平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



京都市伏見区醍醐外山街道町の住宅団地の公園には、
南都攻撃の総大将となった平重衡(1157~85)の墓があります。
小さな五輪塔を寄せ集めたような塚で、傍には
「従三位平重衡卿墓」としるした石標が建っています。

一ノ谷合戦で捕虜となった重衡は、鎌倉に送られ頼朝に厚遇されましたが、
南都の衆徒の強い要求によって木津川の河原で処刑され、奈良坂に首をさらされました。
遺骸は北の方に引取られ、日野で荼毘にふされた後、
火葬地に塚を築き、骨は高野山の奥の院へ納められたという。



公園近くの角に建つ「従三位 平重衡卿墓」の石碑。

墓標は団地に囲まれた小さな公園の一画にあります。
『山城名勝志17』に、「平重衡卿の墓法界寺の北五町許り
茶園の内に在り」とあり、かつて辺りは茶畑だったようです。
 


「平重衡塚
 この地は、平重衡の北ノ方大納言佐局が、平家没落後、
身をよせていたところと伝えられる。
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉に送られた平重衡は、南都大衆の訴えによって
前年の南都焼打の責を問われ、文治元年(1185)鎌倉から奈良に引渡されたが、
途中、この地に立ち寄って大納言佐局と別れを惜しんだ。
その情景は、付近の合場川・琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。
木津河原において首をはねられた重衡の遺骸は、すぐさま引取られ、
火葬後、この地に埋葬されたといわれる。 京都市」(説明板より)

奈良へ護送される途中の日野には、北の方大納言佐局(すけのつぼね)

住んでいたので、重衡は守護の武士に頼んで
北の方との最後の別れをしています。
2人は離れ離れになってからこれまでのことを互いに語り、
重衡は自分の髪の毛を食い切って渡し、北の方は重衡が
よれよれのものを着ていたので、新しい浄衣に着替えさせ、
形見に何か書いてほしいと硯をさし出します。

 ♪せきかねて涙のかかる唐衣 のちの形見にぬぎぞかへぬる
(悲しみを抑えられずに涙で濡れてしまった唐衣を、
のちの形見に脱ぎかえておきます。)
と重衡は泣く泣く和歌を一首したためました。

北の方は返歌に
  ♪脱ぎかふる衣も今は何かせむ 今日を限りの形見と思へば
(脱ぎ変えて残してくれた着物も、今となっては何の慰めになりましょう。
今日限りの死出の旅路の形見と思えば。)

重衡は袖にすがって引き止める北の方を振り切り
「生きのびることが許されない身、また来世でお会いしましょう。
ひとつの蓮の上に生まれ変われるようにと祈ってください。
さぁ日も傾きました。武士たちが待っております。」と死地へと赴いたのでした。

後世、『平家物語・巻12・重衡の最後』に見える哀話から、
二人をいたむ伝説が生まれました。
付近を流れる川を合場川「阿以波(あいば)川」といい、
南都に送られる重衡と北の方大納言佐局が別れを惜しんだ場所といわれ、
「琴弾山(合場川の東の小山)」は北の方が平重衡と別れる際、
この山に上って琴を弾き、別離の情を
その音に託したところと伝えています。(『山州名跡誌』)

 牡丹の花にたとえられる平重衡(清盛の5男)は明るくて社交的、宮中でも
人気の好青年でした。一ノ谷合戦で生田の森の副将軍を務めた重衡が敗走する途中に
須磨で生捕りにされたのは、平氏滅亡の1年前の寿永3年(1184)のことです。
都で引き回された後、鎌倉に送られ頼朝と対面した重衡は、
東大寺・興福寺を焼く意図はなかったこと、しかしその罪は負うつもりであるといい、
「情けがあるなら一刻も早く我が首を刎ねてほしい」とだけ述べ
それ以上はいっさいの申し開きをしませんでした。
頼朝はその凛とした態度に感じ入って助命を考え丁重にもてなしました。

平家滅亡後、南都焼討の所業を憎む奈良の衆徒たちからの強引な
引き渡しの要求に結局、頼朝はこれに応じて奈良に下しました。
都に近づいて、大津から逢坂の関を越え、山科を経て醍醐路を通過すると、
日野(京都市伏見区日野)にさしかかります。

重衡の妻・藤原輔子( ほし=大納言藤原邦綱の次女)は、
安徳天皇の乳母をつとめ、
従三位典侍・大納言典侍・大納言佐などと称しました。
壇ノ浦合戦で安徳天皇のあとを追い入水しようとしたところを
捕らわれて京に連れ戻され、日野にいる姉の
大夫三位(邦綱の長女成子)のもとに身を寄せていました。

姉の成子は六条天皇(安元2年=1176年崩御)の乳母で、夫の
藤原(葉室)成頼は、承安4年(1174)に出家し高野山に入りました。
成子は夫の出家、六条天皇の退位(5歳)、崩御(13歳)の
後に尼となり、醍醐と法界寺の境の日野に住んでいました。

『醍醐雑事記・巻10』によると、
邦綱は醍醐寺と法界寺(伏見区日野)との境にお堂を建てるための
敷地を購入しています。このことから邦綱がこの地に建てた
お堂に成子が住んでいたのではないかと思われます。

姉妹の父の藤原邦綱は、諸国の国司を歴任して財力を蓄えた
人物として知られています。財力を基盤に平氏と結びつきを強め、
娘たちが六条・高倉(邦子)・安徳天皇の乳母を務め、権勢をふるいました。

治承4年(1180)11月、清盛が反平氏の拠点となった南都を抑えるために
重衡に命じて攻撃させた時、重衡を総大将とする平家軍は、邦綱の山荘
若松亭(現、京都市小松谷正林寺東側の清閑寺池田町)に集合しています。

若松亭(東山亭とも)の苑池・若松池の一部が江戸中期まで
残っていましたが、今は埋没して跡形もありません。
この地を清閑寺池田町と呼んでいるのは、若松池によるものと思われ、
山荘はそうとう広かったようです。
平重衡とらわれの松跡    
平重衡終焉の地(安福寺・不成柿・首洗池) 
平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)   
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
『アクセス』
「平重衡の墓」京都市伏見区醍醐外山街道町15-10
京阪バス「合場バス停」下車徒歩約7分
(バスの本数が少ないのでご注意下さい。)
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
 斎藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ選書6、1993年
 武村俊則「昭和京都名所図会(洛南)」駿々堂、昭和61年
武村俊則「昭和京都名所図会(洛東上)」駿々堂、昭和55年 
「京都市の地名」平凡社、1987年 
「平家物語を読む」講師:上横手雅敬氏
(2011・1・17 2011・2・14テキスト)

 

 

 

 

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
大将は責任を取らないといけないものですが… (yukariko)
2019-12-02 12:28:42
南都焼討の責任全部が重衡のせいだったとは強弁すぎるとは思いますが、予期せぬことが起こってしまったことを後からとやかく言っても始まらないのでしょうね
南都の僧たちも政治的圧力として頼朝に対し、高圧的だったでしょう。
でも彼にとって敗戦後、自害できずに護衛の武者に置き去りにされてただ2騎で逃げ、兄弟とも頼む乳母子に瀬戸際で置き去りにされて捕まったというのは、敗戦そのものよりも深い心の傷になったことでしょう。
この処刑がなかったとしても仏門に入るか高野山に登って隠棲するぐらいしかなかったでしょうから、彼にしたらどうなっても同じだと諦めきっていたのではないでしょうか。妻に会えば共に嘆いたとしても…。
 
 
 
物語作者は、重衡に対してきわめて同情的です (sakura)
2019-12-03 17:55:18
もちろん、重衡は東大寺・興福寺を焼き払おうと意図していたわけではありません。

「平家物語」では「夜戦になって、あまりにも暗いので、
重衡は般若寺の門前に立って、火をつけよ、と命じると、
次郎大夫友方が、楯を割って松明にして民家に火をつけたが、
折からの強風で火は瞬く間に燃え広がり東大寺や興福寺などの寺々も類焼した。」とあり、
重衡の命令の内容を曖昧にし、友方一人の身勝手な判断のように記しています。

さらに「重衡が南都を滅ぼして京都へ帰ると、入道相国ひとりだけは、
憤懣も晴れて喜ばれ云々」とあって、南都焼討の大罪を
ことさら清盛ひとりに押し付けようとしています。

一ノ谷で義経の奇襲攻撃に敗れ源氏方の武士に追われた重衡は、
味方の助け船に乗り遅れて馬を射られその上、
乳母子にまで逃げられ自害しようとしたところを捕えられました。
後白河法皇は三種の神器と重衡の身柄を交換するよう屋島の平家に院宣を下しましたが、
平家の総帥宗盛はこの交換を断り、結局、重衡は鎌倉へ送られました。

愚管抄に「南都の要求に屈した頼朝の態度に、
世間の人々は舌打ちをした。」とあるので、
当時の人々も重衡の運命に深く同情していたのでしょうね。

静かに念仏を唱えて首を討たせた重衡は、
すべてを宿命として受け入れる心の準備ができていたと思います。
 
 
 
Unknown (jikan314)
2020-02-17 12:49:37
ブログフォローしている方の本日のブログに、埼玉県の児玉に重衡の首塚があるとの事でした。
既にご存じかと思いますが、お知らせします。
拙句
梅ヶ枝に雪や降るらん令和の地
(本日福岡は雪とか)
 
 
 
情報ありがとうございました。 (sakura)
2020-02-17 16:02:18
jikanさま
埼玉県の重衡の首塚は知りませんでした。

覚一本では、梶原源太がもしやと思って射た遠矢が、
重衡の馬の後足の付け根に深々と突き刺さったとしていますが、
百二十句本(新潮日本古典集成「平家物語(下)」)によると、
須磨と播磨との国境辺りで、児玉党の庄の四郎高家が放った矢が
重衡の馬の尻の部分にあたったとしています。
このことから埼玉県児玉に重衡の首塚があるのでしょうね。
一ノ谷合戦では、児玉党・猪俣党・私市党などの武蔵七党の
面々がさして多くもない手勢を引連れて功名をめざして大活躍しました。

『高野春秋』元暦元年七月には、「木工右馬允知時が
重衡の髑髏を高野山の奥の院におさめ、往生院(蓮華谷)三宝院に宿泊した。」と
記載されていますが、この時、木工右馬允知時が宿泊した
三宝院にも重衡の墓があるそうです。
 
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