下ノ郷鵜殿氏菩提寺である長存寺は、久松俊勝菩提寺安楽寺、五井松平氏菩提寺長泉寺、西郡松平氏菩提寺天桂院と共に西郡の四大寺のひとつで、三河国宝飯郡誌によれば「開基慶長十五年三月 日存上人 檀徒千百六十四任境内に乗円坊(寛永十四年十二月創立)智積坊(寛永十五年三月創立)ノ二坊アリ旧寺領三石當寺ハ往昔天台宗ナリシト云う鵜殿ノ墓アリ」とある。
長存寺鵜殿家墓域の墓碑に、室町時代紀州熊野より当地に移り下郷城主となった鵜殿又三郎長存は深く法華宗に帰依し当時実相坊と称した当寺を信仰した。その後、長存子の又三郎玄長が越後本成寺貫主日意聖人に願って寺号を長存寺としたとある。
鵜殿家墓域
一乗院殿日庵 幽儀(鵜殿長照墓)
天文十二年 長存院日長 二月十七日
鵜殿家墓域墓碑銘
鵜殿又三郎長存公は室町時代紀州熊野より当地に移封せ来て下郷
城主であった 深く法華宗に帰依し当時実相坊と称した当寺を信仰
し保護されたので人呼んで長存の寺と言われた後にその息又三郎玄
長は越後本成寺貫主日意聖人に願つて寺号を長存寺として永く父の
霊を弔うた。ここに墓地整備の特を幸として寺号となつた長存公を
偲び新らたに五輪の塔を建て永く後世に伝えんとするものである。
鵜殿氏諸々之霊供養塔
鵜殿氏由来碑銘
鵜殿氏ノ者藤原ノ姓ニシテ左大臣師尹カラ出テ中将実方ノ
末裔ガ代々熊野別当職ヲ世襲シ 長政ニ至リ初メテ鵜殿ヲ稱
ス 紀伊国鵜殿村ニ住シ之レニ依ツテ、家号也
南北朝争乱ノ後 元 熊野山領三河国西ノ郡ニ還居 上ノ
郷ヲ始メ下ノ郷 柏原 不相 五井ニ築城 其ノ勢当時十二
万石ト云ウ 一族等中法華経ヲ信仰シ当地ニ長応寺 長存寺
ヲ建立 広ク参遠ニ位シ歴代今川氏ニ属ス
悲シキ哉 永禄年中長照ガ時 鵜殿一族ハ徳川氏ト千戈ヲ
交エ城邑ト共ニ長応寺モ兵火ニ遭イ破廃ス 其後一族等ハ
悉ク徳川氏ニ隷属幕下ノ士トナリ 分レテ水戸 鳥取 島原
高松 阿波 長岡ノ諸藩ニ仕エテ明治ニ至ツタ 我ガ系ノ祖
長照ガ末弟長法也 其ノ子長清 武田万千代君ニ仕エ四百
石 後 代々水戸藩ニ仕エ連綿ト続キ 今 家祖長近カラ十
五代ノ後裔也 今日 縁シノ地 蒲郡ニ家祖長近ノ五百回
忌ト諸々ノ鵜殿一族ノ霊ヲ併セテ供養シ 長存墓碑再建ノ側
地ニ此ノ碑ヲ建立シテ永ク鵜殿氏由来ヲ銘ズルハ望外ノ
喜ビトスルトコロデアル
昭和四十八癸丑年四月
家祖藤太郎長近十五代ノ孫 鵜殿 学 識