斗南領内への旧会津藩士とその家族の移住総員数については資料によって差がありハッキリしないが、青森県史記載資料によれば移住者総数一万七千三百二十人、戸数四千三百三十二戸(推定)とあり、斗南藩史記載若松県の上申によれば、若松にて帰農した者約二千人、東京にて職業に就いた者約千二百人、斗南藩に引移した者一万四千八百人、不明者約二千人、旧会人員数を二万人としている。むつ市は市制施行30周年記念事業として平成2年3月、当地における斗南藩120周年にちなみ、大平浦に到着した斗南藩移住の経路を史跡として後世に伝えるため「斗南藩士上陸之地」の碑を建立した(揮毫会津松平家十三代当主松平保定氏)。
説明板によると、この碑は慶山石で造られ、会津若松を望む方角に設置されたという。周りは、むつ市の花「ハマナス」と会津若松市の木「アカマツ」で囲まれている。
この海岸から見える山がここに移住した会津の人たちが斗南磐梯山と呼んだ釜臥山、この山の向こう側にあるのが恐山。恐山という山があるのかと思ったら、宇曽利湖を中心とした外輪山の総称で南側の山が釜臥山、湖の北側が賽の河原といわれ菩提寺がある。日本三大霊山、日本三大霊場、日本三大霊地、恐山はいずれにも含まれている凄そうな所、ここの「イタコの口寄せ」には興味ないが、この場所は一度、訪ねてみたい場所だが、今回は外輪山のふちを眺めて我慢する。ここから車で5,6分のところにあるむつ運動公園の東端(テニスコート横、森林のなか)、落野沢に柴五郎住居跡を訪ねた。国道から脇道に200mも入った鬱蒼とした何か獣でも出てきそうな林が開けた所に「風雪の落の沢」という説明板があった。
「寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞き五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」(「会津人柴五郎の遺書」より)と言ったという。 明治四年廃藩置県により、忽然と士族授産は消え失せ士族は四散せざるを得なかった。斗南士族の胸中には「まこと流罪に他ならず、挙藩流罪という史上かってなき極刑にあらざるか」という憎悪と怨念が残るのみであったという。そこから50m位戻った所に五郎が兄と共に仮住まいしたという呑香稲荷神社への鳥居がある。
薄暗い神社の裏側にまわってビックリした。そこには綺麗なテニスコートがある広々としたむつ運動公園だった。県道6号に入り、斗南ヶ丘市街地跡に向かう。
「斗南藩が市街地を設置し、領内開拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられました」とあった。「夢見たこの地」という悲惨な言葉が、この斗南ヶ丘の歴史の運命を物語っていた。この跡地に下北地域で一番大きい碑がある。
秩父宮両殿下が昭和十一年、下北地方を巡遊され、ここ斗南ヶ丘に立ち寄られたことを記念し、秩父宮両殿下御成記念碑を昭和十八年に子爵松平保男謹題、旧斗南藩士荘田三平謹撰、従七位近藤賢三にて建立した。昭和四十六年、斗南藩百年祭に斗南ヶ丘記念碑に秩父宮妃勢津子殿下(旧斗南藩主松平容大令姪)をお迎えしている。ここから車で二,三分のところに斗南ヶ丘で唯一生き残った島影家や斗南会津会の人々が建立した「斗南藩追悼之碑」と旧藩士の墓域があります。
本州最北端の岬、大間崎に寄った。会津鶴ヶ城落城後、明治新政府によりこの下北と三戸・五戸地方へ会津藩士とその家族1万7千300人が挙藩移封された。その血と涙の歴史を、斗南藩史生を務めた木村重孝の御子孫が展示している歴史資料館「向陽處」にお邪魔した。
ここにあるカラーの城下絵図の話を聞いてから3年目にようやく訪ねることができた。色が鮮やかに残っていたのに驚く。この絵図の制作年代が不明なのは残念だったが、絵図の中に沼澤小八郎と記載があった。高木盛之輔誌「沼澤道子之傳」(道子の夫は十代沼澤九郎兵衛)によると、十一代沼澤六郎(後、左馬助)は元治元年に病死、その後を継いだのが二男の小八郎(十二代出雲、のち七郎)で、そうすると、この絵図は元治元年以降に作成 されたものと考えてもよさそうである。夕方、田名部に戻る。夜は斗南会津会の方々に懇親会の場を設けて頂いた。挨拶のあと、会津藩士流亡の歌「下北哀史」を聴かせてもらった。お隣の斗南会津会の会長さんが「この歌を聴くと涙が止まらないのです」と大粒の涙を流されていた姿が今でも強く心に残っている。
(下北哀史歌詞)
涙こらえて 鍬とれば 下北哀し 火山灰 緑の山河 夢とおく
すぎし戦争(いくさ)を ふりかえる 故郷の唄に 風も哭く
2日目はむつ市新町にある円通寺からスタート。
山号は吉祥山、下総東昌寺末寺で大永二年(1522)創建、開基は根城南部氏で万治二年(1659)東昌寺六世が中興の祖で、恐山菩提寺の本坊でもある。明治元年十二月、盛岡藩旧領地没収され、二戸、三戸、北の三郡は弘前藩管理となったが、翌年二月黒羽藩取締に替り、県名は北奥県、旧三戸代官所が県庁本局となったが九月、九戸県を八戸県と改称したが六日後に三戸県と替え、三戸北奥県役所は三戸県御役所に変更されている。丁度このころ、会津松平家の血縁の者の願い出の沙汰があり、明治二年十一月、松平慶三郎に家督相続と陸奥国高三万石の立藩が認められた。陸奥国斗南藩三万石は三戸県内の二戸郡内十二ヵ村、三戸郡内五十ヵ村、北郡内四十八ヵ村にいつ決定したか分からなかったが、明治二年十一月二十八日に斗南藩領以外の三戸県を江刺県に編入されているので、この時期に三万石の領地が決められたものと思われる。明治三年四月に黒羽藩と旧盛岡藩三戸代官所にて領地引継ぎ、当初は藩庁を旧盛岡藩五戸代官所に置いた。松平慶三郎家の陸奥支配地藩名を斗南と定めたのは、はっきりしないが維新史料などによると明治三年五月には斗南藩と出てくるので、四月か五月だと思われる。明治四年(1871)二月、円通寺に斗南藩庁を移し藩主の仮館とした。藩校である斗南日新館も迎町大黒屋からこの円通寺に移した。旧会津藩は二尺、三尺位の大きな本箱十六梱で会津日新館の書籍をこの下北に持参したと言われている。斗南日新館蔵印も残っているということであったが、今回は時間がなくて現物を確認することができなかった。
境内の一角に明治三十三年、斗南藩士たちが建立した源容大書による「招魂之碑」がある。
碑陰記
明治戊辰之乱会津藩士奮戦各地死者数千人其忠勇節烈
凛乎凌風霜矣及乱平生者皆浴一視同仁之沢而死者幽魂
独彷徨寒煙野草之間不得其所吁嗟哀哉今茲庚子為其三
十三年忌辰於是旧藩士居南部下北郡者胥謀建碑圓通寺
招魂祭之寺則旧藩主容大公封斗南時所館也
明治三十三年八月 旧会津藩士従五位勲五等南摩綱記撰并書
円通寺のお隣が齢香山徳玄寺。
ここは文禄三年(1594)、加賀の僧が五戸石澤に庵を結び、寛永二年(1625)、田名部に移したといい、このお寺も創建は古い。境内に「表高二十三万石を誇り、奥州第二の雄藩であった会津藩は全国諸藩の中で最も勤皇の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ全国唯一の移封処分を受けてここ斗南の地へ挙藩流罪となりました。ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所です。当時の容大公は数え年三歳ではありましたが移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。またここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての議論が重ねられた所でもありました。東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人々に希望を与え、新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を遺したのでした」と説明板があった。
墓地には数多くの斗南藩士の墓が点在し、学事掛の橋爪寅之助の墓碑もここにあった。
三戸から一路北上、どこをどう走っているのか相変わらず分からなかったが五戸へ向かった。車内でも話題になったが、この戸(へ)という呼び名。一戸から右回りで九戸に戻る。丁度、テレビで律令制度のあった平安時代中期、都と地方の国府を結ぶ道に約四里ごとに作られた駅家で馬を利用するための資格である駅鈴などの番組をみたばかりだったので、戸は馬の放牧地兼駅家の別名と思ったが、色々な説があるみたいで、一戸から七戸までのそれぞれの距離が概算で五里、これは昔の軍勢の往復できる距離だそうで、征服した土地を柵で囲み「柵戸(きのへ)」と呼び、順番に「一ノ戸」「二ノ戸」と呼んだともいい、また戸(へ)は、この地方の馬を九つに区画して運営した官営牧場の管理,貢馬のための行政組織だったともいわれ、ハッキリしていない。
昔、知り合いに一戸さんという姓のかたがいた。一戸さんから九戸さん、百戸さん、万戸さんのなかで六戸氏、九戸氏、萬戸氏(万戸氏は除いた)は珍しいお名前で全国でも軒数が一ケタ以下しか確認できなかった。五戸の高雲寺に会津藩士倉沢平次右衛門や会津藩家老だった内藤介右衛門信節のお墓を訪ねた。光明山高雲寺は報恩寺末寺(三戸、あと盛岡移転)で慶長二年(1597)開創、開基は木村杢助秀勝といわれている。このお寺の墓域はかなり広く、木村杢助秀勝の墓もあるという事であったが分からなかった。
内藤家の墓域の右奥に諏訪伊助妻墓があり、その隣がお婆様。一瞬衣をかぶっていたので奪衣婆かと思ったが、よく見ると衣服をきちんと着ているのでそうでもないようだ。その右側は戊辰之戦いの後、陸奥五戸に移った旧会津藩士の墓。
この墓地には旧会津藩士の墓碑があるはずなのだが、時間がなく探せなかったのは残念だった。三沢市谷地頭にある三沢市先人記念館は平成23年度、収蔵資料整理事業を実施して調査・研究により、新しく解明した内容を「新収蔵資料公開」として企画展を開催している。展示品の説明をここの学芸員のHさんにお願いした。この先人記念館にいる学芸員さんは御一人と聞いたが、ぜひ眠っている資料の解明と公開に頑張ってほしいと思う。
戊辰戦争後、陸奥への移住を強く主張、斗南藩では少参事として活躍し、民間式洋式牧場を開設した廣澤安任(富次郎)の墓所へも寄った。この墓所は昔、広沢牧場の南端に建てられたのだが場所を特定するのが難しい。記念館から170号を南下、JAおいらせ北部を通り越して、右側高野沢集会場(記念館から約1,5K)を右折(三沢市内からだと左折)、約650M左側の林を登った所に一族の墓碑が点在していた。
今回のメンバーは総員10名の大所帯。夜はむつ市で懇親会。たまたま入ったお店が斗南会津会の会員さんで旧会津藩士の子孫の方だった。初代からの家系図も見せてもらった。ここで珍しい鹿と玉ねぎの鉄板焼きをご馳走になった。初めての鹿肉だったが、柔らかく臭みもまったくなく甘目の味噌タレがよく合って、とても美味しかった。
2軒目、舟のオールや自衛隊の写真なども置いてある海上自衛隊ご用達みたいなお店に寄り道して宿に戻る。
連休を利用して斗南藩があった下北半島とその戻りに仙台に寄った。スタートの東京駅で早くもつまずく。停電で新幹線が遅れているとのこと。乗車予定の1台前の電車は5分遅れて発車とのアナウンスがあった。これが真っ赤な嘘で、20分遅れで入線してきた。乗車予定の新幹線は40分程度遅れて発車、集合地の八戸について驚いた。後発の連中が先に着いていた。
車二台で出発、最初は会津藩殉難者無縁塔のある三戸大神宮に向かう。行ったというより、ただ車に乗せて連れて行って貰ったので、北も南も分からない史跡巡りが始まった。
三戸大神宮にある会津藩殉難者無縁塔は、三戸三碑修理顕彰会が昭和51年に杉原凱先生の墓で作業中に周りからおびただしい数の人骨がでてきた。当時は死者も多く、埋葬地にも困る状態だったという。顕彰会では、近隣にある無縁化した人々の骨を一ヶ所に合葬その上に無縁塔を建立し冥福を祈った。会津三碑の1つ、「杉原凱の碑」の杉原凱は会津藩の儒者で、「四書訓蒙輯疏」でも有名な安部井帽山に学び北学舎の長となる。戊辰後の明治三年、陸奥三戸に移り明治四年に病死、この碑は杉原が没してから15年目の碑建立である。
青森県三戸郡三戸町には在府小路町、同心町、馬喰町等古そうな地名が残っているが、この同心町の悟真寺に会津藩士戊辰殉難者の「招魂碑」がある。脇に「会津藩士戊辰殉難者招魂碑由来」があり、旧会津藩士(斗南藩士)三戸移住者一同により「ここに二十七回忌辰の為に南部三戸に移住せる旧藩士あいはかり碑を建てその事を録しもって後世に伝えかつその魂を招きこれを祭らんとす」とあり、明治二十七年八月二十三日建立されている。篆額は松平容大、撰は旧藩士南摩綱紀、書も旧藩士の渡部重乕による(注、忌辰は忌日に同じ)。
わが国最古といわれる白虎隊の墓がある観福寺に向かう。観福寺の山門は旧三戸代官所(陣屋)の門を移築したもので二百五十年以上経たものともいわれている。
この門の右脇に無縁仏なのか、ある斗南藩士の奥さんの墓があった。この観福寺の白虎隊墓碑は大竹主計の弟大竹秀蔵が明治四年正月十三日、母シヲの一周忌命日に建立したものと云われている。この墓碑の中には、自刃蘇生した飯沼貞治(貞吉)の名であり、戦死したと言われている伊藤悌次郎、池上新太郎の名も入っている。この墓碑の建立者の大竹秀蔵はどこでこの白虎隊戦死者の名前を知ったのだろうか。猪苗代謹慎ならば、貞吉の消息は分かったはずで、高田で謹慎していれば白虎隊の情報も少なかったかもしれない。観福寺の白虎隊墓碑名は出陣して帰陣できなかった隊士名を聞きある程度特定したのだろうが、明治二・三年といえば、会津家中では、自刃した白虎隊士にたいして憐憫の情を強く持ったにせよ、尽忠報国とか、忠義といった白虎隊自体を称賛していったのは明治中期以降であり、明治四年初め、この観福寺の白虎墓碑を建立したということは大竹秀蔵の一族か、または周りにいた旧会津藩士の中に白虎隊と緊密な関係があった者がいたのではないだろうか。大正十二年、この墓碑を訪ねた矢村績(いさお)の檄文が観福寺にのこっている。その中に「旧藩士に謀り、戊辰の役に重立ちたる戦死者の氏名並びに白虎隊殉死者の名を刻し、三戸町浄土宗観福寺に碑を建立して長く其の霊を弔う」とあり、旧藩士にも相談して戊辰の役で主だった戦死者の氏名も刻したと記載してあるが、今は読取ることは出来ない。観福寺白虎隊墓碑表面に、簗瀬竹治 鈴木源吉 伊藤俊彦 石山虎之助 野村駒四郎 有賀織之助 西川勝太郎 永瀬雄次 篠田義三郎 伊藤悌次郎 池上新太郎 簗瀬勝三郎 安藤三郎 井深茂太郎 飯沼貞治 間瀬源七郎 石田和助 縦に三名、六行で白虎隊士十七名の名前が彫られ石田和助の下に小さく二行で忠烈古今罕ナル白虎隊ノ英魂ヲ弔ハンとあり、何か余白に文字を無理やり入れたような感じの墓碑で、横の墓碑由来によると昭和二十五年、高杉龍眼住職が苔に埋もれたこの碑を発見とあったが、旧藩士子孫矢村績が訪ねた二年後の大正十四年に秀蔵が無くなったとはいえ、明治半ばから大正と白虎隊の名が高まるなか、この碑の存在は忘れられてしまったのだろうか、それとも太平洋戦争敗戦で一時この碑を秘匿して、五年後に再び表に出したということなのだろうか。
明治二十七年発行中村謙著「白虎隊事蹟 全」に「本書石販画の現場並びに容貌着衣の模様等は旧藩士故印出の老母及び飯沼君の指示遺族者の説話によりてものせるものにして座上の想像的に摸写したるものにあらず」云々と記載があった。
前回、蔵版と藩版との違いについて書いたが、出版の権利について「物の本」によく享保以降という言葉が出てくる。これは享保六年(1721)幕府は明暦三年に布告した私党忌避の禁を解き、諸商人仲間の活動を公認して、書物屋仲間に諸色新刊書取締の布告を出した。これによって「仲間吟味」の制度が確立され、翌年十二月、町奉行大岡越前守から新板書物の取締の布告が出され、この条項が幕末まで出版物取締の基準となった。これによって出版書籍の奥書に作者及び板元の署名がなされ、出版する権利を有する者が明確に表示され、その後、京都・大坂・江戸の三都間の書肆でも統一され「板株」の権利が確立されていった。
(上・内藤書肆印行 東京都立図書館蔵書) (下・会津藩蔵版)
一方会津藩では藩内に開版方を設けて出版を始め、寛政十一年(1799)には藩校、日新館の造営を開始、そのなかに開版方を学校奉行の管理下に属させて書籍を印行させたが、勘定は別会計として、印行費用は大抵五年賦にて償還し終り、後には書籍の売却純益を以って事を弁理したという。しかし国中で売却するには薄利にして、殆ど利のないものもあったが、天保十四年開版の四書輯疏は江戸での販売も多く、書肆は幾百部でも引受、その純益も多かったという。日新館では開版方任役二人、開版方勤二人、摺仕立方四人で彫刻の職人は家人給士の内から選抜し、料紙漉立の役は他に任命されている。会津藩で出版された書目は、漢籍本から俳書まで多枝にまたがっており、これらの出版書は実費で会津領内士民に頒ち、一部は藩外へ印刷を依頼して刊行している。一部の書は初め会津で印行され、後に京都において再刻されている。これらの書籍を三都で出版した書肆、享保以後板別書籍目録・享保以後江戸出版書目・徳川時代出版者出版物集覧などとぶつければ簡単に会津藩蔵版と魁星印、会津秘府との関係が判明するかと思ったが、大きな間違いだった。蔵版と藩版とで実質出版者を特定するのは難しく、藩版には出版時時期、出版地、出版者といった刊記が全くない無刊記であり、しかもこれは藩蔵版の特徴にもなっている。そうすると藩蔵版に蔵版印や魁星印、会津秘府を捺す意味はなんだったのだろうか。初めは藩版として刊行しておいて、後にはその板木を製作者である版元に下げ渡してその店の刊行物として、奥付にもその書肆名を表して売り出した例もすくなくないという。藩内での使用には藩や日新館の蔵書印があれば十分で、日新館の講義で使用する漢籍本にベタベタと種々の朱印を捺す必要はないわけで、今、残されている会津藩蔵版や日新館蔵版の漢籍本の多くは実費で会津領内や三都の書肆で販売された書籍ではないのか。そうすれば書肆で押印されたという魁星印も説明が付き、会津藩蔵版は藩蔵印、日新館蔵版は会津秘府印を押印して区別して、さらに一部の書肆で販売した書籍には魁星印が捺されたのではないだろうか。
(会津藩蔵版印)
左・会津秘府印 右・日新館蔵書印
藩と出版本が重なっている書肆に京都・壽文堂武村市兵衛、江戸・尚古堂岡田屋嘉七、須原屋新兵衛、須原屋茂兵衛などがあるが、いずれもどんな魁星印を使用していたか漢籍本を実際に見る機会が極端に少なく分からなかった。(書肆・奥書)
高橋明彦氏の「新発田藩版とその原版」によると新発田藩校道学堂には御版行方という出版局があり、道学堂関係役人六十一名の内、御版行方は四十二人にのぼるという。江戸書籍商史に「海国兵談」の出版費用が載っていた。「海国兵談」十六巻を紙数三百五十枚・八冊造で千冊製本するとして、総費用の明細は、紙一枚彫賃四匁五分で三百五十枚一貫百五十目、金にして二十六両一分。紙代が八千帖で六貫八百目、金にして百十三両一分と銀五匁。表紙が二貫、金にして十両二分と銀五匁。縫糸代一部六分五厘で、千部で六百五十目、金にして十両三分。摺賃一部に付四分、千部で六百五十目、金にして六両二分と銀十匁。仕立賃一部につき一分、千部で一貫目、金にして十六両二分と銀十匁。外題料全部八冊に一分ずつ、千部で百目、金にして一両二分と銀十匁。八冊本千部で、〆て銀にして十二貫五百二十五匁、金に直すと二百八両三分と思ったより費用が掛っている。ちなみに板刻は一人で彫る所、紙一枚に大概一日半かかり、海国兵談の総枚数三百五十枚を一人で彫れば、休みなしで九百日掛る計算になる。本の制作は思った以上に大変な事が判った。5月の連休に斗南藩の藩校、斗南日新館があったむつ市の円通寺を訪ねた。教科書の漢籍本は会津の日新館から運んだという。残念ながら現地で四書集注、四書輯疏の現物を見ることは出来なかったが、斗南日新館蔵印もあるという。結局、会津藩蔵版印と秘府印、さらに魁星印との関係を明確にすることが出来なかった。こんなことは、漢籍本の世界では当たり前の常識なのか、分からず、全くの見当違いでなければいいのですが。