
大阪市淀川区の光用寺には、悪七兵衛景清の墓があります。
光用寺は天平19年(747)行基が創建したと伝えられる古刹で、暦応年間(1338~42年)には、
赤松範村が「比翼さつき」と呼ばれる珍しい品種のさつきを奉納し、
江戸時代には「さつき寺」の名で親しまれました。

阪急電車南方駅前


光用寺山門


本堂裏に大小七つの塚が並んでいます。
ご住職から「七つの塚のうち二番目に大きいのが景清の墓と伝わっているが、
他は誰の塚かわからない。」と伺いました。

壇ノ浦合戦で平家の武将の多くが海に沈んだ中で、生き延びた平景清には、
各地にさまざまな伝承が残っています。生目神社のある宮崎市にも景清廟があり、
いつ誰がこの墓を建てたのかは不明です。
景清が疑心暗鬼になって日本達磨宗を開いた叔父の能忍を誤って殺したのは、
建久五(1194)年後半から同六年と推察され、その後の景清の消息は
明らかではありませんが、『延慶本・平家物語』には、「天下が平定された後、
悪七兵衛景清は降人となって参上し、当初、和田義盛に身柄を預けられるが、
態度が不遜で一向に従わないので、義盛は手を焼き、
八田知家に預かり役を交代してもらった。
景清は後に法師となって常陸に住み、東大寺供養の日の
建久六年(1195)三月十二日、絶食して死んだ。」と記されています。
景清としては、もはや平家再興の望みは消え失せ、一方では、十年もの
長きに渡る逃亡生活にも疲れ果て、中でも匿ってくれた叔父を殺害したことが
逃亡潜伏生活の転機となったようです。頼朝は景清の忠節を惜しみ、
仕官を勧めたと思われますが、いったん降伏した上で自害しようという
景清の決心は固く、悲劇的な末路が伝わっています。
後に景清は『平家物語』から溢れだし、歌舞伎・古浄瑠璃・浄瑠璃・
幸若舞・講談・絵草子の主人公となり、鮮やかに描き出されます。
浄瑠璃や謡曲には、何度も失敗を重ねながら、それでもなお頼朝の首を
執念深く狙うという内容の作品があります。江戸時代、京や大坂の舞台では、
源平合戦を題材にした浄瑠璃・歌舞伎・能などが人気を博し、
景清は鎌倉幕府に反逆した男として広く知られ、大衆の人気を集めました。
景清の墓は、古典芸能に描かれている不撓不屈の英雄を
哀悼する人々によって、作られたのではないでしょうか。
赤穂浪士もですが、事が終わり、裁定が下されて従容と切腹したからこそ、後世の人々によってその苦労の物語が美談として語り伝えられているのだと思います。
叔父能忍が自分の居場所を密告するため、弟子を走らせたと誤解して殺害、
仏教界の大物を葬り去りましたが、これも「逃げ上手」、
「生き上手」といわれた敏捷な行動の結果です。
壇ノ浦合戦から十年も過ぎると、鎌倉幕府の平家残党に対する敵愾心は薄れ、
頼朝は平家の侍で仕官しようとする者があれば、召し抱えるよう指示しています。
しかし、自害しようという景清の決心は変わらなかったようです。
今は、新大阪の駅前と云う大変にぎやかそうな場所に有るのですね。
又、2番目に大きい五輪塔が景清の墓と云うのも興味深いですね。
景清物が、人気を博したのに大きくはしなかったので、逆に信憑性が高い伝説かと。
新大阪駅、南方駅のあたりは賑やかですが、寺の周辺は
人通りがなく、とても静かです。
「大阪伝承地誌集成」には、七つの塚は景清とその家来のものと
書かれていますが、そうではないそうです。