大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

会津藩士 沼澤明道

2008-01-14 | 掃苔
京都黒谷会津藩墓地、入って左側2列目に
沼澤明通之墓という立派な墓碑がある。

会津沼沢氏は、山ノ内七騎党沼沢丸山城主
沼沢山内出雲守藤原政重の一族。

会津若松図書館所蔵、沼沢家系図並記録によれば、
明通は山内氏一門沼沢実通の子孫。

天正三年、伊達家に内応した関柴備中を
討取ってのが、この沼沢実通。

葦名家滅亡のあと、磐城鳥居家に仕え、そのあと
寛永十三年、最上で保科家に仕えた。
代々、猪苗代城代となり番頭上席に列している。

保科家に仕えた沼沢実通を初代として、
十代沼沢九郎兵衛の妻が道子。
その子、六郎が十一代沼澤明通。

京都黒谷会津藩墓地の沼澤氏はこの明通。
沼澤明通之墓 元治元甲子年九月六日とある

池田屋騒動が元治元年六月、禁門の変が七月、
死亡の原因はなんだったのだろうか?

母、道子は戊辰の八月二十三日、
若松自邸で姑貞子(西郷頼母娘)を介錯、
ゆや、すがの娘二人とともに自刃した。
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