大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

2015年 臨済寺春期特別拝観

2015-05-25 | その他

静岡駅からタクシーに乗った。運転手に臨済寺へと言うと、ピンとこないらしいが、大岩の臨済寺と云うと臨済寺の場所が判るみたいだった。静岡市内はお寺の多いところだから無理もない。
途中、静岡北安東郵便局に風景印を押してもらうため寄った。この郵便局の局員は訪問時5名、ロビーにお客が1名で風景印を依頼してから5分経っても、10分経っても係員は下を向いたまま何か作業している。あまり時間が掛るので外を見たら、心配そうに中を覗いている運転手と目が合ってしまった。係の人には可哀想だが、風景印のゴムの劣化とスタンプ台の液がビチャビチャで、今まで廻った全国風景印の中では1・2を争う出来の悪さで、駅前の静岡中央局の3分も掛らない風景印の出来上がりをみると、安東局の普段の手入れの悪さが際立ってしまった。(真ん中 本来の北安東風景印)
  
以前、臨済寺にある東軍招魂之碑を訪ねた。最初に訪ねたときは碑を写しただけで、家に戻ってから碑文の中に、旧会津藩士と思われる林繁樹の名を見つけて、慌てて碑文全体を写しに再訪した。その時、このお寺の特別の拝観があるのを知った。それから5年近く経ってしまった。臨済寺は訪れる人もほとんどなく、ひっそりと荘厳な感じの臨済宗妙心寺派の修行道場で普段は非公開の庭園や本堂を、春と秋、年2回の特別拝観が実施されている。
 
ここは、今川氏の菩提寺で開基は今川義元、天文五年(1536)、今川氏輝が没し法名臨済寺殿用山玄公により、もとの善得院を臨済寺と改称し、今川義元の軍師でもあった太原崇孚雪斎を住持に招いた。今川氏人質時代の松平竹千代(家康)が学問を受けた所としても知られている。
山門前に水桶と柄杓、箒が設えられていた。掃き清めてお迎えしますよという凛とした禅寺の修行道場らしい雰囲気がある。
 
  
  
 
 
 
山号「大龍山」の額は、徳川慶喜の揮毫
 
天正年間に築造されたものと伝えられている賤機山の斜面を利用した庭園もそうが、夢想庵と呼ばれる茶室へ登る回廊も楽しみだった。写真でみると古そうな茶室だったが、京都大徳寺中南明亭を真似て大正三年に造られたというが、賤機山の斜面の庭園と茶室への風景はかなり趣があった。
 
 
 
 

 参考 臨済寺東軍招魂碑文 
  
東軍招魂之
戊辰之事一成一敗是非従生焉然審察其情則有未易遽
論者余尤悲其戰敗身死長為不祭之鬼者之志也顧當時
伏水啓□舊大將軍棄大阪城而東歸恭順待   命而諸思
幕府者所在擧兵以圖回復事竟不成死之者數十百人矣
嗚呼川氏三百年之覇業一朝顛覆而欲維持之於既墜
雖名分或錯然忠勇壯烈使人感奮興起視之彼臨危苟免
趨利遺義之徒天淵不啻也寺島造酒之助素仕幕府戊辰
國變戰而失右手後移静岡與林繁樹授徒甲州之黌頃者
相謀將堅石於静岡大岩村臨濟寺以招東軍死者之魂甲
之南巨摩郡有市川愛助者従學寺島氏慷慨好義聞二氏
之擧捐貲助之且乞余銘銘曰
   七尺之身 殺以成仁 幾多志士 委骨戰塵
   是非休論 維忠維存 駿有佳地 爰招厥魂
 明治十八年三月十七日
       駿河河島維觀撰文 東京市河三無書并篆
               甲斐市川愛助建石      渡邉善一刻

注 三行目□は

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小田原早川周辺

2015-05-22 | 小田原

会津藩士柴佐多蔵の四男柴四朗(東海散士)の墓碑を探して、熱海の海蔵寺と早とちりして早川の海蔵寺を訪ねてからもう五年も経った。その時は木の下に並んでいた堀一党の古びた墓が印象的だった。
天保十二年(1841)に完成した新編相模国風土記稿早川村項に「紀伊宮権現社、貞享元年(1684)鐘をかく、(序文に木之宮と題す)、山神社、正蔵・真福・久翁の三寺にて、各自持とす」とあり、入生田の山神社の事もあり、正蔵寺から紀伊神社、真福寺、早川観音、久翁寺を廻った。
 
早川駅から西湘バイバスと平行している国道135号線と東海道線との間の道をのんびり800m程行くと紀伊神社の鳥居がある。正蔵寺の入口を探していたら、近くにいた人が横の急な坂道を登った線路の向こう側だという。この坂道は東海道のトンネルの上に無理やり道を付けたような急坂だと思ったら、見通しの悪いカーブとトンネルに接近していた踏切を迂回するため造られたという。
 
 
大相撲協会年寄早川邨生  君ヶ浜安右衛門の記念碑

正蔵寺は国府津の宝金剛寺末寺で本尊は不動、開山は高傳、建立は正長元年(1428)と伝わる。この寺の山号が木宮山なので驚いた。後で寄ろうと思っていた地元で木の宮さんと呼んでいる紀伊神社と同じ表記で神仏習合の神宮寺か別当寺だったのだろうか。山号をなんと読むのかお寺の方に聞きたかったが、不在で聞けなかった。小田原から箱根にかけて古くから人が住み着いた所為か地名の呼名が難しく、木宮も「きのみや」なのか、それとも「きいのみや」と呼ばれていたのか判らなかった。

紀伊神社に向かう。鳥居横の道祖神後ろに一等水平線があった。参道が東海道線の下を潜っているのも驚いたが「猿に餌をあげないでください」という看板はもっと驚いた。
 
 
「新編相模国風土記稿』と同時期に編纂されたという相中雑志に「木宮大権現と申奉は人王五十五代文徳天皇の皇子惟高親王を鎮座し奉ると云云」とあり、文徳天皇の第一皇子小野宮惟喬親王は第四皇子惟仁親王(のち清和天皇)との戦いに敗れ、伊豆に流され、嵐により唐土ヶ浜(国府津)にたどり着き、早川に地で亡くなった。里人は嘆き悲しみ、その住居跡に社を建て貴宮(きのみや)として崇め奉った。烏丸大納言光泰卿が早川に下向の時、親王の事を嘆き、木の宮大権現と勅号を与えたとあり、東近江の君ヶ畑や蛭谷に残る木地屋惟喬親王口伝と別系統の伝説を伝えている。そういえば熱海の来宮神社の祭神も同じ五十猛命を祀り、来宮、木宮、木野宮、貴宮、紀伊宮と相模湾に面した土地に残るキノミヤ信仰に通じている。
 
社が三社、風土記の山神社だったら凄い!
     
大正9年建立の日清戦争以降の戦没者を合祀した忠魂碑

猿が出没しない前に真福寺に向かう。ここは数年前、箱根山崎の戦いで遊撃隊伊庭八郎の片腕を切り落とした小田原藩士高橋藤太郎の墓石を訪ねた。その時は高橋藤太郎の墓域が判らず、高橋家の親戚だというご住職に案内して頂いた。今回はこの真福寺境内に目を病む人の信仰を集めたという石があると知った。昔、真福寺傍の薬師堂の薬師如来や観音堂の聖徳太子作聖観音に眼病を治すよう祈願したという。本堂右側の上と高橋藤太郎の墓碑の左側上の2ヶ所に目石があった。
 
 
早川観音に寄ってから久翁寺に向かう。
 
久翁寺の号は松嶽山、心明院の跡地に關善左衛門入道が北條長綱入道幻庵の許可を得て、当寺を建立した。介護施設の中に参道が通っていた。
 

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箱根入生田

2015-05-15 | 小田原

箱根登山電車の風祭駅の隣が入生田駅、なんと読むのか解らなかった。
 
駅では「入生田    Iriuda」で「いりうだ」と表記してあった。
ところがYahoo地図や郵政省郵便番号の住所表記では「いりゅうだ」とある。日本歴史地名大系「神奈川県の地名」には入立田村(いりゅうだむら)現入生田(いりうだ)とある。難しい地名読み方のクイズに出てきてもこれでは正解が判らない。旧東海道に面していた紹太寺惣門跡付近で草刈していた年配の人に此の辺の地名を聞いたら、「いりゅうだ」と小さい時から云っていたという。 入生田の旧東海道と道祖神
 
湿地を意味する近畿のウダが西にむかうと九州のムダ、東の関東では、ヌタやノタと変化し、いずれも同一語で(柳田國男「地名の研究」)、ウダという語はかなり古いという。アイヌ語ではウダは海岸の濱続き、または崎と崎との間のような地形を云うと紹介している。新編相模風土記稿に「入生田村(以里宇駄牟良)古は入立田、或は入宇田とも記せり、(正保の改には今の字を記し、元禄の改には、入立田と載す)、民戸三十、東西六町八間、南北二町五十間」とある。関東での湿地の古語であるヌタやノタが使われず、近畿圏のウダが使われたのか興味は尽きないが、風土記稿によれば「早川 南寄を流る、昔は北方を流れしに、天和中洪水の時川瀬替れり、(川幅十二間より十八間に至る)」とあるから村の面積は一町を六十間として約六万二千坪で川幅が1680年代に22m位から33m位に広くなったことになる。

駅から旧東海道に出て小田原の方に向かう。途中、猿の群れの生息域に入るという村の鎮守、山神社によった。注意していないと通り過ぎてしまいそうな家と家との間に神社に通じる狭い石段をオッカナビックリ登る。
  
 
  
 
山神は「やまがみ」というのかと思ったら、神奈川県神社庁に、入生田の山神神社(さんじんじんじゃ)とあり、大山祇命を祀り、管理は早川の木の宮さんと呼ばれ、箱根木工業の人たちに昔から崇拝されてきた紀伊神社となっていた。  早川の紀伊神社
 
県神社庁記載の山神社の表記には、「やまのかみしゃ」秦野市堀山下、「やまじんじゃ」相模原市緑区佐野川、「さんじんじゃ」大和市中央と三通りの呼名があり、いずれも大山祇命を祀っている。早川の紀伊神社と入生田の山神神社とは祭神が異なるが、紀伊神社は惟喬親王も祀っており、入生田山神神社の本殿正面に天狗が彫られ、山神は「さんじん」と呼ばれることから山人と木地師、あんがい同じような生業の人々が祀った神社なのかもしれない。

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箱根風祭

2015-05-09 | 小田原

箱根登山電車の駅に風祭という駅がある。
 
ここ風祭にある清瀧山萬松院を訪ねた。この箱根山中にある風祭と言う地名は前から魅かれていた。新編相模風土記稿に風祭村、加坐末津利牟良とあり、文明十八年(1486)道興准后回國雑記に風祭の里と地名が出てくると言うから、よほど古くからある地名みたいだ。風祭は蟲送りと同じように風送りの儀礼をする風の祭りだったのだろうか、それとも旧暦八月朔日に行われる青稲穂を刈って依代として田の神に捧げる風祭りの行事が地名として残ったのだろうか。
広報おだわら407号に風祭の風祭り(つのとりさん)の記載があった。大正時代にたえてしまったが、春と秋に静岡県小山の角取神社にお参りにいく風習があった。春は、風の災害がなく五穀豊穣を祈り、秋は豊作を感謝してのお礼参りだったという。しかし、風祭村は旧東海道の南側を早川が流れ、北側はすぐ山で狭い痩せた土地柄で稲作に適した所は殆どなく、「つのとりさん」は近世に始まった風習ではないだろうか。海からの風が山に当たると必ず屈曲して巨大な砂嘴を作り出す。こうした山にはよく風の神が祀られているという。五百年も前の地形を想像するに村の西北にある風祭山や早川の河口で風の神を祭った集落がそのまま村名として残ったという事なのだろうか。
風祭駅から旧東海道を箱根方面に歩いていると、萬松院という矢印のある案内の貼紙が所々にあった。何かお寺の行事でもあるのかなと思いながら、万松院川にかかる馬五郎橋を渡ると角に一里塚跡と道祖神があり、万松院川に沿って行くと萬松院の茅葺の庫裏が見えてくる。
 
近くに行くと一瞬、チベットのお寺に来たような風景に驚いた。
 
お手伝いの方に聞くと無住職のお寺さんに住職が決まり明日、そのお祝いの準備だという。お坊さんが百人位、集まるという。
 
北條氏滅亡後、小田原城主になった大久保忠世が、徳川家康の長男信康の霊を祀るために建立したという。本堂裏手の墓域に松平信康の供養塔があった。
 
新編相模風土記稿には「萬松院 祝融山と號す、曹洞宗(参州吉田龍拈寺末) 開山白州巌龍、(本寺七世勅特賜法輝圓明禅師、慶長七年二月十五日卒)、開基大久保七郎右衛門忠世、(了源院日脱と諡す、文禄三年九月十五日卒、本尊聖観音)」とある。風土記稿記載の境内にあるという大澤次郎左衛門正秀墓は気が付かなかった。

石の祠と石仏がある道祖神の所まで戻り寶泉寺に向かう。あとで調べたら「稲荷型道祖神」、「伊豆型道祖神」と云うらしい。昔は一里塚に植えて,里程を示す樹木が道の両側にあったという。
 
 

風土記稿に「 永禄山と號す、臨済宗(湯本村早雲寺末)、開山大室、(本山二世勅諡東光智燈禅師、永禄三年正月廿二日卒)、永禄中建、開基北條時長、(寳泉寺大年用公と為す、永禄三年七月廿日卒、事蹟詳ならず)」とある。北條時長はハッキリしないが、寳泉寺殿といわれた北條宗哲(早雲三男・長綱)の嫡男三郎は武蔵國小机城主で寳泉寺を菩提寺とした。
 
 
寳泉寺から旧東海道を小田原方面に暫らくいくと稲荷型道祖神がある。妙覚寺に向かう途中に村鎮守の八幡にもよる。
 
  
妙覚寺は本堂を改修していたので中に入らなかった。
 
風土記稿には「玉山と號す、法華宗、(下総國中山法華経寺末。開山日忍、上野阿闍梨と號す、文永五年六月九日卒)、寺傳に古は真言宗なり、現住林覚の時、文永五年日蓮の弟子日辨寓宿す、覺其宗法を感喜し、直に其門に入、名を日意と改、即日辨を延て改宗の開祖とす、然るに後年日辨宗門の内他派に入しを以て、其法弟日忍を以て開山に定しと云」とある。
途中のお宅の庭花が綺麗だったので眺めていたら、鉢に株をいくつか頂いてしまった。欲しそうな顔をしていたのかな。
  

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