大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

蒲郡 正祷山長存寺

2023-12-22 | 掃苔

下ノ郷鵜殿氏菩提寺である長存寺は、久松俊勝菩提寺安楽寺、五井松平氏菩提寺長泉寺、西郡松平氏菩提寺天桂院と共に西郡の四大寺のひとつで、三河国宝飯郡誌によれば「開基慶長十五年三月 日存上人 檀徒千百六十四任境内に乗円坊(寛永十四年十二月創立)智積坊(寛永十五年三月創立)ノ二坊アリ旧寺領三石當寺ハ往昔天台宗ナリシト云う鵜殿ノ墓アリ」とある。


長存寺鵜殿家墓域の墓碑に、室町時代紀州熊野より当地に移り下郷城主となった鵜殿又三郎長存は深く法華宗に帰依し当時実相坊と称した当寺を信仰した。その後、長存子の又三郎玄長が越後本成寺貫主日意聖人に願って寺号を長存寺としたとある。

鵜殿家墓域


一乗院殿日庵 幽儀(鵜殿長照墓)
天文十二年 長存院日長 二月十七日
鵜殿家墓域墓碑銘
鵜殿又三郎長存公は室町時代紀州熊野より当地に移封せ来て下郷
城主であった 深く法華宗に帰依し当時実相坊と称した当寺を信仰
し保護されたので人呼んで長存の寺と言われた後にその息又三郎玄
長は越後本成寺貫主日意聖人に願つて寺号を長存寺として永く父の
霊を弔うた。ここに墓地整備の特を幸として寺号となつた長存公を
偲び新らたに五輪の塔を建て永く後世に伝えんとするものである。

鵜殿氏諸々之霊供養塔

鵜殿氏由来碑銘 
鵜殿氏ノ者藤原ノ姓ニシテ左大臣師尹カラ出テ中将実方ノ
末裔ガ代々熊野別当職ヲ世襲シ 長政ニ至リ初メテ鵜殿ヲ稱
ス 紀伊国鵜殿村ニ住シ之レニ依ツテ、家号也
 南北朝争乱ノ後 元 熊野山領三河国西ノ郡ニ還居 上ノ 
郷ヲ始メ下ノ郷 柏原 不相 五井ニ築城 其ノ勢当時十二
万石ト云ウ 一族等中法華経ヲ信仰シ当地ニ長応寺 長存寺
ヲ建立 広ク参遠ニ位シ歴代今川氏ニ属ス
 悲シキ哉 永禄年中長照ガ時 鵜殿一族ハ徳川氏ト千戈ヲ
交エ城邑ト共ニ長応寺モ兵火ニ遭イ破廃ス  其後一族等ハ
悉ク徳川氏ニ隷属幕下ノ士トナリ 分レテ水戸 鳥取 島原
高松 阿波 長岡ノ諸藩ニ仕エテ明治ニ至ツタ 我ガ系ノ祖
 長照ガ末弟長法也 其ノ子長清 武田万千代君ニ仕エ四百
石 後 代々水戸藩ニ仕エ連綿ト続キ 今 家祖長近カラ十
五代ノ後裔也  今日 縁シノ地 蒲郡ニ家祖長近ノ五百回
忌ト諸々ノ鵜殿一族ノ霊ヲ併セテ供養シ 長存墓碑再建ノ側
  地ニ此ノ碑ヲ建立シテ永ク鵜殿氏由来ヲ銘ズルハ望外ノ
   喜ビトスルトコロデアル
    昭和四十八癸丑年四月
     家祖藤太郎長近十五代ノ孫  鵜殿 学  識

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安楽寺久松俊勝宝筺印塔から鵜殿長照墓所へ

2023-12-16 | 掃苔

西郡の四大寺の一つだという安楽寺に向かう。西郡の四大寺とは蒲郡の五井町の長泉寺、清田町の安楽寺、蒲郡町の天桂院、上本町の長存寺で、安楽寺は。三河十二本寺のひとつともいう。三河十二本寺と云うのは三河地方にある十二の浄土宗西山深草派寺院の総称で京都中京区の浄土宗西山深草派総本山誓願寺に次ぐ中本山の格式を持つ寺だと云う(蒲郡の安楽寺、岡崎の法蔵寺、崇福寺、圓福寺、浄珠院、大林寺、梅園誓願寺、西尾の不退院、桂岩寺、養國寺、養寿寺、恵験寺の十二寺)。蒲郡市観光協会公式サイト「安楽寺」の説明にまぼろしの西郡四大寺とあり、何が幻なのか解らなかったが、西郡四大寺とか三河十二本寺という呼び名は、地元での認知度は高いのだろうか。


安楽寺は山号を楠林山、院号は和合院、浄土宗西山深草派寺院で、応永十五年(1408)開基は本山龍芸上人。本尊は天台宗勧学院別院和合院の阿弥陀。勧学院が衰退し、その荒堂より楠林の精舎に移し、旧号並べ楠林山和合院とした。永禄五年(1562)、上ノ郷城主鵜殿氏の一族敗死の後、その戦功により尾州阿古居城主久松佐渡守長家(俊勝)が西郡城を賜り、之により安楽寺を菩提寺と定めたという。水野忠政の娘、於大は松平信元に嫁ぎ、広忠の長男竹千代(後、家康)を生んだが、兄、清水信元が今川氏に離反し、織田氏に属したため信元に離婚され、のち久松長家(後、俊勝)と再嫁した。本堂に安置してあった伝通院の位牌は、残念なことに平成27年(2015)10月の火災で焼失してしまったという。


仮の建物の近くに久松俊勝宝筺印塔があった。この安土桃山時代の久松俊勝宝筺印塔と江戸時代建立の安楽寺山門は市文化財に指定されている。安楽寺から西に5~600mの所に上ノ郷城跡があり、さらに西に400m位の先に鵜殿長照墓所が地図に載っていた。さほど遠くないと寄ってみた。ミカン畑に囲まれていて目印もなくたどり着くのに大変だった。


蒲郡市博物館のパンフレットに鵜殿長照墓所は神ノ郷町西門前又十墓地だとある。又十とは名前なのか、地名なのかよく判らなかったが、西門前の東側は東門前という地名になっている。城の北西に久古山正行院がある。三河国宝飾郡誌に「往古は久古山妙了寺と称し鵜殿家菩提寺なりし処永禄五年鵜殿落城の際廃頽し釈迦堂の名のみ存せりしを延宝六年二月再興し久古山正行院と号す」とある。さらに長応寺跡の項に「往古は久古山妙了寺の末寺にして永禄五年焼失により時の僧日応上人江戸皆咎門内(現日比谷)へ移転し其後芝高名輪に移り現今芳荷山長応寺と云これなり長応寺は鵜殿家代々の菩提寺にて七堂の寺なりし由なりと云」とあり、西門前には妙了寺末寺の勝光坊が永禄五年に焼失により廃寺となるとの記載もある。長応寺が具備すべき堂塔、七堂を全て備えていた寺だとすればかなり大きな寺だったと思われる。鵜殿長照墓所は旧長応寺の境内の中だったのだろうか。鵜殿長照は今川氏の武将鵜殿長持の嫡男で、桶狭間の戦いのとき大高城の城代で、この城に兵糧を運びいれたのが松平元康(後の家康)。桶狭間の戦いの後も今川方に属していた長照は松平勢と争い、永禄五年(1562)、家康勢に長照の上ノ郷城を攻められ落城、長照は討死、長照子の氏長と氏次は捕らえ、その後、駿府に送られていた家康の室築山殿と子信康との人質の交換となった。

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東三河 龍田山長泉寺

2023-12-09 | 掃苔

蒲郡五井の長泉寺を訪ねる。


参河誌によれば建久五年(1192)源範頼が国司のとき、奉行安達盛長が三河に七堂を建立、七箇寺と呼ばれその一つが龍田山長泉寺で、青龍山金蓮寺、煙巌山鳳来寺、赤岩山法言寺(現赤岩山赤岩寺)、船形山普門寺、陀羅尼山財賀寺、御堂山全福寺(廃寺)合わせて七堂が三河七御堂と呼ばれている。


本堂左側の渡り廊下の上に鐘楼を乗せた渡殿の先の本堂裏手に安達藤九郎盛長の五輪塔があった。墓とも供養塔とも言われている。盛長は鎌倉幕府に仕えた有力御家人で、伊豆に流された源頼朝に仕え、その後、奥州合戦の軍功により陸奥国安達郡を賜り、姓を安達と替える。正治元年(1199)、頼朝の死後、二代将軍源頼家の宿老として十三人の合議制(鎌倉幕府の集団指導体制)の一人となる。妻は源頼朝の乳母(比企尼)の娘丹後内侍。
戦国時代、五井に進出した五井松平の初代は諸説あり家譜もはっきりしていないが寛政重修諸家譜によれば、松平信光の七男忠景を祖として深溝松平忠定の兄、元心(長勝)を二代、信長を三代としている。永正五年(1508)、長勝は長泉寺を五井松平の菩提寺として再興し、天台宗から曹洞宗に改め、号を龍田山、開山は祥山恵禎、田原大久保の長興寺末寺となっている。祥山恵禎は曹洞宗雲龍山長興寺四世で満珠山龍海院を開山した模外惟俊の弟子で、のち長泉寺の本山長興寺の五世住職となっている。寛政重修諸家譜、五井松平忠景に記載のある「忠景より太郎左衛門景忠にいたるまで五井を領し、文明十七年七月十四死す、、、、これより景忠に至るまで葬地とする」とある。


五井松平家五代の墓をさがした。寺墓地の奥に無縫塔が並び、その横に一列に並んだ石塔があった。


これが五井松平五代の墓かと思ったら、石塔は六基、しかも大きさ順に並んでいる。左側三基が五輪塔の塔身(?)の上に宝篋印塔の笠を載せその上に受花、宝珠を乗せている。左から四基目に五輪塔、五基、六基目は五輪塔の笠から上が落ちた状態であった。六基並んでいるので、どれが五代の石塔か不明で、結局、五井松平家五代の墓は何処だかわからなかった。むしろ、途中にあった石塔群のほうが年代的に古そうな感じだった。忠景・元心・信長・忠次・景忠までの墓は別にあるのだろうか。天文四年(1535)安城松平四代広忠(家康父)は桜井松平初代信定と争いになり岡崎から伊勢に逃れた。五井松平三代信長も領地を捨てて広忠に従う。天文六年(1537)、広忠は再び岡崎城主となった。五井松平四代忠次は天文十六年(1547)、松平広忠に離反した一族の松平信孝(三木松平初代、家康の大叔父)勢と渡河内において戦い討死。父忠次が戦死のとき、嫡男景忠、六,七歳の幼年のため広忠の命により叔父の信次(忠次弟)に家政を執らせたという。六代伊昌は伏見城代となり大坂天満の正泉寺に葬られ、七代忠實は采地の海上郡岡野台(現銚子市岡野台)等覚寺に葬られる。

安達藤九郎盛長五輪塔は蒲郡市文化財として指定されている。

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幸田本光寺 深溝松平家墓所

2023-12-02 | 掃苔

愛知県幸田の本光寺は深溝松平家の菩提寺であり墓所になっている。深溝という地名、読名は「ふこうず」だと言う。深溝松平家の出自は十八松平という。十八松平は三河松平氏の庶家十八家のことで、寛政重修諸家譜でどこが十八の松平に該当するか探してしまった。三河松平氏のどの庶家が十八松平を指すかは書物によって異なるとウィキペディアにあった。一説によると松の異字体枩をばらして十八も数にしたとも伝わるが本当なのだろうか。三河松平の宗家は泰親の長子信広の松平郷松平家ということになる。三河の地名が分からないこともあるが、三河松平家の系譜を見ても親、忠、家、重とかの通字が入り混じっていて、すぐどこの松平氏かわからなくなってしまう。松平家の簡単な系図を作ろうと始めたが多すぎて直ぐ諦めた。寛政重修諸家譜の清和源氏義家流松平諸流略図にある新田太郎義重を遠祖、はじめ三河国松平郷に移り住み松平と称した親氏を初代として、二代泰親、三代岩津松平祖信光、四代親忠の孫長親は徳川家康の高祖父になる。寛政譜によれば松平信光の七男忠景の二男忠定を深溝松平家の祖とする。二代好景、東條の吉良義昭と善明堤の戦いで討死、三代伊忠、武田勢との長篠の戦いで討死、四代家忠は関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城で豊臣勢と戦い籠城討死、二代から四代まで家康に従軍し、何れも戦死している。
深溝松平家墓所は山門を潜ると正面の本堂への参道左側に初代から四代までと十一代忠祗の墓と五代忠利の肖影堂がある西廟所と山門右手の奥に六代忠房から十一代忠恕を除く十延滞的に九代忠諒までの墓がある東廟所に分かれる。

 

山門を入りすぐ右手の五輪塔は深溝松平十三代忠侯室天妙院(近江彦根藩十五代藩主井伊掃部頭直亮娘)と右隣は十五代忠精室俊光院(出羽国庄内藩八代藩主酒井忠器娘)の五輪塔がある。
東廟所


六代忠房墓と永春院墓

東廟所は六代忠房の室(永春院)の逝去に伴い新たに松平家墓所として造営された。忠房は吉田神道に帰依し忠房以降、神殿型墓標に葬られている。深溝松平家の正室、側室、庶子女の菩提寺は青山玉窓寺、中野宝泉寺としている。五代忠利から十七代忠愛までの藩主十三名が死没地にかかわらず、深溝の本光寺に埋葬されている。深溝への遺骸の埋葬は、五代忠利の遺命と伝承されている。
西廟所
初代から四代墓所


初代忠定墓           二代好景墓

三代伊忠墓           四代家忠墓

十一代忠怒石祠

左)六代長男好房墓   右)松平次章墓

深溝松平家では菩提を弔う「菩提寺」と廟の管理を行う藩士による「廟守」とに分かれていた。昭和の初めに寺に墓所の管理を一元化した。廟守は島原藩士とその子孫により昭和九年まで二百五十年近く続けられたという。

西廟所にある亀跌碑の向きが気になっていたが、航空写真をみると東廟所も全体的に真南を向いていない。西廟所にある亀跌碑は真南に対して反時計回りに約5度、東廟所の地形は真南に対して時計回りに約3度南北の軸から向きを変えている。亀跌碑の向いている延長線は450m先の深溝字権行寺にある素盞鳴神社本殿にぶつかった。東廟所中央の延長線上もこの素盞鳴神社の境内を通り山門の先で亀跌碑の向きの延長線とぶつかった。三河には素盞鳴神社が多くある。深溝素盞鳴神社の情報は何も分からなかつたが、祖宗紀功碑である亀跌碑の向きが、偶々素盞鳴神社の方向を向いていたのか、それとも何かほかの理由があるのだろうか。

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