平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平氏と九州のつながりは古く、元永2年(1119)正盛(清盛の祖父)に
仁和寺の荘園、肥前国(佐賀県)藤津荘の荘官
平直澄(なおずみ)追捕の宣旨が下り、直澄を討伐したことに始まります。
この時、正盛に従った100人余の武士はみな西海・南海の名士だったという。

その跡を継いだ嫡男忠盛は鳥羽院との主従関係を通じて
目覚ましい出世を遂げました。「西海に勢いのある者」ということで
山陽・南海両道の海賊征伐を命じられ、これによって瀬戸内海の
海上交通を掌握し、西国に平氏の地盤を固めていきました。

平氏栄華の基礎となったのは何よりも経済力でした。
日宋貿易や受領の富によって、鳥羽上皇のために長承元年(1132)には、
千体の観音を安置する得長寿院を京(現、左京区岡崎)に造営し、
内裏の昇殿を許されて殿上人となり、
本物の貴族の仲間入りをするまでになりました。

肥前国神埼(かんざき)庄(現、佐賀県神埼市)は長元9年(1036)に
院が直轄する荘園として、後一条院から朱雀院へ、その後は、
白河院領から鳥羽院領、後白河院領へと代々継承されています。

鳥羽院政期には、院の信任が厚かった忠盛が神埼庄の
預所(現地管理者)となり、管理を任されました。
信任を得るには財力も必要です。忠盛は財力を蓄えるために、
西国の豊かな国の受領を歴任して勢力を伸ばしました。
また、大陸との貿易港であった越前の敦賀を越前守として
管轄したことのある忠盛は宋の商人が敦賀で交易をするのを見て
日宋貿易に着目し、海外との交易を
行います。

神埼庄の荘域は神埼郡のほぼ全域に及ぶといわれています。
 
現在では筑後川が有明海に運ぶ土砂が堆積し海岸線が
遠く退いていますが、神埼庄は平安時代ごろまでは、
有明海に面する大荘園で、ここを知行していたときに
平氏は日宋貿易に深くかかわるようになりました。
忠盛はその地位を利用し、大宰府を通さない私貿易によって
貿易の利益を独占し財力を得ました。

忠盛が日宋貿易を推進したのは貿易の利に目をつけたのと、
コレクション好きの鳥羽院の歓心を買おうと大陸から入ってくる
めずらしい品々を献上するためです。

鳥羽院は白河院が崩御すると、すぐに鳥羽殿や白河殿・御所の蔵に
封をつけさせて宝物の分散を防ぎ、保延2年(1136)、
鳥羽離宮(鳥羽殿)に経蔵(宝蔵)と阿弥陀堂からなる勝光明院
(しょうこうみょういん)を造営し、宝蔵に列島内外の宝物を納めました。
阿弥陀堂は平等院鳳凰堂を、
経蔵は同じく平等院の経蔵を模して建てられています。

南殿の北に造られた北殿の勝光明院は、その基壇の一角と園地、
そして東側で経蔵が調査で見つかっています。
経蔵は堀と築地塀に囲まれていました。

北殿・南殿地域航空写真(西より 1970年頃)
手前右の広場が鳥羽離宮公園です。

長承2年(1133)8月、神埼庄に宋人周新(しゅうしん)の船が
入港したので大宰府の官人らが出向いて交易をしようとしたところ、
神埼庄の預所だった忠盛は対宋貿易の利益を横奪しようとして介入し、
鳥羽上皇の院宣であると偽った下文(くだしぶみ)を出し、
「周新の船が入港したのは神埼庄領であるから
官人がこれに関与してはならない」と拒否しました。
『長秋記』の筆者源師時が長承2年(1133)8月13日条で、
批判しているように、忠盛の行動
は貴族たちから強く非難されました。

この日宋貿易史上有名な事件について、
多くの研究者はこの時、周新の船は有明海に面した港に
到着したとしていますが、
有明海でなく博多に着岸し、
忠盛はここで取引を行ったという見解もあります。

それは博多には、神埼庄の倉敷(年貢の保管・積み出しの倉)が
あったためで、
神埼庄と大宰府また博多とは
清盛の大宰府の大弐就任以前から強い関係にあるためです。

古くから研究者の間で「大陸からの船が到着するのは、
博多だけであったのか、それとも有明海にも
入港することがあったのかどうか。」という議論があります。

服部英雄氏は「久安4年(1148)、仁和寺の荘園、肥前国杵嶋庄
(現、佐賀県杵島郡白石町、有明町一帯)から仁和寺に孔雀が献上された。
孔雀は日本にはいない。中国南部から東南アジアに生息する鳥で、
わざわざ鳥羽院が見物するほどの珍鳥だった。このことからも有明海に
外国船が入ったことは疑いない。」と主張しておられます。
(『歴史を読み解く』)

 忠盛は公卿昇進を目前としながら58歳で亡くなりましたが、
それを知った時、傲慢で他人に厳しい藤原頼長でさえ、
その日記『台記(たいき)』に
「数国の吏を経て、富は巨万を累(かさ)ねたり、
奴僕(ぬぼく)は国に満ち、武威(ぶい)は人にすぐる。
然(しか)れども人となり恭倹(きょうけん)にして、
いまだかつて奢侈(しゃし)の行あらず。時の人、之を惜しむ。」

忠盛は莫大な富と武勇を兼ね備え、地位と各国に家人を
得ることをできたが、人となりは慎み深く
奢侈な行いはなかったと記し、その死を惜しんでいます。
平家繁栄の基礎を着実に築いた一生でした。
『参考資料』
五味文彦「日本中世史①中世社会のはじまり」岩波新書、2016年
県史41「佐賀県の歴史」山川出版社、2002年 
県史40「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年
「佐賀県の地名」平凡社、1988年
服部英雄「歴史を読み解く さまざまな史料と視角
(久安四年、有明海にきた孔雀)」青史出版、2003年
竹内理三「日本の歴史6 武士の登場」中公文庫、昭和52年
京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
「平家物語図典」小学館、2010年



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コメント
 
 
 
平氏隆盛の基礎を築いた忠盛とは凄い人だったのですね。 (yukariko)
2018-09-18 22:08:25
武士として大勢の郎党を使いこなし、日宋貿易や受領の富を集めて宮廷、院や近臣に取り入りながらも、侮られず着々と一族の栄達も計ってゆくのはとても大変な仕事だと思うのですが、それが出来た凄い人だと思います。

若い時はともかく、ある程度の年齢、身分になれば自分が動くのではなく、家人に命じてあれこれをさせるのでしょうから、要所要所に有能な家人が育っていなければ指令通りにはいかないですね。
清盛ばかり取り上げられますが、その父親の、一族の将来を考えての万全の布石、それが平氏の隆盛をもたらしたのでしょう?
 
 
 
凄い人でしたね (sakura)
2018-09-19 10:54:57
平氏は桓武天皇の末裔でしたが、忠盛の時代には本拠地を伊勢に移し、
武士として受領階級にあまんじていました。
平氏は代々殿上人にはなれませんでしたが、忠盛の代になって初めて
内裏の昇殿を許され、殿上人に取り立てられました。

しかし、忠盛への周囲の反発は大きく、殿上人たちはそれを不快に思い、
この年の五節(ごせち)の豊明節会(とよのあかりのせちえ)の際、
忠盛を闇討ちにしようと計画しましたが、忠盛はその危ない場面を
機転によって見事にくぐり抜けました。その忠盛によって
平家はつくりあげられたと「平家物語」は(巻1・殿上の闇討)で語っています。

苦労しながらも、貴族社会の中で古くから続く身分秩序を
政界遊泳術で切り抜けていったのですね。
「平家物語」は清盛を悪行の因果として滅びたとしていますが、
「愚管抄」によると、清盛もあちらこちらに気を配り、
難しい人間関係を調停できる熟慮と力量の持ち主でもあったと伝えています。
 
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