大佗坊の在目在口

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新田義貞公首塚

2016-12-15 | 小田原

網一色八幡神社から国道一号線を横切って総合ビジネス高校正門先の千貫橋を渡ると新田義貞首塚の案内板がある。

 
 
千貫橋は用水堀に架けた橋で、もと木橋であったものを延宝七年(1679)、長二間(3.6m)、横二間半(4.5m)の欄干のある石橋にした。その費用が千貫目に及んだので橋の名になったという。橋の欄干に丸い穴が沢山あった。何に使ったのだろう?
  
網一色八幡神社の御大典記念碑文では「新田義貞ノ臣船田入道某義貞ノ御首ヲ持チ来リテ埋メケリト」、また義貞に属した宇都宮泰藤が義貞の御首を「上州新田公ノ本国ヘト志ス途次、相州小田原駅ニテ異例常ナラス其御首ヲ甕ニ納メ酒匂川ノ邊ニ埋メケル即チ新田大明神ト崇メケル」と二説を載せているが、明治維新の際、新田神社の由緒は証拠不明として廃社させられたという。徳川氏が新田一族の末裔であると公称し、また持明院統と対立していた大覚寺統の後宇多天皇第二皇子の後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕後、離反した足利尊氏に敗れ、吉野に南朝を建てた。南朝の忠臣だった新田義貞を祀った神社を認める訳にはいかなかったのだろう。
 
 
明治九年、足柄県から神奈川県に管轄替えされた時の小田原市域に属する大区小区の行政区画図をみると新田義貞公墓塚として東海道の海岸側に記載されているので、東海道分間延絵図に記載のある新田大明神と行政区画図にある新田義貞公首塚とは別々の場所に在ったのだろうか。

新田義貞公首塚碑 (碑陰文)
新田義貞公は八幡太郎義家の十世の裔で南朝柱石の名将であった延元三年閏七月二日越前藤島の合戦に討死のとき臣将宇都宮泰藤その首級を抱いて公の生国上州新田を志ざしてこの地網一色に至ったが不孝病に侵されて再起おぼつかなく首級を酒匂川の河口の辺に埋葬し自らもここに没し終ったと云う この新田義貞公首塚は実にその由緒深き旧跡である
里人塚の側に新田神明社を祀り篤く崇敬しまた泰藤の直裔大久保氏が小田原城主に封せられてよりは代々の藩主の保護をうけて永く名跡として聞えたが星霜春秋流れて久しく近年暫く荒廃に赴いたので今日地区民並に有志相計って首塚を復興した依って記念のために碑を建て由来を刻して後昆に残
  昭和三十六年三月 新田義貞公首塚復興委員会  撰文並書 中野敬次郎

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網一色 八幡神社

2016-12-05 | 小田原

東海道分間延絵図を見ると酒匂川右岸(小田原側)の川越場所は旧東海道、酒匂川の手前300m程からクランク状に折れて、今の国道一号線(東海道)から60m程上流に在ったことがわかる。

絵図では、このクランクの付根のところに御霊八幡宮があり、常劒寺の間に新田大明神が記載されている。
神奈川県神社庁によれば網一色八幡神社の祭神は応神天皇となっている。鎌倉権五郎景政を祀る御霊八幡宮から応神天皇を祭神とする神社にいつ替わってしまったのだろうか。ビジネス高校前バス停から徒歩3・4分の東町5丁目にある八幡神社を訪ねた。
 
神社の扁額には御霊八幡宮の名が!
 
  
小田原市指定保存樹林第2号指定されている境内に大正四年御即位紀念と昭和三年御大典記念の碑があった。
 
御大典記念碑は小田原藩士関重麿の長男関重忠題字、酒匂小学校長だった森丑太郎書によるもので、網一色青年会により建立された。この碑は昭和三年の昭和天皇御大典を記念して建てられたが、碑文をみると、網一色の由来とこの八幡神社の由緒が書かれていた。副社の新田社は新編相模風土記稿に「本地仏地蔵、 社伝に延元二年(1337)新田左中将義貞、越前にて討死の後、其臣船田入道、義貞の首級を捧持し、東国に下向して爰に葬る、入道は名を久保明翁と改め、則此地に隠栖すとなり、故に今も立願する者は、久保明翁の子孫なる由告れば願望成就すと云」とあるが、太平記では「船田入道は義貞討死より前、建武二年(1335)正月京都の戦に討死せし人なり、 然れば社伝信じがたし」として、「宇都宮左近将監泰藤、其首を奉じ、義貞の本国上州へと志し関東に下りしに、小田原駅に著し時、泰藤偶疾に臥す、 依て其首級を瓶に収め、酒匂川の辺に埋む、 後に新田明神と崇むとあり」と三州妙国寺伝を掲載している。
 
 

御大典記念 碑文    
題字   海軍少将従四位勲三等功四級関重忠書
此ノ地ハ往昔足柄郷ニ属シ早川荘ノ一部宮城村ト稱ヘシカ後足利家ノ臣一色某冤罪ニヨリテ本村ニ来リ荒地ヲ開キテ一色村ト改メタリト云フ小田原盛衰記ニ北條氏康西国ヨリ漁師ヲ招キテ千度小路ニ住マハセ地獄網ト云ヘルヲ用ヒ海底ノ魚貝ヲ捕ラセ大イニ民利ヲ劃リ網ヲ一色ノ海岸マテ干サシメタルヲ以テ網一色ノ稱起ルニ至レリト尚當社八幡神社ハ後三年ノ役ノ剛者鎌倉権五郎景政ノ霊ヲ祀ル副社新田神社ハ元西上百六十八番地ニアリ社傳ニ新田義貞ノ臣船田入道某義貞ノ御首ヲ持チ来リテ埋メケリト又三河國碧海郡上和田村法華宗本寿山妙園寺ノ元禄八年ノ記ニ泰藤後首ヲ持チテ濃州ニ下リ夫ヨリ本領三州和田ニ妻子ニ暇ヲ告ケ上州新田公ノ本国ヘト志ス途次相州小田原駅ニテ異例常ナラス其御首ヲ甕ニ納メ酒匂川ノ邊ニ埋メケル即チ新田大明神ト崇メケル云々ト然レトモ明治維新ノ際証據不明ノ為メ廃社トナリシハ誠ニ遺憾ナリ近クハ六十餘年前 明治大帝京都ヨリ東幸ノ砌リ川越ヲ為シ給ヘル由緒アル地ナリ 
聖上陛下天津日嗣ヲフマセ給フ鉅典ヲ挙ケサセラルルニ際シ我等ハ本村ノ沿革ヲ願ミココニ記念碑ヲ建設スル所以ノモノハ温故知新以テ 叡旨ニ副ヒ奉ル忠良ナル青年タルコトヲ期セントスルニ外ナラス  従六位森丑太郎敬書


新田義貞公首塚

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