福田の雑記帖

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映画「風立ちぬ」(3)わけのわからない批判がある

2013年09月15日 05時35分34秒 | 映画評


 映画「風立ちぬ」は私は良い作品だと思ったが、いろいろ批判的な意見もあるようだ。

■喫煙シーンについて ーーーこの作品でそんな事が言えるのか
 喫煙が肯定的に表現されている、と日本禁煙学会が苦言を呈したと言う。男性の80%近くが喫煙していた時代、恩賜タバコもあった時代の国民の生活の表現に私は不適切さを読み取れなかった。
 映画の中で喫煙を推奨などしていない。確かに、喫煙の場面が一切なくとも作品の価値には影響はなかっただろう。しかし、監督は堀越氏を語るに必要と感じたから、喫煙の場面も取り入れたのだろう。
 喫煙の場面が教育的に悪いと言うなら、過去を目隠しするより未来に向かってどう過去を材料にするかの方が重要だろう。教育は事実を隠蔽するものであってはならない。わが国の文化は隠蔽文化だと思う。不適切と思ったら悪しき例に挙げて利用すれば良い。
 今は銃刀剣の保持は禁止されている。これを用いた映画は非教育的なのか?

■軍国主義の美化についてーーーこの作品でそんな事が言えるのか
 零戦の設計者、堀越二郎氏をモデルにしていることなどが、軍国主義の美化であると宮崎監督の姿勢が批判の対象になっている。激動の時代の流れの中ですべての国民が苦痛に耐えて生きていた時代、選択肢が狭められた時代、飛行機製造に技能があるものは軍用機を作るしかなかった。堀越氏に選択の自由はなかった。
 その時代の中で生きていたのだから、自分の仕事のなかでベストをつくしかなかった。その結果出来上がったのが優秀な飛行機であった。勿論、欠陥もあった。堀越氏は間違っていたのだろうか。私は間違っていなかったと思う。宮崎監督は堀越氏の生き方をフィクションを加えて映像化した。この作品は軍国主義を美化などしていない。


 世界的に見ても一級の能力を持った零戦を作った事の責任? 私はないと思う。これはドキュメンタリーではない。一人の技術者の生き方を、虚構をまじえたアニメ作品に仕上げただけでしかない。宮崎監督が抱く堀越氏へのイメージの具現化である。

 零戦は第二次世界大戦の主役でもない。鉄、ジュラルミンの固まりでしかない。零戦としての機能を十分発揮するには優秀な操縦士が必要である。操縦士は拒否する事の出来ない軍の命令、すなわち国の命令を受けて滅私で操縦した。5.000名近くが機とともに殉職した。彼らが敵機を撃墜したとしても、特攻機を操縦したとしても罪はない。大罪は別にある。

 特攻隊で殉職した隊員は軍神としてあがめられたが、戦後は一転して非難の対象となった。時代の流れが人々の考え方を変えた。戦後、零戦の能力が一般的に知られるようになって神話的扱いを受けたが、そのうちに欠陥機としての評価となった。堀越氏への評価もそれと共に変わっていった。軽軽と変わっていく世論は恐いものである。

 私は史実を知り評論・評価するのは推奨すべき事と思う。しかし、批判・非難は慎重でなければならない。言葉の遊びであってはならない。
 私は「何もしなかった人ほど、立場を軽軽と変え、過去を厳しく批判する」と思っているが、そんな意見に接するのは辛い。「風立ちぬ」への批判についてもそう感じている。
 
コメント (1)
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