大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

博多界隈

2014-11-20 | 

小田原から九州に行くのは存外大変だった。飛行機だと羽田まで時間が掛るし、小田原に停まる「こだま」では時間が掛るという事で結局、新幹線で新横浜まで出て、新横浜から「のぞみ」で博多に行くことにした。新幹線車内誌を2度も読んでしまった。さすがに博多に着くころには乗客もまばらになった。
 
チェックインまで時間があったので、簡単な観光地図に萬松山承天寺が博多駅前一丁目とあり駅前かと思ったら、地下鉄で一駅もあった。知らずに歩いて行くと途中承天寺通りがあり、やっと右手にお寺の五本の筋塀が見えてきた。昔は寺地として数万坪あったという承天寺の山門か判らず結局一周してしまった。近くにあったお茶屋で承天寺山門がどこか聞いたら知らないという。そんなものかと思う。
 
 
承天寺開山の祖・聖一国師は宋より、うどん・そば・羊羹・饅頭などの製法を我が国へ伝えたと云い、本堂や墓地などのある北東側に「饂飩蕎麦発祥之地」「御饅頭所」碑、その隣に宋で織物技術を学び博多織を始めた「満田彌三右衛門之碑」があった。道路で分断された南西側には山門、仏殿があり、勅使門の傍に博多山笠発祥之地の碑がある。
  
 
 

駅前大通り(大博通)に面して弘法大師が日本で最初に開山した密教寺院である南岳山東長寺に行く。ここは福岡藩二代藩主・黒田忠之、三代・光之、八代・治高の墓がある黒田家の菩提寺でもある。
 
 
 
古くから各地に祇園大神(素盞嗚命)を祀る災厄除去の祇園信仰が残っている。博多には福岡市を代表する祭りである博多祇園山笠があり、現在は博多区の櫛田神社を中心に行われている。夜、櫛田神社を訪れると千灯明が飾られていた。
 
 
数年前、2年続けて小倉に行った。写真を見たら同月の同じ日に小倉の「舞」とゆう店で2回ともイカ活き作りで食事をしていた。その時、九州のイカの美味しさにビックリした。
 
今回は長崎・熊本に行くため、イカ活き作りの店が多い博多に三泊して3軒のイカ活き作りのある店にいった。九州のイカ活き造りと云えば呼子が有名だが、呼子に支店を持つ店の本店が博多中洲にあったのでホテルから予約をしてもらい訪ねた。
 
2軒目の中洲の「さかな市場」という店で嬉しい事があった。ここは鳥水炊きの店の後で寄ったのであまり品数を注文出来なかったが、店の中にその地区例年の博多祇園山笠手ぬぐいが飾ってあった。写真を撮ろうと思ったが客が大勢いたので止めて、店長に手拭の事を聞いたら非売品だという。ガッカリしていたら数年まえのですがと、残っていた手拭を1本くれた。水炊きの店なんかに寄らず、最初からこの店に寄れば良かった。
  
3軒目は櫛田神社そばの商店街にある店で、入口は狭かったが奥行きがあり、かなり繁盛店みたいで、時間を2時間と区切られた。
 
1軒目、2軒目は「剣先イカ」、3軒目が「ヤリイカ」みたいだったが、刺し身になって出てくるとその区別が判らなかった。

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熊本紀行

2014-11-12 | 

博多に泊まって、大した目的もなく熊本に行った。風景印を集めに九州新幹線・市電に乗って、本場の馬刺しを食べに熊本に行ったとは言いにくい。駅で市電の1日券を買い、乗場は何所だとキョロキョロしていたら、隣にいた人が駅前の市電乗場まで連れて行ってくれた。
 
熊本市電はA・Bの2系統しかなく判りやすい。スタートは出水神社のある水前寺公園からというより、近くの水前寺公園郵便局の風景印を貰いたくて行った。
 
 
出水神社が細川家歴代藩主を祀り明治十一年(1878)に創建されたとは知らなかった。この日は秋には珍しくバカ暑い日で日陰のない公園から早々に退散して中央郵便局に向う。市電停留所洗馬橋の横に親子狸のブロンズ像があった。昔この辺りで狸が出たのかなと思って、橋の名をみると船場橋とあった。洗馬と船場では同じ読み方でも表記が異なり、船場に狸でやっと手まり唄と電線音頭を思い出した。周りを見渡したが山どころか丘もみえなかった。肥後手まり唄の歌詞を思い出した。何所から来たかと尋ねて、肥後だと答えている。「せんば」の本当の表記はなんだろうか、そうすると狸って何のことを云っているのだろうか、この手毬歌が明治初めに作られたとしたら、まさに残酷な物語になってしまう。
本局の女性がうちの風景印が一番良いと自慢していたが、城東郵便局に寄ってから城にむかった。
  
 
熊本城には須戸口門より入城、田子櫓の下から本丸に向う。やはり石垣が綺麗で見応えがあったが、広すぎて疲れてきた。
  

加藤神社や西側の二ノ丸、三ノ丸にも寄らず、備前掘の横を通って街に向かった。その途中に「神風連首領太田黒伴雄奮戦之跡」「西南の役回顧之碑」谷村計介「忠烈」碑があった。
 
 
お昼は城見町通りの「青柳」で馬肉のすき焼きが入ったコースに馬刺しと車海老を追加、充分郷土料理を堪能して熊本駅に戻る。
 
 
帰りの新幹線まで少し時間があったのでタクシーで花岡山陸軍埋葬地に向かうことにした。何人かの運転手に聞いたが陸軍墓地や招魂社の場所を知らず焦ったが地図を頼りに、まず招魂社に行って貰う事にした。花岡山途中の南斜面は、お墓と小さなホテルが入り混じっている不思議な環境の地区で若いタクシーの運転手も招魂社には初めて来たとの事だった。招魂社の右の坂を50mほど登ると右手に「薩軍砲座の址」碑があり、道を挟んで陸軍埋葬地があった。
 
 
西南の役の時、この陸軍墓地に薩軍が約2K弱の熊本城を砲撃するための砲台を構築し、官軍との砲撃戦の在った場所で、かなり破壊されたという。熊本市の説明文によると「この墓地は明治九年(1876)神風連の変に倒れた熊本鎭臺司令長官種田政明少将、参謀長高島茂徳中佐、大島邦彦中佐以下百十六名を葬るため設けられた」とあり、東側に「軍人軍属合葬之碑」がある。
 
碑文
明治十年之役賊拠是山夷墳布営
聚喝為塁戡定之後務復其故然地
荒石亡位置難辨者若干因建此以
表之明治十八年八月
裏面・左面に埋葬者百三十六名の姓名が刻まれていると云う。
 
陸軍墓地と招魂社の間に神風連の乱に倒れた県令安岡良亮の墓があった。招魂社の横に赤字で書かれた乃木大将御令嬢墓の石柱があり墓域を探したが蜘蛛の巣が物凄く近寄れなかった。
 
  
私有地なのか前の広場に秩父宮殿下御駐立之趾と云う石柱もあった。ここから熊本城でも眺めたのだろうか。

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長崎キリシタン紀行

2014-11-07 | 

前回長崎に来たときは、長崎佐古軍人憤墓地を始として会津関係史跡を中心に廻ったので、今回はキリスト教徒ではないが幾つかの教会を大急ぎで廻った。
駅から真直ぐに浦上天主堂に向う。昭和20年の長崎原爆によって破壊されたが昭和34年に再建され、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会だという。
  
天主堂の正面左手前に原爆の強烈な爆風で破壊された黒焦げの聖人の石像が並んでいる。 
教会の右手前に拷問石が置かれていた。
 
説明に「明治四年六月中旬、長崎浦上切支丹教徒二百六十名は、博多の獄舎より転送せられて萩に来り、堀内岩国屋敷に収容された。明治五年四月の帰国までには、相当の死亡者(二十八人)を出している。その間、信者は獄吏、神官等より改宗の説諭を受けたことは勿論であるが、中々転向しないので、遂には非常手段として、鉄砲責、寒晒などと呼ばれる拷問方式が用いられた。その時、信者が座らせられた石に「拷問石」と呼ばれたものがあり、それには切支丹の尊敬名誉の標章である十字架が刻まれてある」とあった。
西坂の日本二十六聖人記念聖堂に行く。
 
慶長元年十二月十九日、六名の外国人と二十名の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大阪・京都で捕えられ、長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑された。その列聖百年祭を記念して、二十六聖人等身大のブロンズ像を配した記念碑が建立された。レリーフで彼らの足がみんな垂れ下がっているのは、昇天の様子を描いているからだという。空中に浮いている足をみて、他の事を想像してしまった。「人若し我に従はんと欲せば 己を捨て 十字架をとりて我に従ふべし」と聖書の言葉が記されている。
 
中町教会を通って大浦天主堂にむかった。中町教会はあとで知ったが島内要助神父が中町教会の創建をキリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である現在地に求めたと云う。原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失したが、昭和26年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建され現在に貴重な被爆遺構として残っていた。
  
大浦の日本二十六聖殉教者天主堂、通称大浦天主堂は人気の場所らしく、女子高校生がわんさかいた。この教会は急な石段の上にあり、写真を撮るのがむずかしかった。
 
教会内部はポストカードより
 


出口で書籍を売っていた。帰りの電車で読もうと思い三俣俊二著書「和歌山・名古屋に流された浦上キリシタン」等数冊買った。「拷問石」の年代で不思議に感じ、江戸幕府時代の話かと思ったら、明治になってからの異教徒への激しい弾圧の話で、宿に戻って夜中の二時まで掛かってイッキに読んだ。浦上のキリシタン全員約3千人を徳山・高松・松山・高知・鹿児島・名古屋・津・郡山・和歌山・姫路・福山・岡山・広島・津和野・山口・冨山・大聖寺・金沢・鳥取・松江の二十藩に流配したという。改心を拒み禁教解禁までに死亡者が50%を超えた藩もある。自分だったら食事を絶たれたら三日も待たず真っ先に転んでしまいそうで、その信仰の強さに驚く。家の中に神棚があり、仏壇があり、クリスマスを祝う身としては、かなり肩身が狭い。

長崎佐古軍人憤墓地(2010/11/26)

 

 

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大雄山最乗寺

2014-11-02 | 小田原

小田原から最乗寺の麓、関本まで参詣鉄道が開通したのが大正14年(1925)のことで、小田原大雄山間の運賃が二十八銭と当時としてはかなり高額だったようである。
 
最乗寺は40年ほど前にここを訪ねてみごと花粉病になった因縁のお寺さんで、今回は登ることが出来なかった奥之院や松平直基のお墓と子育ての狛犬も訪ねるのが目的で、これ以上、花粉病が酷くならないよう願いながら訪ねた。
大雄山駅から約1kのところに仁王門、さらにここから最乗寺三門まで約2kの道程がある。道程も記憶と違い、かなりの急こう配の坂道で小学生が隊列を組み登っていたが何処まで行くのだろうか、大変そうだった。朱色の仁王門には「最乗寺専門僧堂」と「東海法窟」の額が掲げられている。
  
新編相模国風土記稿には「曹洞宗、應永元年(1394)起立す、開山了庵は当国大住郡粕屋庄の人なり、名は慧明、了庵は其号なり。道了は舊了庵の徒弟たり、寺伝に無双の大力にして当山を開く時、師に力を合せ、一人にて大木大石を除き、其功少からず、又師の為に当山の請願を発起し慶永十八年、遂に天狗となりて山中に住せり。奥ノ院、道了社より八町を登り、深林の内にあり、十一面観音を安置す、道了の本地仏なり」とある。
タクシーを使うと境内の庫裏にある受付まで直接乗り入れることが出来るようだ。
 
境内広場の中央が朝晩の勤行や当山山主が修行僧に対しての説法の場である本堂でその左隣が開祖了庵慧明禅師尊像等、歴代住持霊牌を祀る開山堂となっている。早い時間だったので境内に観光客も少なく、靄がかかり幽玄閑寂の世界に入り込んだとおもったら、境内で落葉を燃やした煙だった。
 
  
開山堂隣の鐘楼の脇に徳川家康次男、松平(結城)秀康の五男にあたる松平大和守源朝臣直基の墓がある。「直基の墓が大雄山最乗寺に建立されたのは、時の権力者である徳川将軍家と大雄山最乗寺との関係の深さもさることながら、直基自身が大雄山最乗寺に対する信仰が深かったことに由来すると考えられています」寛文十年(1670)、姫路の書寫山圓教寺に分骨されたとも南足柄市教育委員会の説明にあった。
 
損舘佛性院殿鐡関了無大居士神儀

姫路の書寫山圓教寺
 
結界門をくぐり石段を登る守護妙覚道了大薩をご本尊に大天狗・小天狗が両脇侍として祀られている御真殿に着く。ここには多宝塔、関東三十六不動の第二番の札所で清瀧不動尊が祀られている不動堂を通っても行くことが出来る。
 
 
 
大杉に囲まれた350段余りの急石段を登ると大雄山で最も高い所に御本地十一面観世音菩薩が奉安されている奥之院がある。ここの石段はきつく膝がガクガクになりながらやっと登った。
 
箱根明神・矢倉明神・飯沢明神の三明神が一体に刻まれている三面大黒天を奉安している三面殿のまえに珍しい子供を抱えている「子育ての狛犬」を見つけた。全国でも珍しい狛犬という事で若い女性に人気があるらしい。
 
曹洞宗のお寺にしてはパワースポットめぐりのサイトも掲載していて古刹にしては開けた感じのするお寺さんだった。

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