平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




吉野山の桜が歌に多く詠まれるようになったのは、平安時代からで
その桜を有名にした一人が
西行法師(1118~1190)です。
吉野の桜を愛し多くの歌を残しました。

平安時代末期の貴族社会から武家社会にかわる政治的転換期、
保元の乱の火種が大きくなり始めた保延6年(1140)頃に出家して西行となり、
義経が衣川で自害し、頼朝が奥州を平定した後、72才で没しています。
従って平家の隆盛と衰亡の一部始終を、目の当たりに見て過ごした訳です。

   

保元の乱で敗れた崇徳上皇やその母
待賢門院とは
深い繋がりがあり、
平清盛や源頼朝等とも交流がありました。

俗名佐藤義清、和歌山県那賀郡打田町生?
佐藤家はむかで退治で知られている藤原秀郷
(俵藤太)の流れをくむ武門の家柄で、
社会的には下級官吏でしたが
広い荘園を有する富裕な家でした。
母は源清経の女(むすめ)で祖父清経は
今様や蹴鞠の名手として有名であり
当時知られた風流人でした。

文武の血が西行に受け継がれて
いった
ということになります。
18歳から北面の武士として鳥羽院に
仕えましたが(平清盛とは同年同職)

23歳で京都の勝持寺で突然出家し、
円位、西行と称し一株の桜を植えました。
人々はその桜を西行桜と名づけ、寺を
花の寺とよぶようになりました。
出家の原因は厭世説、政治原因説
鳥羽上皇の中宮であった待賢門院璋子への
恋ゆえと
いう説もありますが謎とされています。
何不自由のない佐藤家の嫡子が若くして
出家したことは当時大変驚かれました。
出家後京都の周辺に居住して東山や嵯峨に
庵を
結び鞍馬にも足を運び
修行に
励んでいました。
29歳頃奥州の旅に赴き
能因法師の足跡をたどります。
後芭蕉が西行を慕って奥州を旅したとも
いわれています。(奧の細道)
以後30年ほど高野山を拠点に諸国を遍歴。
壮年時代吉野に庵を結び3年間を過ごし
大峰奧駆道修行をします。
熊野・中国・四国にも旅し
各地で数々の歌を詠みました。

(北面の武士)
御所の警備・行幸の際の皇家を司る武士
詰所が御所や鳥羽殿の北にあったので
こうよばれました。

(保元の乱)1156年
崇徳上皇と弟後白河天皇が皇位継承を
巡って皇族、公家、武士、肉親同士が相争う
戦いを
起こしました。
吉野山西行庵
横270cm奥行180cm
高さ65cmばかりの庵です。
西行庵から奧駈道に戻り青根ヶ峰を目指します。
苔清水
西行庵近くにある岩間より流れくる清水

”とくとくと落つる岩間の苔清水
汲みほすまでもなきすみかかな”西行

芭蕉もここで
”露とくとく試みに浮世すすがばや”
と詠んでいます。
昭和45年まで女性の入山を拒んできた
女人結界の碑。
この前を通り過ぎ青根ヶ峰へ
標高858mの頂上に着きました。
登山者が残していったのでしょうか
登頂記念の札がぶら下っています。

木々に囲まれて景色は望めません。
この先も熊野に向かう奧駈道が続きます。
      『アクセス』
近鉄電車「吉野駅」下車青根ヶ峰まで約8㎞ 徒歩約3時間        
   又はバス15分奧千本下車 徒歩約1時間30分。

系図は佐藤系図より、地図は吉野山ハイキングマップより
お借りしたものに一部文字入れさせていただきました。

佐藤氏は藤原秀郷より六世の孫公清にはじまり、
公清の官名が左衛門尉であったため左衛門尉の左をとって
佐藤と称したといわれます。
西行法師を平安時代末~鎌倉時代始の人とする説もありますが、
鎌倉時代の始まりを頼朝が幕府を開いた時(1192年)とする
一般的な説に従わせていただきました。


コメント ( 6 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
勝持寺の西行桜は見ましたが…。 (yukariko)
2007-04-07 19:20:29
吉野山は金峰神社までしか行かず西行庵は知りませんでした。
詳しい記事をありがとう!
その辺りの写真を見られて嬉しいです。

河内弘川寺没した西行の辞世の句
「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」は桜の季節になると思い出します。桜を愛し満開の桜を見たらもう思い残す事はないという気持ちがよく分かるからです。
 
 
 
金峰神社まで行かれましたか (sakura)
2007-04-08 18:09:17
吉野山もロープウェイで上がった所の金峰山寺の辺りがお土産やさんもあり一番観光客が多いですね。
中・上千本になるにつれ観光客もだんだん
減っていって奧千本の金峰神社からは
これというものもないので、
ハイカーも一層少なくなります。
静かすぎるくらいです。
苔清水から西行庵へ上がる所に続く石畳が
とても風情があってきれいでした。
カメラで撮ってくればよかったと
今頃悔やんでいます。
桜がお好きなyukarikoさんきっと桜の季節に行かれたのでしょうね。

弘川寺は随分前に近鉄電車の上ノ太子駅から
峠越えで歩きました。ちょうど桜祭りの日で
どこかの大学のブラスバンドの演奏やお店が出ていて
桜も満開でしたが、人も満開!
静かな時にもう一度たずねたいお寺です。
コメントありがとうございました。
 
 
 
いつもながらご立派なブログです。 (kazu)
2007-04-13 09:28:04
もう専門書に近い旅日記の書き込み、その奥深さに感嘆しています!

主人も史跡巡りが好きで、時々見させてもらっています!
きっちりした書き込み報告に驚いています!

私のHPアドレスの変更のお知らせです!
お手数をおかけしますが、設定変更を宜しくお願いします!

http://www.geocities.jp/okki9cake1pooh/

 
 
 
私も好きな歌でした(40年ほど前) (フーミン)
2007-04-13 20:57:14
「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」
これは西行法師の歌でしたか
遠い昔の記憶がよみがえり、確か中学生の頃かしら?
私も感動しました
日本史はあまり興味がなかったのでお勉強しなかったのですがこうしてsakuraさんのブログで興味を持つことができて嬉しいです
私にとっては知らないことばかりで、本当に良くお調べですね
知らずにぼんやり歩くのと知って興味を持ち歩くのとでは、雲泥の差ですよね
 
 
 
kazuさんへ (sakura)
2007-04-14 18:22:56
拙い私のブログを時々でも見て下さる
ご主人にお礼を言っておいてください。

ついつい好きなことなので書きすぎて
しまうので反省しています。

要領よく短くまとめるように心がけます。
アドレスが変わったとのことですので、
今からジャンプします。
コメントありがとうございました。
 
 
 
私もこの歌が好きで弘川寺へ行きました (fumiさんへ)
2007-04-14 18:51:42
やはりfumiさんも
西行法師のこの歌がお好きなのですね。

yukarikoさんからのコメントのお返事に
書かせていただいたように、弘川寺に
以前たづねた時は桜祭りのバンド演奏と
沢山の人でガッカリしました。

来年の桜の前にもう一度たづねます。

今懐かしくなって、たづねた時の
資料を出して見ていたら

近鉄電車・上ノ太子駅9・30分出発
叡福寺(聖徳太子の御廟)・小野妹子の墓
磐船神社に寄り平石峠を超えて弘川寺に
13・40分頃に到着していました。

今度は楽をして富田林から行きます。

 
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