安徳天皇を擁して都落ちした平家一門は、寿永2年(1183)8月、
九州に逃れ太宰府に拠点を定めようとしましたが、
豊後の豪族緒方惟栄(義)に追われ、山鹿城(遠賀郡芦屋町)より海路、
夜通しかかって柳ヶ浦(現在の門司区大里)に渡りました。
一行は旅の疲れをいやすために泉から水を汲んで風呂水に用いたことから、
この辺一帯を「風呂」と呼ぶようになり、「風呂」が「不老(フロウ)」となり、
現在では、「不老通り」にその名を残しています。
JR門司駅南口と「不老の由来」説明石碑。
柳町3丁目の交差点付近の陸橋から「風呂の井戸」辺を撮影。
「高田二丁目」バス停。
「風呂の井戸」は、仏壇店の隣にあります。
風呂の地蔵堂。
大里(だいり)は、現在の門司区柳町の海岸沿いの地帯にあたります。
この地に平家一門が柳の御所を構えたことにより内裏(だいり)と呼ばれました。
江戸時代には、内裏浦で異国の海賊が頻発し、朝廷から賊船平定の命を受けたため、
時の藩主が内裏の海に血を流すのは畏れ多いとして大里に変更しました。
室町時代の武将・今川了俊(りょうしゅん)も、京都から赤間関までの紀行文
『道ゆきぶり』に「此島のむかひは柳の浦とて、むかし里内裏のたちける所なるべし、
今はそこをだいりのはまともいふなり。」と記し、柳の浦がのちに「だいり」と
いわれるようになったのは、安徳天皇の「内裏」に由来するとしています。
柳の御所・御所神社
『アクセス』
「風呂の井戸」福岡県北九州市門司区柳町2丁目10番
西鉄バス「高田2丁目」下車すぐ
または門司駅南口から徒歩約10分
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年
大正時代「不老」に変わり、永く親しまれてきたのですね。
ふと気がつくと、ここはもう壇ノ浦に近いところでした。
響灘を東へと漕いで渡ったのが柳ヶ浦、壇ノ浦の近くです。
一門の山鹿城滞在期間は、
「カクテ暫く慰ム心地シテ有リケル程ニ、又緒方三郎十万、云々」と、
「源平盛衰記・巻33」の「下欄の注」に記され、短い滞在であったことがうかがえます。
陸に上がりこの泉で喉を潤し、体を洗い流しほっと一息ついたのですね。
先人たちが継承してきた史跡や話をいつまでも語り伝えてほしいと思います。
御所を構え、落ち着けるかと思ったのに、時代は流れてゆくのですね。
地名の言い伝えはその人たちの生き様を哀れと思った人たちが代々伝えてきたのでしょう。
「柳ヶ浦」は「源平盛衰記」には、山鹿城から豊前国
柳ヶ浦に行った時のこととしています。
「柳ヶ浦」という地名は大分県にもありますが、
一門が上陸したときの伝承や史跡がありません。
門司の今の大里には、一門が内裏を建てたという柳の御所跡や
風呂の井戸などの伝承地が残っています。
このことからも、山鹿城から移ったのは、門司の柳ヶ浦であろうと
ほとんどの研究者が推定されています。
風呂は民家のお風呂でも借りたのかな。と勝手に推測しています。
まだ本格的でないでしょうにありがとうございました。