大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

静岡慈悲尾 増善寺

2018-05-25 | 

地方に行くと、何と読んでいいのか解らない地名がある。たぶん古い地名がそのまま残ったと思われるが、今回、最初に訪れたのが静岡駅から車で20分ほどにある駿河七ヶ寺の一つ、慈悲尾の増善寺で、慈悲尾(しいのお)の読み方が分らなかった。この「しいのお」の地名は、椎の尾(椎山の尾根)とも、ここに住んでいた安倍志斐連(しいのむらじ)という豪族から地名になったとも云い、また増善寺を古くは「慈悲王寺」と呼んだことから地名になったともいう。増善寺に来る途中にも、千代(せんだい)、建穂(たきょう)など読み名の難しい地名が残っていた。
 
 
安倍川の右岸丘陵部にある阿部城址の南東麓に今川氏親の手によって作られたのが慈悲尾山増善寺で、静岡県HPに「増善寺は、駿河今川氏七代目当主 今川氏親の菩提寺です。増善寺は天武天皇十年(681)に、道昭法師によって真言宗の慈悲寺として開かれました。明応九年(1500)に守護大名・戦国大名であった今川氏親が、辰応性寅禅師を開山に曹洞宗の増善寺として再興」とある。今川氏親は今川義元の父で、今川氏中興の祖で、今川家霊廟は本堂左手の墓地の最上段にある。
 
霊廟内には三基の五輪塔があり、中央の一番大きな五輪塔が氏親の墓だろうか。この三基の内二基は氏親夫妻で、あとの一基は早世した息子氏輝のものともいわれている。霊廟前の参道を下ると立派な五輪塔や宝篋印塔が見える。
 
五輪塔は柘植平右衛門正俊の墓で、正俊は織田与四郎行正の子で母方柘植氏の姓を名乗る。三河国刈谷の水野信元に仕えたのち、織田信長、織田信長、豊臣秀吉に仕え、上杉征伐や関ヶ原の戦いで徳川家康に従う。慶長十六年(1611)、駿府にて亡くなり、法名は宗天。
五輪塔の下側にある宝篋印塔は説明柱に駿府初代城代の松平勝政と松平勝忠のものだという。
 
 
どこの松平家だと思ったら、松平広忠に離縁された家康の生母、水野忠政の娘於大は久松定俊(俊勝)に嫁いだ。定俊と於大との三男、松平勝俊の娘を娶り、勝俊家を継いだのが水野忠分五男の松平勝政(法号道羅)で、勝政の孫にあたるのが松平勝忠(勝易・法号道雨)です。水野忠分は水野忠政の男で、於大の弟になる。戦国時代、三河松平氏、三河久松氏(後久松松平氏)、三河水野氏の姻戚関係が複雑。家康の父広忠の祖父信忠の妻は家康の生母、於大の祖父水野清忠の娘、そうなると松平広忠と水野於大とは異父異母の関係で、ただの遠縁ということになるのだろうか。婚姻、離縁の時期がはっきりしなければ、広忠と於大とが兄妹になってしまう。系図だけでは関係を理解するのに苦労する。
戊辰鳥羽伏見の戦いの責任を負わされ、屠腹を命じられた会津藩家老神保修理神保修理の弟北原雅長の墓のある浜松の西来寺に勝政の養父勝俊(法名澄清)の墓がある。ここには築山御前(瀬名姫)の廟堂、月窟廟がある。
 
 
増善寺境内の氏親歌碑
いかゞえむ 四十あまりの 年のをに とかぬ所の 法のまことを
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田原 誓願寺墓地

2018-05-11 | 小田原

慶応戊辰小田原戦役の責任を取って自刃した小田原藩家老岩瀬大江進の墓所のある誓願寺に箱根山崎で遊撃隊との戦で戦死した小田原藩士鈴木久太郎の墓がある。
  
墓碑には「慶應四年夏五月二十有六日 於相州山崎邑遊撃隊脱走之徒攻撃之時勉励力戦而遂討 死矣生季二十有五歳鈴木久太郎藤原英賢 明治二年己巳季二月六日 建立之家嗣鈴木又次郎藤原英起」とあった。(又次郎は久太郎弟)
また、この墓地内に九曜紋と変わった家紋のある相馬家の墓域がL字型にあった。


 
相馬家の墓碑も以前、会津藩士の墓を訪ねて小田原を廻った時に、どこかで見かけたが、どこのお寺か思い出さないでいた。変わった家紋もどこかで見たような文字だとしばらく考えていたら、何のことはなかった。それは数年前の午の年、年賀状の図案に使った馬の象形文字で、頭の部分の目がないのが気になったが、誓願寺にある相馬家の家紋がよく似ていた。
   
奥州相馬氏も下総相馬氏も家紋は平将門に繋がる九曜紋で、小田原の相馬氏墓域の家紋も九曜紋を使用、相馬氏の通字である胤を使用している事から平将門を遠祖と伝えられる相馬一族には違いないが、相馬氏は平安時代から続く大族で系図でも見なければ、どの相馬氏に続くか全く分からなかった。岩瀬大江進の碑文を写し取っている時に、ふと前に訪ねた、戊辰の小田原藩の責任を背負って自刃した小田原藩家老渡辺了叟の墓のある板橋の常光寺を思い出して訪ねた。
渡辺家墓域のすぐそばに相馬家の墓碑があった。古い墓碑には九曜紋と馬の篆書体のような頭に目がある文字紋があった。小田原の相馬氏墓所は常光寺が古く、理由は不明だが途中から誓願寺に替えている。
 
 

小田原相馬氏の一番古いと思われる常光寺の墓碑は、相馬澤右衛門胤貞立造の元禄三年(1690)に亡くなった相馬胤将(相源院)で、家臣の席順を並べた寛文十年(1670)唐津順席帳に用人として相馬七左衛門の名がある。大久保忠朝が唐津藩を相続したのが寛文十年、文久二年(1862)の古小田原御家中先祖并親類書に相馬清四郎(胤明・松寿院)の名があった。古小田原とは大久保忠世、忠燐の時代から小田原藩家臣となった者たちで、小田原相馬氏は忠朝の先代大久保の時代、小田原で家臣団に加わったものと思われる。相馬清四郎による先祖書には、本国下総、生国相模とあり、「私先祖之儀父相馬七左衛門先年書上候通御座候」と前に提出した書上書と同じということで唐津以前や文久二年以前の詳細は分からなかった。常光寺の墓碑二基は相馬胤将(相源院、元禄三年)、胤貞(覚了院、元禄十六年)、誓願寺相馬家墓域で古いと思われる墓碑は安永八年(1779)に亡くなった胤英(雙林院)で、その間、七十六年の空白があるが、享保九年(1724)順席帳に相馬七左衛門胤純番頭四百六十石二十八歳と記載があるので、胤貞、胤純、胤英と続いたのかも知れない。文久二年(1862)の先祖并親類書を提出した相馬清四郎胤明が何時まで存命していたか不明だが、明治四年(1871)の小田原藩士廃藩禄高に四百六十石相馬長雄とあるので、相馬清四郎の明治時代の改名かもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田原 誓願寺

2018-05-04 | 小田原

誓願寺は新編相模国風土記稿に「浄土宗京知恩院末妙香山攝取院ト號ス。本尊三尊弥陀開山攝果(鎌倉光明寺ノ学徒。勢州ノ人。寂誉ト號ス。永禄十二年六月十日八十八歳卒。按ズルニ浅草誓願寺記ニハ。見誉善悦ヲ當寺ノ開山ト載ス)。本尊縁起(宝永七年七世真誉記ス)ヲ閲スルニ、攝取院誓誉妙香尼(勢州ノ人)及随逐ノ尼妙祐ト云モノ。諸国巡歴ノ刻。偶此地ニ寓宿ス。尼兼テ運慶作弥陀ノ御首ヲ護持セシニ。告夢アリ。明旦一僧来ラン。導師トシテ。當所ニ一宇ヲ建ベシトナリ。果シテ翌旦僧攝果来ル。尼是ニ於テ果ニ謀リ。彼御首ヲ付属セシカバ。果即肯シテ萬町邊ニ庵ヲ結ブ。コレ永正三年三月十七日ノ事ナリ。其後北條氏康ノ臣。安藤豊前守良整。果ニ帰依ス。果或時勝地ヲ求テ。一宇ヲ建立セン素願ヲ述シカバ。良整氏康ニ言上シ。今ノ寺地ヲ給フ。永禄六年(1563)四月上旬。殿堂落成ス。」とある。大正十二年の関東大震災により三乗寺と誓願寺が合併し「湘王山三乗院誓願寺」と改称した。
 
慶應四戊辰年六月十日に自刃した小田原藩家老岩瀬大江進(勇乗院秋月円明居士)の墓と傍に「大正六年六月十日故岩瀬大江進五十年忌ニ際シ之ヲ墓側ニ建ツ」とある謙斎中垣秀實撰文による岩瀬大江進の碑が残っている。
 
 
小田原岩瀬氏は牛久保六騎の一人でのち幕臣となった三河岩瀬氏と同族で、慶応戊辰小田原戦役のとき、人見勝太郎が旧幕府軍の脱兵を集めて編成した遊撃隊に佐幕論者であった下総国請西藩主林昌之助忠崇が加わり、藩地を離れ真鶴に上陸、箱根で因州軍監中井範五郎を殺害した。この時期、小田原藩は勤皇派、佐幕派と藩論が分かれていた。一旦は佐幕派に傾いたが江戸留守居役の中垣斎宮に説得されようやく勤皇を表明した。箱根山に拠る林昌之助始脱走賊徒追討及小田原藩詰問状が届いたのが五月二十五日、翌二十六日、遊撃隊と小田原藩兵が箱根山崎で戦闘、遊撃隊は熱海より館山に逃れた。六月六日、家老渡邊了叟、吉野大炊介、年寄早川矢柄、御用人関小左衛門の四名が糾問の筋有りとして東京に護送される。六月十日、「殿様御謝罪万分之御一端ニも相成候ハヽ 本懐至極難有奉存候」と藩老中に宛てて、大総督府軍監への取りなしを依頼した血判の歎願書を差出して自刃した。
岩瀬大江進墓側に建つ碑は「中垣謙斉の選ぶ所、聞く、当時憚る所ありて、急遽一夜に此文を草し、岩瀬家庭園の砌石を取りて、之に鐫刻せしめ、固より推敲を加ふるの暇あらず、後墓を修するの際、土中より之を発見せしものなりと」という。

岩瀬大江進碑文
君氏岩瀬諱正敬通稱大江進世小田原藩巨室考諱正盛妣蜂屋氏
君其第三子也以文政紀元戊寅九月十五日生伯正暦嗣家而早世
仲其先夭因為正暦嗣為人方面長身行歩遅重孝友勤検接物温和
達兵学善槍法又有吏幹為稽古所奉行遷年寄役有故免頃之進為
執政兼領度支蓄軍資鋳大銃以積年之勲賜佩刀前後四次其餘賞
賚不可勝紀明治紀元戊辰五月元請西侯林忠崇及徳川氏脱籍士
衆三百餘名稱復幕府舊業竊據凾嶺分隊東下藩出兵撃之既而以
為脱士所為頗近義擧遂與講和贈金及米事聞于東京督府震怒速
発問罪之師刻日向小田原藩議阻険抗之会有論者明順逆辨時勢
卒回其議遂脱士徹守備謹迎官師君首至大磯驛侃々分疏弗聴
主公恭畏□罪避居城東本源寺官師入城微管錀封府庫鞠問和解
情状補當事某々謹送東京闔藩悚惕君概然以謂我為国老職且領
度支雖無逮捕罪固不得不分當一死以補    主家謝罪之萬分
也乃書其梗概以託家臣川嶌某割腹而卒享年五十有一實六月十
日也事聞官吏臨検之且収其遺書令假埋其屍乃姑葬城東誓願寺
官怒隠然如有稍霄後至    寛典之命下安堵如故盖末必非由
君之忠死與有力也可謂能殺身以衛社稷不□大臣之体矣十月十
三日藩命嗣子正美襲家十二月某日改葬祔先塋法謚曰勇乗院請
誌于墓世美従余学誼不可辞因叙其顚未余詳于家乗故不多及謙
斎中垣秀實誌

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする