平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




宇佐市駅館川(やっかんがわ)に架かる小松橋の袂には、
平清経の墓と伝える小さな五輪塔があります。
五輪塔は昭和13年(1938)に
宇佐市江須賀より移され、のちに記念碑なども建立されています。

『平家物語』に見える豊前国柳ヶ浦には二ヵ所あります。
ひとつは北九州市門司区大里、もうひとつは宇佐市柳ヶ浦です。
この二ヵ所は直線距離でも70キロほど離れています。通説では、門司区大里の
海岸とされ、柳の御所跡などが残っていますが、清経入水の伝承はありません。
一方、宇佐八幡宮にほど近い柳ヶ浦には、御所云々の伝承はありませんが、
清経入水の伝承が残っています。ちなみに豊前国は、現在の北九州市東側、
筑豊地方の東側、大分県の北部(中津市・宇佐市)を含む広い地域です。
宇佐市に柳ヶ浦という地名が現れるのは、明治22年の「柳ヶ村」で、
近代になってからです。その名は今もJRの駅名などに使われています。

宇佐市の柳ヶ浦伝承の背景には、平家と親密な関係にあった
宇佐大宮司公通(きんみち)の存在があると考えられます。
公通は自ら駅館川(やっかんがわ)西側地域の開発を行っています。



JR日豊本線柳ヶ浦駅 





「柳浦史蹟」記念碑

冬枯れの柳の木と清経の墓

「清経終焉之地
宇佐氏に援助を求めて太宰府よりこヽ柳ヶ浦につく 謡曲清経に豊前の国柳といふところに着く
げにや所も名を得たる浦は並木の柳陰 世の中のうさにはかみのなきものをなに祈るらん 
心づくしの御宣託があり前途を悲観したものか 船板に立ち上がり腰より横笛を抜き出し
音もすみやかに吹き鳴らし今様を朗詠し入水 清経は重盛の三男で横笛の名手だったとか
 この歩道橋をつくるにあたり歴史を語り風情を残した柳の老木が
枯死したので植えついで後世に残さん為に之植
九十九年四月吉日 宇佐ロータリークラブ建之」

明治18年に架けられた小松橋、その歩道橋

周防灘に注ぐ駅館川に架かる小松橋



  『平家物語』を題材とした能には、武将が死後修羅道の苦しみを訴える修羅能があり、
その多くが世阿弥の作品とされています。
シテ(主人公)の武将の霊が現れ、能舞台の上で自身の最期の場面や死後の
修羅の苦しみを見せ、
やがて修羅地獄から救われ成仏を約束されて終わります。

平家の公達とはいえ、戦場で戦わずに入水による死を選んだ清経は、
念仏を唱え修羅の地獄から簡単に救われます。
それだけ修羅の苦しみが少なかったのだと思われます。

『源平盛衰記』が記す清経が遺した形見の髪を
♪見るたびに心づくしの髪なれば うさにぞ返すもとの社に
(見るたびに心を苦しめる髪だから、つらさに堪えず
筑紫の神の宇佐八幡の社にお返しします。)の歌とともに、清経の妻が
西国の清経のもとに送り返したことや西海を漂う流浪の末、筑紫に落ちのびた
平家一門が宇佐八幡宮に参詣し、思いがけない不吉な神託を受けたということ、
清経が入水死したというだけのわずかな『平家物語』の
記事を手がかりにして、世阿弥は曲を構成し、
形見の髪は清経の死後、
北の方に届けられたと物語を脚色しています。

宇佐八幡の託宣によって、平家一門の絶望的な運命が告げられ、清経は
来し方行く末をつくづくと考え、ある月の夜、船端に出て心静かに横笛を吹き、
今様を謡い朗詠を吟じました。心おきなく笛を楽しむと意を決して、
南無阿弥陀仏の声もろとも柳ヶ浦の沖に身を投げました。
そこには別の苦しみ、死後の修羅道が待っていました。

清経の家臣である淡津三郎は、形見の黒髪を清経の妻に届けるために都に
戻ってきました。入水の話を聞いた妻は、せめて討死にするか病死ならばともかく、
自分を残して死ぬとはあんまりだと嘆き、涙ながらに床につきました。
妻の夢の中に現れた清経の霊は、次々と押し寄せる敵を相手に刀を抜いて
立ち向かう修羅の有様を見せた後、最後の念仏によって修羅の地獄から救われ
往生できたことを喜び、姿を消していきます。(『謡曲清経』)
平清経の墓(福岡県京都郡苅田町)  
平清経(宇佐市江須賀の若八幡神社)  
『アクセス』
「清経の墓」 JR柳ヶ浦駅下車徒歩約10分
『参考資料』
「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「大分県の地名」平凡社、1995年
新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社、昭和61年 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 
新定「源平盛衰記」(4)新人物往来社、1994年 白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年

 

 




コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
宇佐市柳ヶ浦 (揚羽蝶)
2017-01-07 18:50:50
 あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
宇佐市柳ヶ浦には、清経公入水の伝承があり、五輪塔もあるのですね。小松殿重盛公の領地に因んで、架かる
小松橋もあるとは、ゆかりが深いと思います。
謡曲のことは、詳しくありませんが、妻の夢の中に現れた清経の霊は、次々と押し寄せる敵を相手に、刀を抜いて立ち向かう修羅の有様を見せた後、念仏によって往生出来たとは、良かったと思います。
 
 
 
あけましておめでとうございます。 (sakura)
2017-01-08 09:05:36
こちらこそ、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

宇佐の柳ヶ浦は「平家物語」や「謡曲清経」が語る清経の悲劇を伝えていますね。

三十三間堂の南に後白河院が熊野権現を勧請し、清盛に命じて
社殿を造営させたという新熊野(いまくまの)神社があります。
この社の舞台に立っていた観阿弥・世阿弥父子が室町将軍足利義満の目にとまり、
義満はこの親子を庇護するようになります。
猿楽の役者の身分が低かった当時としては異例なことでした。
世阿弥の波乱に富んだ人生はここから始まりました。

時の将軍の援助を受けた世阿弥は義満の花の御所で教養を身につけていき、
幽玄の美を完成させていきました。
新熊野神社境内には、「能楽大成機縁の地」の記念碑と駒札がたっています。

世阿弥が「平家物語」に題材をとったものは40曲以上あり、
この物語は世阿弥にとって欠くことのできない素材となっています。

 
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