の兜の錣を
素手で引きちぎる「錣引き」の場面は、屋島合戦のハイライトのひとつとなっています。
錣(しころ)は、首回りを守るために革や鉄板をつづり合わせて
作ったもので、
非常に丈夫に出来ていま

景清の一族はみな、頼朝暗殺に執念を燃やします。父忠清は一門の都落ちには
同行せず、本国の伊勢にとどまり、元暦元年(1184)に平家継(平家貞の兄
総大将となって
伊賀・伊勢で大規模な反乱を起こすと、平家残党の
平家清(平宗清の子)、平家資(家貞の弟家季の子)らとともに参加します。
反乱軍は近江に向かい追討軍と近江国境付近で激突し、佐々木氏の
礎を築いた鎌倉軍の佐々木秀義や反乱の首謀者平家継が戦死するなど、
両軍とも多くの犠牲者を出し乱は鎮圧されました。(元暦元年の乱)

忠清は戦場から敗走しましたが、翌年、捕われ六条河原でさらし首にされました。

景清の兄忠光は
ノ浦の戦場から脱出し、魚の鱗で左目をおおって盲者を装い、
人夫となって永福寺(ようふくじ)の工事現場に紛れ込み
頼朝暗殺の機会を窺っていました。しかし、その容貌を怪しまれて捕われ
和田義盛に身柄を預けられた後、湯水を絶っていたが、
六浦海岸(横浜市金沢区)で晒し首になったという記事が『吾妻鏡』に見えます。


一方、景清も一門が入水する中、ノ浦から逃れて各地でゲリラ活動を続け、
源氏追討に並々ならぬ闘志を燃やします。これについて多くの諸本が
紀伊国湯浅氏のもとに潜んでいた重盛の子息、忠房を擁して兄の忠光らと
戦ったことや伊賀大夫知忠の謀反に与したことを記しています。

あちこちさまよったあと、叔父の能忍を頼って身をよせますが、
源氏の追跡は厳しく、能忍は土蔵に隠して下男と二人で世話をします。
ある日、能忍は景清が小さい頃からそばが好きだったのを思いだし、
下男に「そばを打て」と命じました。ところが土蔵の中にいた景清には
「首を討て」と聞こえたから大変です。叔父が自分の首にかかった賞金に
目がくらんだと思い込み、いきなり蔵から飛び出し能忍を一刀のもとに
斬伏せたところに、下男がそばを運んできて、はっと気づいた景清。
いずこともなく去っていきました。大阪市のかぶと公園(豊新4丁目)には、
叔父を過って殺害したのを悔やみ、この辺りでかぶとを脱ぎ捨てて立ち去ったことや
摂津国島下郡吹田に三宝寺という大寺院を建立した大日坊能忍が
平家一門の景清を匿ったという伝承が『大阪伝承地誌集成』に記されています。
三宝寺は焼失したとみられ、現在はありません。

その後のことは諸説ありますが、『百二十句本・平家物語』には、
絡めとられて鎌倉に送られ、武勇を惜しんだ頼朝は、
宇都宮に身柄を預け帰順を勧めますが、景清は断食のすえ、
東大寺大仏供養の日に死んだとされています。

『平家物語』における景清は平家方の主要な武将の一人にすぎませんが、
その運命や過酷な逃亡生活を続けながら、執拗なまでに頼朝の命を狙い続けた姿に
能や歌舞伎・浄瑠璃などの作者は、魅力を感じたのでしょうか。
景清は古典芸能の主人公に仕立てられていき人気を集めました。
古典芸能において、景清が題材に取り上げられ、彼が登場する一連の作品を
「景清物」とよび、『平家物語』に描かれた姿からは大きく外れ、英雄化されていきます。

平家滅亡後、建久六年(1195)三月、大仏供養に加わるため将軍頼朝が
東大寺に到着した時、頼朝を狙う男が近くに潜んでいました。
『長門本』には、「大仏供養の日、南大門の東のわきに怪しげな侍がいた。
梶原景時が捕えてみると、平家の侍、薩摩中務丞宗助という男で頼朝を
殺害しようとひそんでいたと白状したので、頼朝は供養が終わった後、
六条河原で斬るよう命じた。」とあり、
また、元暦元年の乱で逃亡した小松家家人の平家資(いえすけ)は、
東大寺落慶供養に参加する頼朝の命を狙って東大寺転害門(てがいもん)
付近に潜んでいたところを捕らえられ処刑されたという。
これらの逸話が謡曲「大仏供養」や舞曲「景清」に発展し、
景清が執念深く頼朝の命を狙う様子を描いています。

景清は清水寺の音羽山に身を潜め、せめて景清一人なりとも頼朝に一太刀振おうと、
自然石に爪で観世音菩薩を彫りながら機会を待っていると、奈良で大仏供養が
行われるという情報が入り、頼朝を討とうと東大寺の転害門に隠れて
待ち伏せしますが、畠山重忠に見破られ逃亡します。



景清が爪で彫ったという小さな観音像は、
清水寺随求堂前の石灯籠の火袋内に安置されています。

清水寺には、景清の足型石とも弁慶のものともいわれる仏足石が残っています。

平家再興を企て江ノ島の岩牢から脱出し、怒りの荒事を見せる「景清」は、
歌舞伎十八番のひとつとして、江戸庶民に大人気でした。

景清を押し込めたと伝わる岩窟の跡が、
鎌倉市の化粧坂(けわいざか)と山王ヶ谷の分岐にあります。

「景清土牢」「水鑑景清」「景清窟」などともよばれている洞窟ですが、
あたりは薄暗い上に説明板もなく、うっかりすると通り過ぎてしまいます。

平景清伝説地(平景清の墓)  
『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と在地伝承)」吉川弘文館、2009年 
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂、平成20年 白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年
 歴史群像シリーズ「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
   別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社、2004年 「大阪府の地名」平凡社、2001年
 京都新聞社編「京都伝説散歩」河出書房新社、昭和59年 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館、2009年 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館、2009年

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
実に破天荒な人物ですね。 (yukariko)
2016-05-19 23:37:56
源氏にも平家にも異色の人物、武者が何人もいたという事ですね。
各地に転戦し戦に明け暮れていて、その性格も荒々しいままに自分流のこだわりに固執する生き方を貫く事になってゆくでしょうね。
頼朝が幕府を開き、世の中が少しづつ落ち着いてきても新しく作り上げられてゆく世の仕組みの中に自分の場所を見つけられず、彼らなりに苦しんだのでしょうか。

物語の中では勇者でも、事なかれを標榜する身内にとっては破天荒な生き方を止めない彼は一族の困りものだった事でしょう。
 
 
 
伝説上の景清 (sakura)
2016-05-21 09:28:33
一枚岩を誇っていた平家一門も都落ちに際しては、
主流派の宗盛と違う動きをした人たちがいたことは以前にも見ました。
清盛の異母弟頼盛や小松家の家人たちです。

元暦元年の乱では、伊賀伊勢に隠れていた小松家家人や
頼盛の家人平宗清の子らが謀反を企て、戦死したり処刑されています。

その他果敢に頼朝の暗殺しようとした平家残党も多くいたことでしょう。
古典芸能は残党の意地をみせた彼らの抵抗ぶりや各地に残る
平家残党に関する逸話を景清に代表させて描いたと思われます。
 
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