平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




緒方三社の一宮八幡社、二宮八幡社は緒方川の右岸、三の宮八幡社は左岸にあります。

緒方三郎惟栄は緒方郷を治めていた宇佐神宮の政策に不満を持ったのか
大胆にも八幡宮総本山である宇佐神宮の焼き討ちを行いました。
しかし、その時ケガを患ったのをきっかけに祭祀(さいし)に目覚め、三つの神社を
建造したと言われています。そのひとつが惟栄自身も祭られている二宮八幡社です。
この三社の祭神は親子同士で、年に一度だけ再会し楽しい一日を過ごします。
これが旧暦の十月中旬に行われる勇壮な川越し祭りです。
(二宮八幡社説明板より)

川越し祭りは、二宮八幡社の境内に一宮社、三宮社の神輿が集います。
三宮社だけが緒方川の左岸にあるため、神輿が松明に先導され
若者たちにかつがれ、川中にたつ鳥居をくぐって川越しを行います。
各社の祭神は、一宮八幡社が父である仲哀天皇、三宮八幡社が母である神功皇后、
二宮八幡社が子である応神天皇です。
毎年、11月の中旬から下旬にかけ2日間行われ、初日の夜に一宮社神輿の行幸、
三宮社神輿の川越しが行われて二宮社に集まり、2日目には三社の神輿ともに
お浜出、直会などの諸行事を執り行い神楽や宴が催されます。
その夜、一宮社の神輿は山を上り、三宮社の神輿は川を渡って元宮に戻ります。
現在は2日間ですが、江戸時代には旧暦の10月7日から15日まで盛大に行われました。
二宮八幡社は原尻の滝近くにあり、滝のすぐ上流に一の鳥居が建っています。



「二宮八幡社」豊後大野市緒方町原尻宮下 祭神は応神天皇・緒方惟栄・大野泰盛

神門


 拝殿

 拝殿奥に本殿

二宮八幡社の社殿傍から一宮八幡社に続く山道があります。
一ノ宮八幡宮入口 これより80㍍の道しるべ



「一宮八幡社」 豊後大野市緒方町久土知 祭神は仲哀天皇

神門

あいにく修理中 



拝殿その奥に本殿 



奉納絵馬

豊後大野市歴史民俗資料館入館パンフレットには、
挿絵が描かれ緒方三郎惟栄絵馬(一宮八幡社)と書かれていますが、
それらしい絵馬は見あたりません。

『歴代鎮西要略』によると、「源頼朝から大友能直(よしなお)が豊後守護職
並びに鎮西奉行に任じられ建久6年(1195)に入国の際、その先鋒を務めた
能直の重臣古庄重吉らとこれに反対した緒方三郎惟榮(これよし)の一族である
大野九郎泰基(やすもと)、惟栄の兄臼杵(うすき)二郎惟隆が戦い(神角寺合戦)
泰基は神角寺(じんかくじ)で自害し、惟隆は降参した。」とあります。
緒方惟栄滅亡後、大野氏が豊後大神(おおが)一族の中心となりましたが、
九郎泰基の謀反で大野氏も衰退していきました。
そして頼朝の寵臣大友能直が守護職に任命され、鎌倉時代から桃山時代までの
400年間、豊後の支配は大友氏に移りました。
戦国時代の宗麟(そうりん)の時には、北九州6ヵ国の守護となりましたが、
日向にて島津義久との戦いに大敗し、豊後1国までに衰退、
さらに朝鮮出兵で失敗し改易されました。

平家追討に貢献した緒方惟栄の功績から、惟栄が豊後守護職に
任命されるべきでしたが、豊後最大の勢力を誇った
惟栄の名は歴史の表舞台から消えていきました。

大友能直が建久年間に豊後守護職並びに鎮西奉行に任命されたことは
学会で否定されている。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)とあり、
能直が守護職に任命されたのはもう少しあとのようです。
この段階の豊後守護は中原親能(ちかよし)で、能直が建久6年に豊後に
赴いたのが真実とすれば、養父中原親能の代官としてであろうといわれています。

緒方一族を討ち滅ぼしたあと、原尻の滝で洪水や暴風雨が相次ぎ、
泰基の霊の祟りではないかと恐れた能直は、
二宮八幡社に緒方惟栄と大野泰基の霊を祀ったとされています。

大友能直の母は波多野経家(つねいえ)の娘、父は相模古庄郷司の
近藤能成(よしなり)です。相模の豪族波多野氏と源氏は深い関係にあり、
一族の波多野義通の妹は源義朝の妾となり、頼朝の兄、
朝長(ともなが)をもうけています。平治の乱に敗れた義朝一行と共に
東国へ逃れる途中、朝長は深手を負い父の介錯により命を絶っています。

能直は、はじめ古庄(ふるしょう)氏を称し、次いで近藤を名のり、
のち母の姉の夫である中原親能の養子となり、中原能直と名のっています。
中原親能は幼少時から波多野経家に養育され、
のち頼朝の代官となり、義経のお目付け役として上洛しています。


母方の波多野経家には実子の実秀がありましたが、
実秀に子供がなかったので、外孫の能直に相模国足柄下郡大友郷を継がせ、
能直は大友能直と称しました。

能直の源頼朝落胤説は諸大友系図などによって広く知られています。
『九州治乱記』によると、能直の母は波多野経家の娘利根局で、
伊豆で頼朝に仕え頼朝の子を懐妊したため、局は姉婿の中原親能に下され、
そこで能直を生んだという。しかし『近藤系図』や
『大友系図』(群書系図)では、落胤説については記述されず、
能直の実父は近藤能成で、中原親能の養子となり大友姓を継いだとしています。
対して諸系図の中でも最も信憑性が高いとされる
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』では、能直を頼朝の子として、
島津忠久・忠季兄弟とともに頼家、実朝と並び載せています。
しかし確証はありません。
『緒方三社川越し祭り』
 旧暦10月14日・15日に近い土曜日・日曜日に行われます。
お問い合わせ 豊後大野市緒方支所(電話0974-42-2111)
『参考資料』
「県史44大分県の歴史」山川出版社、1997年 渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
  湯山学「波多野氏と波多野庄 興亡の歴史をたどる」夢工房、2008年 
「大分県の地名」平凡社、1995年 鈴木かほる「相模三浦氏とその周辺史」新人物往来社、2007年 
本郷恵子「日本の歴史 京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
立派なお宮ですね。 (yukariko)
2017-02-26 11:41:44
川の中の鳥居は見たような記憶がありますが、原尻の滝周辺を何もしらずに連れて行ってもらっただけでした。立派なお宮とお祭りがあるのですね。
神輿が山を下り、川を渡って集い、神楽や宴があった
…とか。
今は二日間だけれど江戸時代は九日間ものお祭りで、地元の尊崇を受けてしっかりと根付いた信仰なのですね。

豊後地方は緒方三郎惟栄が滅んだ後、源氏の系列は誰が?地方豪族なのかと勝手に思っていましたが、大友能直(もしかして落胤)が守護職に任命され、その後400年大友氏が支配、秀吉の時代に改易されたとの記述を読んでなるほど…。
 
 
 
二宮は立派なお社です。 (sakura)
2017-02-26 15:58:57
この境内に親子の神様が年に一度集うなんてロマンですね。
祭礼は800年以上も続いているそうです。

大友氏は宗麟の嫡男、吉(義)統(むね)の出来が悪かったようです。
吉(義)統は数年前のNHKの大河ドラマ軍師官兵衛にも登場しました。

朝鮮出兵では、官兵衛の嫡男黒田長政の指揮下に入り出陣しましたが、
小西行長がすでに戦死したという誤報を信じて撤退、
行長がこれを秀吉に告げ口し、秀吉を激怒させ幽閉されました。

秀吉の死後、許され豊臣家に再び仕え、家康と石田三成の対立が深まると、
大友義統は西軍につき、かつての領地豊後(黒田家の領地となっていた)に出陣し、
お家再興を目ざしますが敗れてしまいました。

 
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