平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



元歴元年(1184)、朝廷は讃岐で亡くなった崇徳院の冥福を祈り怨霊をなだめるため、
保元の乱の戦場となった白河北殿の旧地に粟田宮を建立し、
院遺愛の八角の大鏡をご神体にして、
崇徳院とともに藤原頼長・源為義の霊を祀りました。

粟田宮は春日河原に祀られた御廟で、賀茂川の水害を避けるため、
東方の地に移されました。現在京都大学医学部付属病院の敷地となっている
聖護院河原町をその址と伝えています。
度々災害にあい再建をくりかえしましたが、応仁の乱の兵火により荒廃しました。
その後、洛東粟田神社、東山安井の蓮華光院に
移したともいわれますが、明らかではありません。

御廟が粟田宮とよばれるのは、粟田郷にあったことによるものです。

◆崇徳天皇御廟
祇園甲部歌舞練場の裏側に崇徳天皇の廟所があります。
『愚管抄』によると、保元の乱で敗れ、讃岐に配流された天皇の崩御後、
天皇の寵妃烏丸殿が綾小路河原(祇園町南側)の自邸内に
天皇の御影堂を建て菩提を弔ったという。
また『山州名跡誌』によれば、天皇の寵妃の一人阿波内侍
が天皇の崩御後、
その霊が夜毎、光ものとなって現れるので出家し、自邸内に
仏堂を建てて天皇の
菩提を弔ったのが始まりといわれ、
人々はこれを光堂と呼んだとしています。明治維新で仏寺は廃寺となり、
御廟だけが残ったとしています。

『昭和京都名所図会』によると、
阿波内侍は知足院公種(きんたね)の娘で、
天皇の崩御後、仏門に入り仏種尼と称しました。
烏丸殿と阿波内侍は同一人物とも思われますが、
知足院公種という人物については不詳。

治承元年(1177)、後白河院は崇徳院の霊を慰めるため、
崇徳院の御願寺である
成勝寺で、法華法要を行ないました。
崇徳天皇廟・阿波内侍の塔  
◆崇徳地蔵・人喰い地蔵
 「崇徳天皇廟」の旧地に一体の地蔵尊がありました。
崇徳院御影堂の遺物と伝わるこの石仏は明治時代、京都大学医学部
付属病院の建設にともなって聖護院の積善院準堤堂に移されました。
「人喰い」は崇徳(すとく)がなまったものといわれています。


聖護院
 聖護院積善院準堤堂の崇徳地蔵

藤原頼長桜塚址
白河北殿の東部にあたる地に(現・京大熊野寮の東南隅)むかし、
左府(左大臣)藤原頼長の塚があって左府(さふ)塚がなまって
桜塚と呼ばれていたという。
明治になって絹糸紡績会社の工場拡張により塚は破壊され、
石塔とともに相国寺内の総墓地に移されました。
(石塔の横の副碑は移転の由来を記しています。)
頼長は若いころから、学問に優れ生真面目で厳しい性格で
「悪左府」とよばれました。
悪左府とは、恐ろしいくらい頭の切れる左大臣くらいの意味です。

副碑に刻まれた碑文の大意は、
「KA130 藤原頼長墓副碑 碑文の大意 京都市」より転載。
「藤原頼長(1120~56)は,崇徳上皇・源為義らと結び保元の乱を起し敗死した。
相国寺総墓地にある頼長の墓あるいは首塚と伝える五輪塔は,
もともと左京区東竹屋町(丸太町東大路西入)の現京都大学熊野寮の地にあり
『拾遺都名所図会』巻二には「桜塚」と呼び,宇治悪左府頼長の社の旧地とする。
明治21(1888)年,第一絹糸紡績会社が創設され東竹屋町の地に工場を建て,
塚は同工場内に取り込まれた。同社は明治35年に同業会社と合同して
絹糸紡績会社となり,同44年に鐘淵紡績に合併された。
明治40年に工場増築のため塚を発掘し,五輪塔を相国寺墓地に移し,
経緯を記した碑を建てたものである。 
碓井小三郎著『京都坊目誌』(上京第二十七学区)には「(絹糸紡績会社が)
敷地狭隘に名を籍り,無情にも之を発き,地を夷ぐ。
塚の下に石棺の如きものを発見す。
会社は之を相国寺境内に移す。古蹟保存は終に金力の為に犯さる。
事業の発達は慶すべきも,史蹟を失ふは亦歎ずべき也」と嘆いている。」


相国寺の墓地は本坊より西、奥まったところに広大な地を占めています。
頼長の墓は入口を入って左、墓地中央よりやや東寄りにあります。
その傍には、伊藤若冲・足利義政・藤原定家など
歴史的著名人の墓が並んでいます。


藤原頼長の墓(右)と副碑
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
白峯神宮
讃岐に流された崇徳院は、恨みと憤りの日々を送り配所で崩御しました。
遺骸は白峰陵(香川県坂出市)に葬られ、院の木造を祀った白峰寺が建てられます。
後世の人々は異変、事件のたびに崇徳新院の祟りと恐れ、
幕末の孝明天皇は都に帰ることなく讃岐の土となった新院の霊を慰めることを
考えていましたが急逝、その遺志を継いだ明治天皇によって明治元年(1868

神霊とともに、讃岐白峰寺の院の木像が白峯神宮に祀られました。
 後に淡路島の配所で崩御した淳仁天皇も合祀されました。
神社の敷地は、もと飛鳥井氏(和歌・蹴鞠の宗家)の別邸でしたが、
白峯神宮造営に際し、同家の寄付によると伝えられています。


白峯神宮伴緒社
本殿東側の伴緒社には、保元の乱に崇徳新院のもとに馳せ参じた
源為義・為朝が祀ってあります。

保元の乱その後
讃岐白峯に流された崇徳院は、五部大乗経を筆写し都近くの寺に納めたいと
願い届けますが、許されず送り返されてきました。怨念に燃えた院は「大魔王となり
子々孫々まで皇室に祟りをなさん」と言って爪も切らず髪も剃らず、やつれた姿で
生きながら天狗の姿となり、46歳で配所において崩御されたと伝えられています。

♪うたたねは荻吹く風におどろけど 長き夢路ぞさむる時なき
                          崇徳院(新古今和歌集1804)
(うたたねは荻を吹く風の音に目覚めたけれども、
長い迷いの夢路からはまだ覚める時もないよ)

平清盛は叔父の忠正、忠正の子長盛、忠綱、正綱を
六条河原(六波羅とも)で斬り、この戦いで一番の功労者源義朝は、
その功績に引き換えて父為義の助名を願いますが、
赦されず父を船岡山(七条朱雀とも)で弟たちを船岡山で処刑します。

源為朝(1138~70?)
為義の八男で母は江口の遊女の鎮西八郎為朝は、幼い頃より武勇に優れ、
特に弓の技術は抜群だったと伝えられています。
13歳の時、鎮西(九州)に渡って豊後国に居住し、肥後国の阿蘇氏
(薩摩国阿多氏とも)の婿となり、周辺の武士を傘下に入れようと
奔走して騒ぎを起こしますが、父為義はこれを制止できず解官されました。
保元の乱では為義とともに、崇徳新院方につき奮戦しますが敗れ、
死罪になるところを武芸に長けていたため、
伊豆大島への流罪に減刑されますがここでも暴れ、
伊豆在庁狩野茂光の軍勢に攻められて自害しました。
『アクセス』
「聖護院」左京区聖護院中町15 市バス「熊野神社前」下車徒歩5分
「崇徳天皇廟」東山区祇園町南側(祇園歌舞連場裏) 市バス「祇園」下車徒歩5分位
「相国寺」上京区今出川通烏丸東入る 市バス「同志社前」下車すぐ
「白峯神宮」上京区今出川通堀川東入飛鳥井町 市バス「今出川堀川」下車すぐ
『参考資料』
白洲正子「西行」新潮文庫 小松和彦「日本の呪い」知恵の森文庫 
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)(洛東下)駿々堂
竹村俊則 「京の墓碑めぐり」京都新聞社
村井康彦「京都事典」東京堂出版 「平安時代史事典」角川書店

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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コメント
 
 
 
大分前に相国寺も見学しましたが… (yukariko)
2009-05-12 22:17:01
よく知らないで見学したのでは何にもならないのですが、有名寺院の観光という呑気さでは仕方ないのかも(笑)
伊藤若冲が相国寺の檀家で生前墓があるというのも
sakuraさまのブログで教えて頂いたのでしたか?後から知りました。
頼長の墓…今までは頼長って誰?というぐらいですし白峯神宮の為義・為朝の伴緒社もこの春訪れて初めて。

TOP画像の神泉苑と白拍子静は素晴らしいですが、こ雨乞いの舞もこの春訪れてそこで小野小町や静御前の雨乞いの説明を読んで初めて知りました。
「義経と静御前の出あいの場」として縁結びに使われていましたが…(笑)

今はその時代と何もかも変わってしまっていますが、それでも故事を読み、現地を知って昔を偲ぶと登場人物が身近に感じられますね。
詳しい時代背景を分かりやすく読み解いて下さる方がおられてこその楽しみ方です。
 
 
 
読んで下さる方があればこそ… (sakura)
2009-05-13 08:24:52
先日も未見の音戸の瀬戸、池の禅尼ゆかりの地をはじめ
京都市内のゆかりの寺社も次々と訪ねて頂き
楽しみを共有して下さっている気がして、
何よりも嬉しく大きな励みになっています。

歴史上は無名に近い頼通のひ孫・忠実ですが
平等院鳳凰堂の大改修をして今の姿にしたのが忠実です。
屋根に瓦をのせ翼廊の下に基壇を築き、柱が水に浸からないようにしています。
水に柱が浸かったままだったら、今頃朽ちていたかも知れません。

白河院は待賢門院璋子と忠実の子忠通と結婚させようとしますが、
当時白河院と待賢門院のことは公然の秘密だったので
忠実はやんわり辞退しています。

白洲正子は
『西行と崇徳院は一つ違いで頼長ともほぼ同年輩であった。
「悪左府」と呼ばれた学者の頼長は、強い性格の持主で、
欠点も多かった反面、情熱家であったことは、
西行の出家を大げさに賛美したことでもわかるが、
この三人に共通する性格は、「純粋」であったことだろう。
政治家の中でももっとも悪辣な忠通と太刀打ちできる筈はなく、
勝敗は保元の乱で戦う以前に決まっていた。』と
その著書「西行」の中で書いています。

お寺の拝観はしても中々墓地までは…
 
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