京都黒谷会津藩墓地、入って左側2列目に
沼澤明通之墓という立派な墓碑がある。
会津沼沢氏は、山ノ内七騎党沼沢丸山城主
沼沢山内出雲守藤原政重の一族。
会津若松図書館所蔵、沼沢家系図並記録によれば、
明通は山内氏一門沼沢実通の子孫。
天正三年、伊達家に内応した関柴備中を
討取ってのが、この沼沢実通。
葦名家滅亡のあと、磐城鳥居家に仕え、そのあと
寛永十三年、最上で保科家に仕えた。
代々、猪苗代城代となり番頭上席に列している。
保科家に仕えた沼沢実通を初代として、
十代沼沢九郎兵衛の妻が道子。
その子、六郎が十一代沼澤明通。
京都黒谷会津藩墓地の沼澤氏はこの明通。
沼澤明通之墓 元治元甲子年九月六日とある
池田屋騒動が元治元年六月、禁門の変が七月、
死亡の原因はなんだったのだろうか?
母、道子は戊辰の八月二十三日、
若松自邸で姑貞子(西郷頼母娘)を介錯、
ゆや、すがの娘二人とともに自刃した。
沼澤明通之墓という立派な墓碑がある。
会津沼沢氏は、山ノ内七騎党沼沢丸山城主
沼沢山内出雲守藤原政重の一族。
会津若松図書館所蔵、沼沢家系図並記録によれば、
明通は山内氏一門沼沢実通の子孫。
天正三年、伊達家に内応した関柴備中を
討取ってのが、この沼沢実通。
葦名家滅亡のあと、磐城鳥居家に仕え、そのあと
寛永十三年、最上で保科家に仕えた。
代々、猪苗代城代となり番頭上席に列している。
保科家に仕えた沼沢実通を初代として、
十代沼沢九郎兵衛の妻が道子。
その子、六郎が十一代沼澤明通。
京都黒谷会津藩墓地の沼澤氏はこの明通。
沼澤明通之墓 元治元甲子年九月六日とある
池田屋騒動が元治元年六月、禁門の変が七月、
死亡の原因はなんだったのだろうか?
母、道子は戊辰の八月二十三日、
若松自邸で姑貞子(西郷頼母娘)を介錯、
ゆや、すがの娘二人とともに自刃した。