大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

青森八戸 対泉寺から大悲寺

2018-11-01 | 

文化八年(1811)の祈祷札を持つ十六羅漢が楼門二階に納められていたことから、八戸市内にある三間一戸の三楼門では、最も古いとされる山門が残る新井田の曹洞宗対泉寺から廻った。
 
 
 
この貴福山対泉院は甲州南部光行(南部氏祖)六子破切井実長(根城南部氏祖)の五代南部政長二子政持を祖とする新田氏と関係が深い。南部氏一族が甲斐より糠塚に下向したとき、随行した新田氏と共に対泉寺も移転し、新田氏の菩提寺になっている。南部光行の子実長は甲州巨摩郡に残り破切井(波木井)を氏とし、日蓮に帰依し、のち剃髪し身延山に久遠寺を建立している。対泉寺門前に天明三年(1783)の大凶作と疫病の大流行による餓死者、病死者供養の餓死供養塔、大凶作の惨状や教訓が刻まれた戒壇石があった。
 
三浦哲郎「おろおろ草紙」ゆかりの地という説明板があった。八戸領内の天明の大飢饉を描いた短編で作者は執筆中、なんどもこの供養塔を訪ねたという。この小説は当時の日録を基にして書かれたのではないかと思われるほど、リアルな事例が描かれており、飢餓下の農民の生きざまを恐ろしいほど描いている。20年以上も前に読んだ小説の舞台が八戸だったのをすっかり忘れていた。境内の池に一重咲きの淡紅色でやや細長い二十四弁の古代ハス、大賀ハスの花が咲いていた。
 
大賀一郎博士が千葉検見川での古蓮実の発掘の資金援助をしたのか八戸出身者だった縁で八戸に分根されたという。後で知ったが、対泉寺に大久保武道の墓があるという。名前だけではわからないが、清朝最後の皇帝で満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟溥傑の長女、愛親覚羅慧生と昭和三十二年、伊豆天城山で心中した学生といえば思い出す人も多いと思う。自宅に戻って愛親覚羅慧生・大久保武道遺簡集の一部を読んだ。純愛ゆえだったのか、同情からなのか、それとも不慮の災難だったのだろうか。三間一戸の楼門式山門の残る松館の福聚山大悲寺に行く。
 
 
 
根城南部長経は秋田安東氏との戦いで萬松寺の宝山正弥和尚の助けで、戦いに勝利した。宝山和尚を招き、松館にあった松月庵の跡地を復興し、応永十八年(1411)、大慈寺を開山。以後、根城南部氏の菩提寺としたと伝えられる。八戸にはもう一つの大悲寺がある。糠塚にある大慈寺は、松館大慈寺の宿寺として延宝年間(1670年代)に創建されたと伝わり、江戸時代後期に八戸城下に近いこともあって宿寺と本寺の地位が逆転したという。明治二十一年、松館大慈寺は独立寺院となる。三戸南部二十六代信直(後盛岡南部氏)の秀吉小田原征伐に参陣により本領安堵により、根城南部家は三戸南部家の従属関係となり、根城南部二十代直政が病死し、あとを継いだ二十一代春心尼(直政室)のとき、寛永四年(1627)、盛岡城の支城である遠野城に移封され大慈寺も遠野にお供し、八戸に残った大慈寺は一時廃寺となるが盛岡三戸二十七代南部利直が再興し、その後、寛文四年(1664)、利直七男直房が八戸藩二万石で立藩し八戸領内十ヶ寺の一つとして庇護されたという。八戸に同じ山号をもつ松館の大悲寺と糖塚の大悲寺がある。糖塚の大悲寺に行く。
  
 
 
 
南部氏も根城南部氏、八戸南部氏と盛岡南部氏とが入り混じって混乱する。旅行先の書店で名久井貞美著「八戸藩の悲哀」「八戸藩二百年の残像」という本を買った。

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