大佗坊の在目在口

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東三河 龍田山長泉寺

2023-12-09 | 掃苔

蒲郡五井の長泉寺を訪ねる。


参河誌によれば建久五年(1192)源範頼が国司のとき、奉行安達盛長が三河に七堂を建立、七箇寺と呼ばれその一つが龍田山長泉寺で、青龍山金蓮寺、煙巌山鳳来寺、赤岩山法言寺(現赤岩山赤岩寺)、船形山普門寺、陀羅尼山財賀寺、御堂山全福寺(廃寺)合わせて七堂が三河七御堂と呼ばれている。


本堂左側の渡り廊下の上に鐘楼を乗せた渡殿の先の本堂裏手に安達藤九郎盛長の五輪塔があった。墓とも供養塔とも言われている。盛長は鎌倉幕府に仕えた有力御家人で、伊豆に流された源頼朝に仕え、その後、奥州合戦の軍功により陸奥国安達郡を賜り、姓を安達と替える。正治元年(1199)、頼朝の死後、二代将軍源頼家の宿老として十三人の合議制(鎌倉幕府の集団指導体制)の一人となる。妻は源頼朝の乳母(比企尼)の娘丹後内侍。
戦国時代、五井に進出した五井松平の初代は諸説あり家譜もはっきりしていないが寛政重修諸家譜によれば、松平信光の七男忠景を祖として深溝松平忠定の兄、元心(長勝)を二代、信長を三代としている。永正五年(1508)、長勝は長泉寺を五井松平の菩提寺として再興し、天台宗から曹洞宗に改め、号を龍田山、開山は祥山恵禎、田原大久保の長興寺末寺となっている。祥山恵禎は曹洞宗雲龍山長興寺四世で満珠山龍海院を開山した模外惟俊の弟子で、のち長泉寺の本山長興寺の五世住職となっている。寛政重修諸家譜、五井松平忠景に記載のある「忠景より太郎左衛門景忠にいたるまで五井を領し、文明十七年七月十四死す、、、、これより景忠に至るまで葬地とする」とある。


五井松平家五代の墓をさがした。寺墓地の奥に無縫塔が並び、その横に一列に並んだ石塔があった。


これが五井松平五代の墓かと思ったら、石塔は六基、しかも大きさ順に並んでいる。左側三基が五輪塔の塔身(?)の上に宝篋印塔の笠を載せその上に受花、宝珠を乗せている。左から四基目に五輪塔、五基、六基目は五輪塔の笠から上が落ちた状態であった。六基並んでいるので、どれが五代の石塔か不明で、結局、五井松平家五代の墓は何処だかわからなかった。むしろ、途中にあった石塔群のほうが年代的に古そうな感じだった。忠景・元心・信長・忠次・景忠までの墓は別にあるのだろうか。天文四年(1535)安城松平四代広忠(家康父)は桜井松平初代信定と争いになり岡崎から伊勢に逃れた。五井松平三代信長も領地を捨てて広忠に従う。天文六年(1537)、広忠は再び岡崎城主となった。五井松平四代忠次は天文十六年(1547)、松平広忠に離反した一族の松平信孝(三木松平初代、家康の大叔父)勢と渡河内において戦い討死。父忠次が戦死のとき、嫡男景忠、六,七歳の幼年のため広忠の命により叔父の信次(忠次弟)に家政を執らせたという。六代伊昌は伏見城代となり大坂天満の正泉寺に葬られ、七代忠實は采地の海上郡岡野台(現銚子市岡野台)等覚寺に葬られる。

安達藤九郎盛長五輪塔は蒲郡市文化財として指定されている。

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