私は猟奇的な趣味はないが、犯罪の社会的背景、犯罪心理学、死刑制度、警察検察、裁判等に興味があって入手できるいろいろな報告書、作家によるドキュメンタリー、関連小説などを集めて読んできた。リストアップすれば優に100冊は超えるだろう。
本書にある津山事件は戦前1938年(昭和13年)5月未明に現・岡山県津山市加茂町行重の集落で発生した。2時間足らずで30名(本人を含めると31名)死亡、3名が重軽傷を負った。当時としては世界最大級の殺人事件であった。犠牲者数が27名のオウム真理教事件も上回る、日本の犯罪史上前代未聞の事件であった。
本年の京アニ事件は死者36人で、この事件を上回った。
この事件をヒントに作家の横溝正史が「八つ墓村」を、松本清張が「闇に駆ける猟銃」を上梓している。
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犯人の青年は犯行21歳。2歳のときに父を、3歳のときに母を肺結核で亡くし祖母が後見人となって育てられた。成績は優秀だったが次第に家に引きこもるようになり、同年代の人間と関わることはなかった。
一方で、子供向けに自信が作り直した小説を近所の子供達に読み聞かせて、彼らの人気を博していた。さらに、近隣の女性達とこの地域での風習でもあった夜這いなどの形で関係を持つようになっていた。
徴兵検査不合格と、不治の病という二重のショックで、失意のどん底にたたき落とされ、性的異常素行などで村では完全に孤立状態となった。
その一方で、自分を拒否した女性達に憎しみをいだき、特に自分と関係を持ちながらも、別の男と結婚した二人の女性には、とりわけ強い殺意を持つようになっていた。
やがていつの頃からか銃や刃物を集め、来たるべき日に備えて、山奥で射撃の練習した。
実行の3日前、犯人は遺書を残している。自分の悪口を言って歩いた何人かの女性の名前をあげて、「復讐のために殺す」という内容などが書かれてあった。
反抗の日、夕方に村の送電線と電話線を切断。当時は強風などで停電が珍しくなかったために誰も怪しむ者は無かった。
深夜、彼は鉈を手に、まず眠りについていた祖母の首を斬り落とす。事件後に悲しい思いをさせたくなかったからと自殺直前の遺書に認めてあった。
次いで、詰襟の学生服を着込み足にはゲートル、頭には2本の懐中電灯を括り付け夜中の村へ出た。
隣家で老婆とその娘を日本刀で刺殺。次は、かつて夜這い相手だった人妻の家に忍び込み下腹部へ散弾を打ち込んだ。夫も幼い娘も即座に射殺。
深夜1時から、わずか2時間足らずで30人の村人を殺害した犯人は、村はずれの家を訪ね、紙と鉛筆を所望し、山の高台に上り姉に宛てた遺書を書き記した後、猟銃を自分に向け、その引き金を引いた。
自殺直前に書いた遺書には、「村人の余所者へ対する差別」、「結核患者への差別」、そして夜這いなどの「村の悪しき因習」について記されていた。
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犯人の遺書はしっかりした内容で異常性はそれほど感じられない。それがために、凶暴性、偏執性、凶行のすべてが、一層おそろしい。
30人殺しの方法や内容は生々しく、背筋が凍る思いがする。
彼を追い詰めたのはなんであったのか。犯人を含め多くが死亡しているために推定しかない。
関係者によっていろいろ取りざたされた。多くは、父母愛の欠乏、爛れた性、の因習、疎外感孤立感などが挙げられるが、あくまでも一因でしかなかろう。
本書にある津山事件は戦前1938年(昭和13年)5月未明に現・岡山県津山市加茂町行重の集落で発生した。2時間足らずで30名(本人を含めると31名)死亡、3名が重軽傷を負った。当時としては世界最大級の殺人事件であった。犠牲者数が27名のオウム真理教事件も上回る、日本の犯罪史上前代未聞の事件であった。
本年の京アニ事件は死者36人で、この事件を上回った。
この事件をヒントに作家の横溝正史が「八つ墓村」を、松本清張が「闇に駆ける猟銃」を上梓している。
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犯人の青年は犯行21歳。2歳のときに父を、3歳のときに母を肺結核で亡くし祖母が後見人となって育てられた。成績は優秀だったが次第に家に引きこもるようになり、同年代の人間と関わることはなかった。
一方で、子供向けに自信が作り直した小説を近所の子供達に読み聞かせて、彼らの人気を博していた。さらに、近隣の女性達とこの地域での風習でもあった夜這いなどの形で関係を持つようになっていた。
徴兵検査不合格と、不治の病という二重のショックで、失意のどん底にたたき落とされ、性的異常素行などで村では完全に孤立状態となった。
その一方で、自分を拒否した女性達に憎しみをいだき、特に自分と関係を持ちながらも、別の男と結婚した二人の女性には、とりわけ強い殺意を持つようになっていた。
やがていつの頃からか銃や刃物を集め、来たるべき日に備えて、山奥で射撃の練習した。
実行の3日前、犯人は遺書を残している。自分の悪口を言って歩いた何人かの女性の名前をあげて、「復讐のために殺す」という内容などが書かれてあった。
反抗の日、夕方に村の送電線と電話線を切断。当時は強風などで停電が珍しくなかったために誰も怪しむ者は無かった。
深夜、彼は鉈を手に、まず眠りについていた祖母の首を斬り落とす。事件後に悲しい思いをさせたくなかったからと自殺直前の遺書に認めてあった。
次いで、詰襟の学生服を着込み足にはゲートル、頭には2本の懐中電灯を括り付け夜中の村へ出た。
隣家で老婆とその娘を日本刀で刺殺。次は、かつて夜這い相手だった人妻の家に忍び込み下腹部へ散弾を打ち込んだ。夫も幼い娘も即座に射殺。
深夜1時から、わずか2時間足らずで30人の村人を殺害した犯人は、村はずれの家を訪ね、紙と鉛筆を所望し、山の高台に上り姉に宛てた遺書を書き記した後、猟銃を自分に向け、その引き金を引いた。
自殺直前に書いた遺書には、「村人の余所者へ対する差別」、「結核患者への差別」、そして夜這いなどの「村の悪しき因習」について記されていた。
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犯人の遺書はしっかりした内容で異常性はそれほど感じられない。それがために、凶暴性、偏執性、凶行のすべてが、一層おそろしい。
30人殺しの方法や内容は生々しく、背筋が凍る思いがする。
彼を追い詰めたのはなんであったのか。犯人を含め多くが死亡しているために推定しかない。
関係者によっていろいろ取りざたされた。多くは、父母愛の欠乏、爛れた性、の因習、疎外感孤立感などが挙げられるが、あくまでも一因でしかなかろう。
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