大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

八戸 郷土料理

2018-11-29 | 

八戸の郷土料理が何なのか、なかなか思い出てこない。平成19年、農水省主催で農山漁村の郷土料理百選を選んだ。青森県ではウニとアワビを具にした吸物の「いちご煮」と料理専用の南部煎餅を用い、醤油味で煮立てた汁物の「せんべい汁」が選ばれた。二つとも青森県でも八戸市とその周辺の郷土料理だという。新幹線が八戸まで開通した時に八戸で、いちご煮もせんべい汁も食した。ウニもアワビもそのまま別々に食べたほうが美味しいし、せんべい汁もモチャモチャしていてあまり好みではなかった。今回はウニとイカを目指して八戸に行った。現地に行って、殻付ウニや活イカを提供する店がほとんどないのが意外だった。一番に行ったのが前述の種差海岸の波光食堂、それからネットで「イカの街八戸」にふさわしい活イカとイカ料理がメインだという店を見つけた。みろく横丁の入口にある「ととや烏賊煎」という店。17時、開店に合わせて店の前に着く。アレという感じ、店が真っ暗。入り口に臨時休業の貼紙が、目の前も真っ暗になる。みろく横丁は平成14年、新幹線八戸駅開通に合わせて誕生、三日町と六日町をつなげ、三と六から「みろく」とつけたという。貝の店「もっこり」に立ち寄る。
ウニとツブ貝の刺身、ホタテを焼いてもらう。 
 
 
 
テレビで放送していた、炭火の串焼きの店「しおさい」に寄った。
 
イカの刺身がないのは残念だったが、イカ焼き、銀ムツ、カラスガレイなどを焼いてもらう。
 
 
カラスガレイは色が黒いので烏鰈と呼んでいるという。初めて食べた。小田原で「オシツケ」と呼ばれるギンダラ科のアブラボウズみたいに脂分が多く、食べ過ぎるとお腹を壊しそう。カウンターの向こう側の常連さんらしき人が、出張のたびにこの店に寄るという。この横丁の人気店みたいで直ぐ満員になったので退散する。
今回で八戸は3回目、昼に前に入った街の中心にある「さんりく」に行く。
 
 
ここの生ウニ丼は下にイカ刺しを敷き、その上に生ウニを少し載せ金額を抑えていた。苦労のあとがにじみ出ている。特別刺身定食を取る。どこが特別なのかサッパリ分からなかった。
宿の窓から真下に見えるのが「ばんや」という店。八戸では有名な居酒屋らしい。宿から歩いて数秒で到着。アルバイトの貼紙が! 大丈夫かなと思いながら店に入った。客が誰もいなかったせいか店内が薄暗いのでビックリする。
 
 
 
 
カウンターの大皿料理とその日の料理が数品、手書きで貼ってあったが、値段が書いてないのが不気味だった。2人連れの外国人が入ってきた。民芸調の店内は珍しそうだったが、メニューに値段が書いてないのでビビッていた。八戸のウニは、甘みは強くないが上品な味で、この店の生ウニは取れた場所が異なるのか2種類のウニが混ざっていた。ウニのお代りをしてしまった。ここも早々に切り上げて、つまみの多そうな「南部もぐり」という店に行った。2階にある店が暗い。嫌な予感がする。案の定、臨時休業だった。どっと疲れが出る。傍のみろく横丁の入口にある「あじの麺匠」で八戸ラーメンに変更。
 
飲んだ後のラーメンは美味しかったが、特に印象に残る味ではなかった。この横丁の脇で六日町の子供たちがお祭りのお囃子の練習をしていた。大きな子が小さな子を教えているのは微笑ましい。
 
自宅に戻る最終日に陸奥湊駅近くの「みなと食堂」に行った。生ウニ丼とイカ刺しを食べた。
 
 
値段も一番高かったが、ここのウニが一番、美味しかった。

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八戸南部家菩提寺南宋寺

2018-11-21 | 

八戸領内五ヶ寺の一寺、南宗寺は月渓山と号し、開基は八戸藩初代南部直房で、父利直の菩提を弔うため、寛文七年(1667)に類家に建立、寛文十二年(1672)に現在の塚糠に移転した。寺号、山号は南部利直の法名「南宗院殿月渓晴公大居士」に由来している。延宝元年(1673)南宗寺東側の長者山中腹に八戸藩歴代藩主とその家族の墓所を建造、八戸南部家の菩提寺とした。
 
 
八戸市のH・Pに「八戸南部家墓所は、南宗寺東側の長者山中腹にあります。墓所は、南宗寺が現在地に移った翌年の延宝元年(1673)に建造され、歴代藩主の郭とその家族の郭の2区画に分かれています。
家族墓域(藩主墓域手前左側)
 
 
  
藩主の郭には、初代藩主直房から11代麻子(大正2年没)までの歴代藩主の五輪塔や石燈籠などが整然と並んでおり、変形の五輪塔15基、角柱の石塔20数基や石燈籠・洗鉢及び経塚もあります」とあり、八戸市教育委員会の八戸南部家墓所説明板に「石塔は徳川時代に用いられた形式のもので普通に五輪塔と呼ばれているものである。初代直房から九代信順までが同じ型で大きさも同じく建てられている。一段下がった北側隣接の地に家族たちのもの二十ばかりの石塔が建てられている」とあった。
 
 
 
歴代藩主の墓域にはコの字型に五輪塔の笠に宝篋印塔の相輪をのせたちょっと変わった五輪塔が九基、両端に三基、他に角石塔型墓石が二基、この二基は八代藩主信真の養子(薩摩藩藩主島津重豪男)に入った九代藩主信順と十一代藩主南部麻子の墓石で、残りの三基の五輪塔は藩主の墓域手前左側にある家族の墓域にある。それにしても市では変形の五輪塔といい、教育委員会では普通に五輪塔といい、市と教育委員会、あまり仲がよくないのだろうか。それにしても九代藩主信順の墓碑が歴代藩主の並ぶ正面の中央近くに建てられている。ほかの大名墓地ではあまり見慣れない光景となっている。
ほかに八戸南部家の墓所は東京芝の金地院、明治以降は青山霊園にある。青山霊園の八戸南部家墓域の墓誌には十代藩主栄信、十一代麻子、十二代、十三代の名があった。
 
寛政重修諸家譜によれば八戸藩初代藩主直房、三代藩主通信、五代藩信興の葬地は八戸南宋寺、二代藩主直政、四代藩主廣信、六代藩主信依の葬地は芝金地院とあり、六代藩主までは八戸南宋寺と芝金地院を交互に藩主の葬地としていたようである。七代信房、八代信真の墓も金地院にある。
 
 
金地院の八戸南部藩墓地前面は盛岡南部家の墓域で、藩主の墓はないが、江戸にいた正室、側室、子女の墓碑が残っている。
 
この墓域の端に盛岡藩四代藩主行信の次男實信の墓があり、その後方に津軽藩主津軽寧親の暗殺を計画した南部藩士下斗米秀之進(相馬大作)の墓があった。
 
 

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八戸領内五ヶ寺(禅源寺、光龍寺、本寿寺)

2018-11-15 | 

八戸の古刹を訪ねようと思った。古い楼門が残る三寺と県内最古の建築物の清水寺観音堂、それに国宝がのこる櫛引八幡宮はすんなり決まったが、後が決まらなかった。八戸の案内書をみると領内十ヶ寺、領内五ヶ寺と書いてあるが、どこが領内十ヶ寺、領内五ヶ寺なのかさっぱり分からなかった。ある資料に八戸領内五ヶ寺は南宗寺、光龍寺、禅源寺、本寿寺、豊山寺(廃寺、鬼門鎮護)の五寺だとあった。文政改正八戸城下略図の城中に豊山寺が描かれていた。八戸二万石南部氏と関係が深そうな領内五ヶ寺を廻ることにした。

早朝は霧がひどかったが、2時間もするとこれから出かける長者山らしき山が見えてきた。
 
八戸城から1,7Kの長者山の禅源寺に向かう。禅源寺は臨済宗妙心寺派で山号は臥龍山、始め禅源院と称し、のち禅源寺と改め、一時無住の廃寺となったが桂林禅師が再興し、八戸藩祈祷寺となった。
 
 
ここの参道脇に天保十三年(1842)、鳥屋部町から禅源寺まで敷石を設けた。その犠牲者がでたのか敷石供養塔が在ると云うが、残念なことに気が付かなかった。ご住職が不在でシ~ンと静まり返っていた。隣の光龍寺に行く。
 
 
 
光龍寺は石田山と号し、名久井の白華山法光寺の分寺で、八戸藩二代南部直政が開基、峯山光雪師元禄五年(1692)、開山と伝わる。山門はもと市役所の門であり宗氏の門であったといわれている、と説明にあったが、宗氏って誰だろう、宗家の書き違いだろうか。ここに曽我十郎、五郎の父河津祐泰を殺した工藤祐経の位牌がある。工藤祐経の子犬吠丸が糠塚地方に流人となった時に父の位牌を持ってきたものだという。八戸南部藩祈願寺の本寿寺に行く。
 
 
正栄山と号し、京都妙満寺の末寺で、寛永十八年(1641)、日久上人の開基による。境内で法事が行われており、早々に中心街に向かう。
八戸の街はお城の大手門から本丸東門への中心線に対して仰角で六十度も斜めに道路が造られており、歩いていても距離感が難しい。城は南向きに築城されている。城下町は馬渕川に平行になるように構築されたのか、それとも市内から15kの青森と岩手の県境に一等三角点のある雨と水の神で龍神の分身といわれる岳大明神の信仰を集める標高739mの階上岳がある。信仰の対象となる山に対して正面になるよう対角に城下町が作られたのだろうか。自在山豊山寺がいつ廃寺となったか不明だが、寛文四年(1664)、後継ぎ決めていなかった盛岡南部氏二十八代重直の病死後、その遺領十万石を、幕府は盛岡領八万石を重直弟重政に八戸領二万石を重政弟直房に与え、新たに八戸藩が立藩した。八戸南部家は八戸に南宋寺、江戸に金地院と菩提寺を持ち、初代藩主直房病死(暗殺とも)のあと、二代藩主直政が将軍徳川綱吉の御詰衆となり、柳沢吉保と共に御側御用人となった。将軍護持僧筑波山権僧正隆光との縁により、藩主祈祷寺として場内に祈祷寺として豊山寺を設けたという。新たに八戸の家臣は南部藩から二十一名(実際は二十七名)を分士させた。御分国之節御分人廿一人と呼ばれている。この廿一人という数は遠祖南部光行が奥州糠部を賜り、承久二年(1992)甲斐から奥州に随行した侍数にちなんでいるという。御分国之節御分人の中に明治の教育家で有名な新渡戸稲造の祖先にあたる新渡戸左五右衛門常政がいる。左五右衛門常政娘吟が南部重信の側室となったため、盛岡藩に帰参している。八戸南部藩の菩提寺、南宗寺に向かう。

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八戸清水寺から櫛引八幡宮

2018-11-08 | 

青森県には国宝が3件ある。いずれも美術品で、櫛引神社所有の赤絲威鎧、白絲威褄取鎧の二領、新井田川を挟んで是川遺跡の対岸にある風張1遺跡出土の土偶(合掌土偶)で、この是川遺跡の近くに、楞厳山清水寺がある。青森県では最古の木造建築という清水寺観音堂に行く。
 
 
 
「楞厳:りょうごん」はサンスクリットで「シューランガマ」の音訳「首楞厳」に由来するという。何のことだかわからないが、寺号は「清水寺:せいすいじ」という。平安時代に慈覚大師円仁により天台宗寺院の三間仏堂として開山と伝わり、明治二年(1869)、真宗大谷派に改宗している。
 
 
本堂左奥にある観音堂は残された棟札により天正九年(1581)建立、昭和55年、国の重要文化財に指定された。細部に禅宗様を取り入れているというが、どの部分が禅宗様なのか分からなかったが、茅葺芝棟のお堂の外廊下にあった駕籠をみると、江戸時代の映画セットの中に飛び込んだように感じがする。
JR八戸駅から南南東約2k、馬渕川右岸にある櫛引八幡宮は社伝によれば南部家初代光行の草創と伝えられ、光行家臣津島平次郎に命じ、甲斐南部郷の八幡宮御神体を六戸に仮宮を営んで奉祭し、霊地を占い、のち四戸櫛引村に宮社を造営し、櫛引八幡宮と称し南部の総鎮守としたという。
 
 
「櫛引八幡宮は、盛岡藩の総鎮守としてさかえた神社で、青森県八戸市の西方郊外に位置する。本殿など現在の各社殿は、正保二年~慶安元年(一六四五~八)に盛岡藩の直営で造営が行われた。三間社流造で、各部を彫刻と極彩色で飾った華やかな意匠をもつ本殿や、東日本で類例の少ない春日造社殿の末社春日社本殿をはじめとして、同時代の建物が群としてのこっていることが貴重である」として平成5年、本殿、旧拝殿、末社神明宮本殿、末社春日社本殿、南門が国の建築物重要文化財として指定された。
 
 
 
八戸の櫛引という地名はどんな意味からきているのだろうか。単純に櫛を引くことから素盞嗚尊が奇稲田姫尊の髪を櫛で整えたことに由来すると伝える他所の櫛引神社と同じなのか、水と関係が深い農耕の櫛田と同じなのか、それとも櫛は同音の串と同じく、「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(く)し」「霊(くし)び」が語源となっているため呪術的な意味付けが見られる。拝殿から奥に行かなかったので気が付かなかったが、左甚五郎と河童の民話にあり、本殿の脇障子に鷹に押さえられている河童が彫刻されているという。この地方の古い民話に残る水中の霊物「メドチ:河童」という力自慢の水神と関係があるのだろうか。
南部家初代光行は新羅三郎義光の孫加賀美次郎遠光の三男で、南部家(盛岡南部氏)の始めで、のち二十八代南部重直病死のあと領地十万石を、新たに重信(盛岡八万石)と弟直房(八戸二万石)とに割り、八戸藩を立藩した。また南部光行の子、六郎實長は羽切井(破切井・波木井)を称し根城南部家(遠野南部氏)の祖としている。八戸を廻っていて、盛岡南部氏、八戸南部氏、根城南部氏がゴチャゴチャになって、どの南部氏の事だか区別がつかなくて困った。

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青森八戸 対泉寺から大悲寺

2018-11-01 | 

文化八年(1811)の祈祷札を持つ十六羅漢が楼門二階に納められていたことから、八戸市内にある三間一戸の三楼門では、最も古いとされる山門が残る新井田の曹洞宗対泉寺から廻った。
 
 
 
この貴福山対泉院は甲州南部光行(南部氏祖)六子破切井実長(根城南部氏祖)の五代南部政長二子政持を祖とする新田氏と関係が深い。南部氏一族が甲斐より糠塚に下向したとき、随行した新田氏と共に対泉寺も移転し、新田氏の菩提寺になっている。南部光行の子実長は甲州巨摩郡に残り破切井(波木井)を氏とし、日蓮に帰依し、のち剃髪し身延山に久遠寺を建立している。対泉寺門前に天明三年(1783)の大凶作と疫病の大流行による餓死者、病死者供養の餓死供養塔、大凶作の惨状や教訓が刻まれた戒壇石があった。
 
三浦哲郎「おろおろ草紙」ゆかりの地という説明板があった。八戸領内の天明の大飢饉を描いた短編で作者は執筆中、なんどもこの供養塔を訪ねたという。この小説は当時の日録を基にして書かれたのではないかと思われるほど、リアルな事例が描かれており、飢餓下の農民の生きざまを恐ろしいほど描いている。20年以上も前に読んだ小説の舞台が八戸だったのをすっかり忘れていた。境内の池に一重咲きの淡紅色でやや細長い二十四弁の古代ハス、大賀ハスの花が咲いていた。
 
大賀一郎博士が千葉検見川での古蓮実の発掘の資金援助をしたのか八戸出身者だった縁で八戸に分根されたという。後で知ったが、対泉寺に大久保武道の墓があるという。名前だけではわからないが、清朝最後の皇帝で満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟溥傑の長女、愛親覚羅慧生と昭和三十二年、伊豆天城山で心中した学生といえば思い出す人も多いと思う。自宅に戻って愛親覚羅慧生・大久保武道遺簡集の一部を読んだ。純愛ゆえだったのか、同情からなのか、それとも不慮の災難だったのだろうか。三間一戸の楼門式山門の残る松館の福聚山大悲寺に行く。
 
 
 
根城南部長経は秋田安東氏との戦いで萬松寺の宝山正弥和尚の助けで、戦いに勝利した。宝山和尚を招き、松館にあった松月庵の跡地を復興し、応永十八年(1411)、大慈寺を開山。以後、根城南部氏の菩提寺としたと伝えられる。八戸にはもう一つの大悲寺がある。糠塚にある大慈寺は、松館大慈寺の宿寺として延宝年間(1670年代)に創建されたと伝わり、江戸時代後期に八戸城下に近いこともあって宿寺と本寺の地位が逆転したという。明治二十一年、松館大慈寺は独立寺院となる。三戸南部二十六代信直(後盛岡南部氏)の秀吉小田原征伐に参陣により本領安堵により、根城南部家は三戸南部家の従属関係となり、根城南部二十代直政が病死し、あとを継いだ二十一代春心尼(直政室)のとき、寛永四年(1627)、盛岡城の支城である遠野城に移封され大慈寺も遠野にお供し、八戸に残った大慈寺は一時廃寺となるが盛岡三戸二十七代南部利直が再興し、その後、寛文四年(1664)、利直七男直房が八戸藩二万石で立藩し八戸領内十ヶ寺の一つとして庇護されたという。八戸に同じ山号をもつ松館の大悲寺と糖塚の大悲寺がある。糖塚の大悲寺に行く。
  
 
 
 
南部氏も根城南部氏、八戸南部氏と盛岡南部氏とが入り混じって混乱する。旅行先の書店で名久井貞美著「八戸藩の悲哀」「八戸藩二百年の残像」という本を買った。

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