平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




摂社東宮(とうぐう)神社の傍から宇佐鳥居をくぐって上宮へ向かう長い石段は、
群生するイチイガシと楠に覆われています。
宇佐神宮では境内の原生林のことを社叢(しゃそう)とよび、
国の天然記念物指定の標柱がたっています。



宇佐鳥居は宇佐神宮独特の鳥居で額や額束(ガクヅカ)がなく、柱の上部に
黒い台輪が置かれているのが特徴で、境
内の鳥居は全てこの様式にならっています。

鎌倉の元八幡、元鶴岡八幡宮ともよばれる由比若宮の鳥居



西大門  
桃山文化の華やかな唐破風(屋根の湾曲した部分のこと)をした門で、
本殿や勅使門とともに宇佐神宮を代表する建造物の一つです。


西大門から上宮境内へ

縄に結んだ無数のおみくじ

左から春日神社、西中門、八子神社 
 西回廊奥にある春日神社は、一の殿である八幡大神の傍にある脇殿です。
祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は春日大明神ともいわれ、
神功皇后を助けたとされる神です。
右手の八子(やこ)神社は、八幡大神の八王子神を祀っています。
社殿の構えはなく、西回廊の楠に鎮まっています。

丘を上り詰めた上宮の屋根は檜皮で葺かれ、壮麗な建物は朱漆塗柱(しゅうるしぬりはしら)に
黄金の金具が打たれ、総本宮にふさわしい威容を誇っています。




左の一の殿、中央の二の殿、右の三の殿の順にお参りします。
神社の拝礼作法は、基本的に、「二拝二拍手一拝」ですが、
ここでは「二礼四拍手一礼」という独特なものです。


三つの本殿を取り囲む勅使門と左右に巡る廻廊。
鎌倉初期までは33年ごとに国家が造替を行ってきましたが、次第に困難となり、
現在の本殿は幕末の造営です。最近では昭和60年に改修されました。 

本殿は八幡造と呼ばれる古い建築様式を今に伝える貴重な建築物として国宝に指定されています。

八幡造は華麗です。建物が軒を接して前後に二棟がセットとなって並び、
中央の大きな金色の樋は共用です。後ろの建物を内院、前の建物を外院といい、
横から見ると屋根がM型となります。内院には御帳台があり、
外院には椅子が置かれ、いずれも神座となっています。
御帳台は神様の夜のご座所であり、椅子は昼のご座所と考えられ、
神様が昼は外院、夜は内院に移動します。そういう二棟セットの社殿が三つあります。

一の殿・二の殿・三の殿が南面して横一列に並び、
一の殿には八幡大神(応神天皇)、二の殿には比売大神(ひめおおかみ)、
三の殿には応神天皇の母である神功皇后が祀られています。

宇佐の地は畿内や出雲同様に早くから開けたところで、
神代に比売大神が大元山とも御許山(おもとやま)ともよばれる山に天降り、
三個の巨石に宿ったとされ、宇佐神宮成立以前から
宇佐国造(くにのみやっこ)である宇佐氏がこの山を氏神として祀っていました。

二の殿

三の殿


  南中楼門(みなみちゅうろうもん)とも勅使門ともよばれる門は
皇族や勅使が通る門で、宇佐神宮を象徴する建造物の一つです。
門の左右に高良大明神、阿蘇大明神の二神が御門の神として祀られています。
八幡神が応神天皇と同一視されるようになり、
宗廟(皇室の祖先を祀った霊廟)
として皇室の信仰を受けるようになりました。

御神木の大楠


上宮から若宮坂を下り若宮神社へ

若宮神社には八幡神(応神天皇)の若宮の仁徳天皇と4人の皇子を祀り、
祭神の5体の神像は国の重要文化財に指定されています。除災難厄難の神様です。

境内入口の神橋(しんきょう)近くにある「神武天皇東遷顕彰碑」
昭和15年、現在の南宇佐一帯の地域が神武天皇聖蹟に指定されました。

『古事記』『日本書紀』によれば、天照大神の命を受け、孫のニニギノミコトは
八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺勾玉(やさかのまがたま)の
三種の神器と稲穂を持ち、高天原(たかまがはら)という天上の国から
日向の高千穂の峰に降り立ちました。これが天孫降臨による日本国の始まりです。
そこに宮を建てて住み、初代天皇とされる神武天皇の代になって天下平定の旅にでました。
日向から船出し次々と荒ぶる神を征伐服従させ、瀬戸内海を経てヤマトに入り
都を造ったとされています。これを神武東征といいます。

宇佐は日向を発った神武天皇一行が上陸した地です。
豊後水道の難所を通り抜けた一行を
宇佐国造の祖である
菟狭津彦(ウサツヒコ)とその妹菟狭津姫(ウサツヒメ)が饗応するため、
一柱騰宮(アシヒトツノアガリミヤ)を建てご馳走を奉った後、
一行は筑前の岡の水門(遠賀川河口)に向けて出発し、
岡田宮(北九州市八幡西区)で1年過ごしました。

説明碑には「一柱騰宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、
この一帯は騰隈(とうのくま)とよばれています」と刻まれています。

「宇佐八幡神輿」(碑文より)
天平勝宝4(752)年 聖武天皇の進めた東大寺大仏造立事業が完成しました。
八幡神はこの事業を支援したため、輿に乗って入京し完成間近の大仏を拝しました。
これが神輿の起源とされています。
宇佐八幡神輿フェスタは、1250年の時空を超えて八幡神輿の大仏参拝を再現し、
「神仏習合と神輿発祥の地・宇佐」を全国にアピールすることを目的に計画されました。
2002年10月5日、児童生徒を含む宇佐市民など約500人の行列が、
宇佐八幡神輿を奉じて東大寺を参拝しました。多くの人々の協力によって、
歴史に残る大事業が見事に達成されたことをここに記します。
2003年8月2日 宇佐八幡神輿フェスタ振興協議会 会長(宇佐市長)時枝正昭」

種田山頭火句碑(碑文より)
  自由律俳人・種田山頭火、本名・正一 明治十五年山口県防府市に生まれる。
 早稲田大学を病気中退し帰郷、結婚して父と酒造場を開業する。
一方、荻原井泉水が創刊した新傾向俳句誌「層雲」に投句し入門、
やがて同人・選者として活躍した。大正五年に酒造場は失敗、破産する。
 熊本へ移り無軌道な酒に浸って市電を止める事故を起こしたのを機に出家得度。
九州をはじめ東北地方まで全国を行乞漂泊の旅を続けた。
ここ宇佐神宮には、昭和四年と十三年に訪れており、禅僧でありながらも
殊のほか敬虔なおもいで参拝している。昭和十四年四国霊場巡拝を終え、
愛媛県松山市に「一草庵」を結んだが、昭和十五年十月十一日同庵に没した。
山頭火は、花鳥諷詠や季語を約束とする五・七・五の定型俳句とは異なり、
「俳句といふものは…魂の歌だ、こころのあらはれを外して俳句の本質はない」と言い、
その人生や俳句においても、より真実なるものを模索し非定型を貫いた。
行乞流転の旅にあって詠んだ数々の日本語独特な口語のリズムを生かした自由律作品は、
いまも多くの人のこころを捉えている。

 宇佐神宮
 松から朝日が赤い大鳥居  春霜にあとつけて詣でる  山頭火

宇佐神宮の祭礼
 仲秋祭(放生会)10月第2月曜日を含む土・日・月曜日
養老4年(720)大宰府より大隈隼人の叛乱が奏上され、
歌人としても知られる大伴旅人が征隼人持節大将軍に任命されました。
この時、宇佐八幡の神軍も出陣し官軍を応援し乱を鎮めましたが、
その後、病気が流行し凶作が続いたことから隼人の霊の祟りだと恐れられます。
隼人の霊を慰めるために、蜷や貝を海に放ったのが宇佐神宮放生会の起こりです。

 御神幸祭(ごしんこうさい)7月27日以降の金・土・日曜日
『参考資料』
「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年 「日本の神社」日本文芸社、平成19年
「大分県の地名」平凡社、1995年 「神社とお寺の基本がわかる本」宝島新書、2007年 
「歴史読本 古事記・日本書紀と謎の神々」(2001年2月号)新人物往来社、平成13年 
「歴史と旅 古事記神話の風景」(2001年8月号)秋田書店、平成13年





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コメント
 
 
 
何も知らず本当にお参りしただけでしたね。 (yukariko)
2017-02-06 11:00:27
すごいお宮だったのだなあと感心しながら読ませて頂きましたが、時代の政治によって大事にされ利用されたり、退けられたりとその時の都合で様々な扱われ方ですね。

「神輿の起源」も初めて知りましたが、神様が実際に人の世に近くにおられる感じ。
今も大人しくご本殿におられるのでしょうか?
日本中を飛び回っていらっしゃるような気がしますね。
 
 
 
寺や神社を参拝する場合 (sakura)
2017-02-07 10:16:28
事前に歴史や境内の様子を学び多少の知識を持って行くのがベストなのでしょうが、
中々そういう風にはできませんね。

「日本中を飛び回っていらっしゃるような気がします」と書いてくださいましたが、
それだけ八幡さまは身近な神様ということですね。

神様が宿るご神体は、社殿奥にある本殿の神座に祀られ、
公開されることはありませんが、御神幸祭には、三基の神輿に乗せて
上宮から神域内の御旅所である頓宮(とんぐう)へ繰り出します。
2泊3日間滞在した後上宮へ上ります。それを宮司は輿に乗ってお供します。

宮司は「古事記」「日本書紀」の菟狭津彦を祖とする
宇佐氏直系の到津(いとうず)がその職についています。
祭礼は昔は年に80数回あったと伝えていますが、今は20数回に減ったそうです。


 
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