コメント
 
 
 
般若寺も写真で見せて頂くと… (yukariko)
2011-03-20 18:49:30
「謂れを聞けばありがたい」と言いますが、知らないと単なる古寺にしかすぎません(笑)

はるか昔に訪れた時は寂れたお寺でした。
次にコスモスの頃NHKで放映され行ってみたら荒れたお寺と風情のある庭のコスモス、その花の間を人がうろうろ、もうだいぶ経って行ったら、境内はきれいに整備されていましたが観光バスと自動車が連なってごった返していました(笑)
お寺の由来はよく知りませんでした…貰って読んだ筈ですが今のような読み解いて貰った知識が全くない頃なので頭には残らなかったのでしょう。

先日の奈良行きでも鐘楼の横を通って二月堂に、帰りは「手向山神社」の参道を降りてきましたが、ここが管家の『紅葉の錦神のまにまに』の手向山八幡宮だと気付いていませんでした。
今回のお写真で手向山八幡宮の楼門を見て、行く時入口前を通ったのに…お参りすればよかった…と思った事でした(笑)
 
 
 
お返事遅くなってすみませんでした (sakura)
2011-03-26 11:58:14
実家に用事があって家を留守にしていました。
ところで昨年のお正月に百人一首を一生懸命覚えておられたので、残念に思われるのですね。この歌は「古今集」にも朱雀院(宇多上皇)の奈良におはしましける時に手向山にて詠める 菅原朝臣)として載せられています。
宇多上皇が奈良・吉野・竜田・難波に行幸された際、菅原道真も従い、一般に手向山八幡宮の裏山、若草山の西端の八幡山・天地院山(手向山)を詠んだとされ、手向山八幡宮の境内に歌碑が建っています。またの機会におたずねになって下さい。
少し話はそれますが、「手向け」は峠の語源、「たむけ」がなまって峠となり、
旅の道中の無事を祈って道の神に幣を手向ける場所をいいます。道は未知の国へ行く通路で手向け(幣をささげる)をしないと通してもらえないと考えられていました。
道の神に道中安全を祈る「手向山」は普通名詞的に使われ、「万葉集」巻三では奈良山(平城山)をさし、近江と山城の国境にある逢坂山も「万葉集」巻六・巻十二では手向山として詠まれています。
このことから道真のこの歌も手向山八幡宮の裏山をさすとは断定できないともいわれています。

 
 
 
Unknown (妹尾兼衡)
2019-06-15 15:05:45
其の妹尾太郎兼康の子孫です。
彼が如何なる出自か御存知ですか?高倉上皇・以仁王の伯父で在り、安徳天皇の大伯父で在り、後白河法皇の異腹兄で在り、則ち鳥羽法皇と小鳥羽殿と言われた、女官で治部大輔平兼孝の娘、平保子の間に生まれた御子です。
非武装の妹尾家家人郎党を虐殺とは僧侶を語る邪魔外道としか申せません。
南都の僧は、妹尾家家臣の弔いをしてるのでしょうか?
 
 
 
妹尾兼衡さま (sakura)
2019-06-16 15:43:42
ご訪問ありがとうございます。

「平家物語」には、重衡の南都出陣の前に清盛が瀬尾(妹尾)兼康をまず派遣したとあります。
富倉徳次郎氏は重衡が数千騎を率いて発向したことは「山塊記」に見えるので
史実であるが、兼康のことは「玉葉」「山塊記」には、記されていないので、
史実かどうか明らかでない。と述べておられます。(「平家物語・全注釈(中)」)
「平家物語」は、事実を書いた歴史書と受けとめられますが、物語には史実からかけ離れた説話や逸話も載せられています。
兼康の出自には諸説あるようですね。

兼康の主家に対する忠義心は、「瀬尾(せのお)最期」の章段で、
冷酷非情な闘う者のあり様を生々しく伝え、私たちに大きな感動を与え
問題を考えさせてくれる物語となっています。
兼康は最後のところで、自分にとつてかけがえのない存在が何であったかを思い起こし、
我が子を捨てきることができず、小太郎ともに死ぬことを選びましたね。

 
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