平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



龍国寺は、建仁3年(1203)に原田種直が平重盛の菩提を弔うため創建、
その後、
天正2年(1574)に原田隆種によって息子親種の
菩提を弔うため再興されたと伝えています。

龍国寺のある糸島(いとしま)市は、福岡県の西部に位置し、
北側と西側が玄界灘に面しています。

原田種直は藤原純友の乱で勇名をはせた大蔵春実(はるざね)の子孫で、
この大蔵一族は九州各地に広がっていました。
平清盛の大宰大弐時代にその家人となり、
種直の妻は平重盛の養女とも(頼盛の娘とも)いわれ、
平氏与党勢力の要となって働きました。


平家都落ちの時にも終始忠誠を尽し、安徳天皇一行を安徳台の
館に迎え入れました。壇ノ浦合戦に先だつ元暦2年(1185)2月には、
源範頼率いる平氏追討軍を種直といとこの板井種遠が
筑前国蘆屋の浦(福岡県遠賀郡芦屋町)で迎え撃ちましたが、
弟の敦種が戦死して敗北(蘆屋浦の戦い)。
範頼はここに拠点を築き、彦島に拠を移した
平氏の背後を攻撃するのに好都合の地の利を得ました。
続く3月の壇ノ浦の戦いにも、種直は敗れ一族の多くを失いました。

敗戦後、頼朝の厳しい追及を受け、3700町歩に及ぶ
広大な領地も没収されました。
平山季重に預けられて鎌倉の扇ヶ谷(かめがやつ)に
幽閉され、13年の歳月が過ぎました。
種直は平家重臣であったため、罪は重く、
その罪を免れることは叶わぬ身ではありましたが、
季重は種直の助命を頼朝に嘆願しついに赦免されました。

平山季重(すえしげ)は、武蔵七党の一つ 西党に属し、源家譜代の家人として
保元・平治の乱に参加、一の谷の戦いでは、義経別働隊に加わっていましたが、
途中、功名手柄を目ざして隊を抜け出し、熊谷直実と先陣争いをして
平家の陣に突入、勝利のきっかけ作ったつわものとして知られています。
平氏滅亡後の奥州征伐など、すべての戦場に出陣し戦功を挙げ、
頼朝から原田種直の没収地を賜り、以後、季重は筑前国三笠郡原田荘の
地頭職としてしばしば九州へ赴いています。

建久8年(1197)に種直は赦され、筑前国怡土(いと)庄
(現、糸島半島の一部、福岡市の一部)に領地を与えられます。
鎌倉幕府の支配力が固まると、種直の子孫、
秋月氏・深江氏・青柳氏もしだいに御家人となり、
一族およびその子孫は筑前・筑後・肥前を中心に繁栄していきます。

無人の一貴山(いちきさん)駅

 駅前にたつ観光案内板の前を通り過ぎ、県道572号線に入ります。



この標識に従って3㎞ほど山側に行くと、唐原(とうばる)集落があります。
その集落には、壇ノ浦合戦に敗れた平家の落人が隠れ住んだといわれ、
平家都落ちの際、原田種直を頼ってきた平重盛内室と息女の塚があります。

 龍国寺は突き当り右手の山麓にあります。

龍国寺全景

門前のせせらぎ、 苔むした石垣



 龍國禅寺山門

釈迦如来像右側は大乗妙典一石一字塔 

「大乗妙典一石一字塔」と彫られています。
一石一字とは、大乗妙典の経文の文字を一文字ずつ小石に書き写したもので、
それを地中
に埋め、その上に建てた供養塔がこの石です。

「龍國寺
曹洞宗庁法幢会萬歳山龍國禅寺は建仁三年(一二〇三)小松内大臣
平重盛公の菩提の為 重盛公を開基とし  ?原田種直公創建の寺なり
 初め小松山極楽寺と号し 徹慶智玄大和尚を請じて開山となし 
天台宗の寺なりしが 至徳元年(一三八四)足利将軍義満公伽藍仏像を造立し
 充祐大和尚を請じて曹洞宗となる  その後天正二年(一五七四)
高祖城主原田隆種公は四男親種公菩提の為寺を再興 号を萬歳山龍國禅寺と改め
 本室智源大和尚を請じて中興開山となし現在に至る 」(碑文より)
萬歳山は種直の法名の萬歳院からとったもので、
龍国寺は親種の龍国寺殿によるという。


本堂 




本堂内部

経蔵堂

門前に広がるのどかな田園風景 

原田種直と安徳天皇(安徳台安徳宮) 
原田種直(岩門城跡)  
熊谷直実、平山武者所季重の先陣争い(巻九・一二の懸)  
『アクセス』
「龍国寺」福岡県糸島市二丈波呂(はろ)474
JR博多駅から筑肥線「一貴山駅」下車 徒歩約45分
『参考資料』
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和49年 「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年 
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年  安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年
「日本史大事典」平凡社、1993年 全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、平成17年

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


« 謡曲大原御幸 平貞能、平家... »
 
コメント
 
 
 
何も知らずに九州各地に落人の里があるのはどうしてかと思っていたのです。 (yukariko)
2017-03-25 21:49:59
原田種直を頼ってきた平重盛内室と息女の塚もあるのですね。
平氏も元々西国から勢力を伸ばして都に上った訳で、息のかかった家人たちは追捕を逃れて勝手の分かる地元に近い場所に隠れ住んだでしょうし、鎌倉幕府から許されて九州の故郷に帰り、その地で一族を増やし御家人として繁栄していった人達もいたのですね。
 
 
 
平家の残党 (sakura)
2017-03-26 17:21:46
壇ノ浦合戦後、頼朝の残党に対する詮索は厳しかったのですが、
生き残った平家有力家人もいます。

福岡県の西部、糸島半島のつけ根に位置する前原市には、
白村江の戦いに敗れた後、新羅の来襲に備えて築かれたという
古代の山城である怡土(いと)城がありました。
故郷に帰った原田種直が鎌倉期にその一部を修築し、
本城にしたと伝えられ、城跡全体が国の史跡に指定されています。

平家の落人伝説や平家谷は全国各地にありますが、
特に九州、四国、中国地方に多く見られます。
熊本県の五家荘は辺境の地にありますが、現在観光地化していてよく知られています。

五家荘のうち、椎原と久連子(くれこ)地区は緒方領と呼ばれています。
以前にも少しご紹介しましたが、『肥後国誌』によると、
重盛の息子、清経は柳浦で入水したと見せかけ、
豊後国に逃れ緒方実国に匿われ、実国の娘との間に清国が生まれました。
その孫が五家荘に移り住み、これが平家谷の起源としています。

ここには、平家の落人達が都を偲んで舞ったと言い伝えられる久連子踊りがあります。
熊本に住んでいた時、県立劇場でこの踊りを何度か見ました。
久連子産の「久連子鶏(くれこどり)」の黒く長い羽をつけた
花笠をかぶり、優雅で勇壮的に踊ります。
 
 
 
龍国寺 (揚羽蝶)
2017-03-26 18:36:39
 龍国寺は、由緒ある立派なお寺ですね。龍の彫り物も細部までよくできていると思います。
重盛公や原田種直公にゆかりのあるお寺が、九州のこんなところ(失礼)にあるなんて、実に広大な領地を、持っていたのですね。
 
 
 
お察しの通りです (sakura)
2017-03-27 11:28:59
立派で品のよいお寺です。
ちょうど法事が行われていたので遠慮させていただきましたが、
境内の後方には、手入れの行き届いた素敵な庭園もあるようです。

鎌倉期には、筑前守護武藤資頼(すけより)が原田種直の広大な領地に入り、
降伏し後に赦免された種直の領地は、現在の糸島半島の一部と福岡市の一部だけとなり、
原田氏は武藤氏の管理下に雌伏し、時がくるのを待っていました。

南北朝内乱期になると、原田氏は失地回復を図り、
姓を少弐氏と改めた武藤氏に敵対し一族が台頭してきます。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。