平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




吉野山は奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた修験の霊場で、
吉野と熊野を結ぶ
大峯奥駆道の北端に位置し、
平安時代までは山岳信仰の霊地でした。
また、頼朝に追われる身となった義経が静御前と別れた
哀話や南朝の悲劇を今に伝えています。

古くは神武東征伝説にも登場し、熊野から八咫烏に案内された神武天皇が、
吉野、国栖(吉野町)、宇陀など を経て大和に入っています。
応神天皇が吉野離宮に行幸したとき、吉野川上流に住む
国栖(くす)人が参内して酒を献上し、歌舞を奏したという伝承もあります。
以後、朝廷の節会には国栖が歌笛を奏上するのが習わしとなりました。

近江朝末期には、天智天皇と弟の大海人(おおあま)皇子の間に緊張が高まり、
兄の目をくらますため、大海人皇子(天武天皇)は吉野に逃れて隠棲し、
兄の死後、皇位の座を奪うため挙兵し、天智天皇の子、
大友皇子との戦い
に勝利をおさめました。(古代最大の内乱壬申の乱)
その天武天皇の歌碑が吉野駅からケーブル乗場への途中にあります。



天武天皇 吉野宮に幸(いでま)しし時の御製歌    

♪よき人の よしとよく見て よしと言ひし 
芳野よく見よ よき人よく見つ 万葉集(巻1・27)

(昔のよい人がよい所だと よく見てよいと言った吉野をよく見なさい 
よい人よ よく見なさい
揮毫 文学博士 文化功労者 犬養孝  現地駒札より)

金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂蔵王堂には、本尊の蔵王権現が祀られ、
平安時代中期には、
修験者の一大拠点となっていました。
この寺に集まった僧侶、修験者らの一部は、
武力を持って勢力を振るい、悪僧化する者がいました。(=吉野法師)

蔵王堂は仏教と神道のミックスといわれる修験道の創始者、
役行者が開き、蔵王権現を祀ったのが始まりという。このお堂は
木造建築物では東大寺大仏殿についで大きく、高さが34メートルもあります。

鎌倉時代末期、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が
鎌倉幕府倒幕のために、蔵王堂を本陣として吉野全山に城郭を構えて
挙兵した時、蔵王堂の僧兵三千余騎がこれに従いました。
その翌年、
北条方の攻撃で吉野城は落城し、
六万余騎の幕府軍が蔵王堂に迫りました。
親王はこれが最期だと覚悟を決め、蔵王堂の前庭に兵を集めて
酒宴を開いていると、村上義光がやってきて護良(もりよし)親王を説得して
落ち延びさせ、自身はその身代わりになって自害しました。(『太平記』)



花矢倉展望台上り口にたつ三郎鐘説明板

展望台上り口付近に「世尊寺(せそんじ)跡の碑」が建っています。

世尊(せそん)寺は釈迦如来を本尊とする金峯山寺の塔頭で、
役行者が金峯山に入る前に修業したと伝えています。
明治7年(1874)に廃寺となり、
その後焼失して鐘楼と梵鐘(国重文)だけが残りました。
安置されていた聖徳太子像は吉野山内の竹林院に保管され、
輪蔵(経蔵の一種)の普賢・普成像は蔵王堂に納められています。






花矢倉展望台は、眼下に上千本や中千本、蔵王堂、
遠く金剛・葛城・二上山まで見える絶景スポットです。

義経が都を落ちて吉野の奥に逃げ込んだ時、吉野法師らが義経主従に襲いかかってきました。
義経の忠臣佐藤忠信は、義経を落ち延びさせるためその身代わりとなって戦い、
花矢倉の辺で吉野法師の中心人物覚範を討ち取っています。(『義経記』)





東大寺の「奈良太郎」、高野山の「高野二郎」と並んで「吉野三郎」あるいは
「三郎鐘」と呼ばれ、日本三古鐘のひとつとされています。

この梵鐘の銘文によれば、平忠盛が亡き母の菩提を弔うために寄進したが、
音が小さいので、20年後の永暦元年(1160)に改鋳したとあります。
現在は除夜の鐘にだけ、金峯山寺の僧侶によって撞かれます。

総高204センチ、口径123センチ、乳は五段六列、上下帯とも四方に唐草紋が
鋳(文字.などを浮き出すように鋳造する方法)されています。

忠盛の嫡子、清盛は大治4年(1129)正月、従五位下に叙せられ、
12歳で貴族社会の仲間入りを果たし、さらに左兵衛佐(さひょうえのすけ)に
任じられ、周囲の人々から驚きの目でもって見られました。
「兵衛佐」は殿上人への最短コースの一つです。
忠盛はといえば、同じ大治4年正月に従四位上に昇ったばかりです。
その息子がいきなり左兵衛佐というので、藤原宗忠は日記
『中右記(ちゅうゆうき)』に「満座の目を驚かす」と書きとめているほどです。

こうして貴族となった清盛は、その後も異例のスピードで出世していきます。
忠盛が世尊寺の鐘楼を寄進した頃の清盛の急速な栄達ぶりをご紹介します。

保延元年(1135)、父忠盛が海賊追討した功により、
18歳の若さで従四位下に昇り、その翌年、やはり父の譲りにより
中務大輔(なかつかさおおすけ)に任じられ、
翌年20歳になると、父の熊野本宮造営の功績で肥後守も兼ねました。
そして保延6年(1140)
には従四位上まで昇りました。
自分よりも清盛を早く昇進させようという忠盛の親心が窺われます。

上千本の急坂を上りつめるた子守集落の吉野水分神社の前には、
かつて世尊寺にあった石灯篭が置かれています。


吉野水分(みくまり)神社は、子守明神とも称され、水の神を祀り、
古くは吉野山の山頂、青根ヶ峰に祀られていました。
水のもつ生命力に対する神秘感は、雨を司る神をいつしか
みこもり(身ごもり)の神・子産みの神・子守の神に発展させて、
子守明神となり、子宝・安産の神様として親しまれています。

神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ、
修験道でも重視され、大峰修験者の守り神でした。

地蔵菩薩の垂迹とは、仏(地蔵菩薩)が民衆を救うため、
仮に姿を変えて神(子守権現)となって現れることをいいます。



左は拝殿、右が本殿、正面奥に幣殿があります。

境内は狭いのですが、現在の社殿は豊臣秀頼改築による
豪華で華麗な桃山社殿の代表で、国の重要文化財に指定されています。

本殿は三つの棟を一棟に連ねた三社一棟造で、正面の三ヵ所に破風があり、
中央に春日造、左右に流造の三殿を横に繋げたユニークな形式となっています。

右殿(向かって左)に玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像(国宝)が
祀られています。   他にも天万栲幡千幡姫命
(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)坐像(重文)など社宝が多くあります。

水分神社を出てしばらく歩くと、高城山(標高702㍍)の登り口に
牛頭天王社跡(吉野町大字吉野山)があります。

高城山は大塔宮の吉野城の詰の城(最終拠点となる城)になったところで、
牛頭天王社はこの城(ツツジヶ城)の守神と伝えられています。

各務支考(かがみしこう)(蕉門十哲の一人)が南朝の悲しい歴史に思いを寄せて

♪歌書よりも 軍書に悲し 吉野山 と詠んでいます。 
(古くから桜の名所として歌に詠まれた哀れさよりも太平記に書かれた戦乱や
志半ばで崩御された後醍醐天皇の哀れさの方がもっと悲しい)

『アクセス』
「吉野水分神社」奈良県吉野郡吉野町吉野山1612
近鉄吉野駅からロープウェイで3分
ロープウェイ吉野山駅下車 徒歩約1時間30分
または
 吉野山駅からバスで23分「奥千本口」バス停下車、徒歩約20分
『参考資料』
「奈良県の地名」平凡社、1991年 高橋昌明編「別冊太陽平清盛」平凡社、2011年 
「近畿文化660」(吉野と大峯奥駆道)近畿文化会事務局、平成16年
「週刊古寺をゆく 金峯山寺と吉野の名刹」小学館、2001年
 「歴史と旅(古事記神話の風景)」秋田書店、2001年8月号 
「歴史読本(日本書紀と謎の古代歴史書)」新人物往来社、平成12年 
 徳永真一郎「太平記物語 物語と史跡をたずねて」成美堂出版、昭和53年

 





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