大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

会津日新館の蔵書印

2011-06-27 | 會津

会津に「かすてあん会津葵」という菓子がある。会津葵は藩主松平家の紋どころ、お菓子の押文様は藩公の文庫印「会津秘府」をうつしたものだという。 (会津秘府)印

昨年、会津若松市立会津図書館で何点かの「会津秘府」印のある蔵書を見せてもらった。日新館蔵版四書集註の大学と論語であったことから、稚拙にも日新館に関係ある蔵書ではないかと考えてしまったが、今年春、会津の旧家で見せて貰った和本に日新館蔵書印があった。

 

これで「会津秘府」印は日新館の蔵書印ではないことがハッキリした。慌てて新装開館した会津図書館に出かけた。この図書館でも「会津秘府」印のある蔵書はそう多くはない。詩経世本古義を除いて日新館蔵版の活板近思録、四書集註等である。詩経世本古義には若松県図書印があった。若松県が福島県となったのは明治九年八月、「会津秘府」印は明治初期にはあったことになる。寛政十一年(1799)四月、学校の館号を日新館と定め、日新館蔵版孝経を開版し諸生に払下げ、同年六月、詩経世本古義を幕府諸書の印行の勧めにより彫刻、文化元年(1804)には日新館童子訓二巻を印行して諸臣に頒賜している。天保二年(1831)に活字版の近思録を印行した。会津藩蔵書は日新館志に文庫目録が載っている二之丸に文庫があり、藩出版方は寛文五年(1664)に藩祖正之公編纂の玉山講義附録を出版し家老重役に頒賜している。二之丸文庫蔵印というのはなかったのだろうか。日新館に開版方を置いたのは寛政十一年、ここで書籍の印行調整し、明治維新までに出版した書目は二十数種に及ぶと言う。これらの出版書は実費で配られ、江戸書肆からの受注もあって数多く販売された。玉山講義附録・二程治教録・伊洛三子伝心録は藩祖正之公の編著三部書として特に尊重され、後には京都にて鋟刻されている。会津藩の蔵版印影で分ったのは日新館蔵書印、会津藩蔵版、会津藩蔵版縦印と会津秘府の四種。会津秘府が藩公の文庫印というのも疑問が残る。

 

 

蔵書印は「書物の所蔵を明らかにするため蔵書に判した印影、またその印形」とか「書物の所有者が所蔵の本に押印して所有をあらわす印章」と辞書にある。藩侯個人の文庫本であれば歴代藩主個々の印記や印文がまったく無い事、それに会津秘府印は81.6mm×82.3mmとかなり大きい。例外もあるだろうが、大名や文人が使用していたものは、蔵書印をむやみに捺して書籍を汚すことをしない。蔵書印を捺したとしても非常に小さな印を目立たないように控えめに捺したものが多いようにおもえる。秘府という語彙も印影もなかなか見つからなかったが、松前廣長が編纂した松前藩の正史に「福山秘府」があり、新編蔵書印譜に柳原家の「日野柳原秘府図書」「日野柳原秘府得朋記之印」等、僅かしか見つける事が出来なかった。

 

小倉藩校印          尾張洋学館印

 

県立図書館郷土資料福島の蔵書印では、わざわざ京都府立総合資料館所蔵本に捺されている日新館蔵書印を紹介、平成13年発行の新編蔵書印譜も京都本を使用して日新館蔵書印を紹介している。会津図書館の飯岡七郎寄贈本に「従道」とあった。まさか「じゅうどう」と呼ぶ西郷従道だったらびっくり! 若松県図書印のある詩経世本古義や所有している日新館蔵版四書集註にも捺されている雷神みたいな朱陽刻印は何を意味しているのだろう。(右、若松県図書印)

 

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訃報 工学博士大竹多気

2011-06-17 | 掃苔

「桐生高等染織学校兼特許局技師従三位勲二等工学博士大竹多気儀永永病気之処療養不相叶本日薨去致候」と大正七年七月二十日付東京朝日新聞に広告が掲載された。

大竹虎雄、大竹千里、親戚総代に松田精介、松田壽三郎、松田甲、江副隆一、原田金次郎、友人総代に工学博士高野豊吉、工学博士真野文二、米沢高等工業学校下山秀久、工学博士桐生高等染織学校長西田博太郎の名が記載されている。

同紙には「染織界に得難い人」との題で「先生には道楽と云ふ様な事は少しもなかったが強て云へば学問の研究が道楽で随分多くの書を読破された、そして如何なる点にも朱線を引いて詳細に批評をして居られた留学当時から英国の教授連に認められ、帰朝後も故人となったヨークシャ―カレッジのハンメル教授などは始終手紙を寄せていた、現に同校の教授で有名なボーモンド氏とは同級生で親交深く常に音信を絶たぬ間柄である、先生は平生極めて謹厳で頗る真面目な顔をして居られたが時々刺す様な皮肉な諧謔を言って人々を驚かせた、又却々の名文家で弁も頗る達者であった而して哲理にも造詣深く常に自ら精気療法を行って居られたが健康上與って力があった様に思われる先生は実に斯界に得難い人で年と共に間熟の境に入て漸く何事も意の如くなり得る様になり最近は独り染繊許りでなくあらゆる織緯に関する科を設けて学校を一層完備せしめんと其準備も終り議会にも提出する運びに到達し非常に喜んで居られたのであるが今回他界されたのは返す返すも残念である」と西田博士の談話を掲載している。

会津会々報の編集者荘田三平は大竹多気について温厚にして謹直、演説文章に長ず、業余文学を有し、時に和歌を詠ず、と紹介した。博士は原田銀蔵二女良子と明治二十五年十一月に結婚、その四ヶ月後に桜の歌詩を集めた「新編桜花集」を編纂している。この歌集には「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」と詠んだ源義家の武者姿が始めにあった。八幡太郎源義家が前九年役合戦の折、陸奥国勿来の関(福島県いわき市勿来町)を通り掛った時に花が散り積もるのを詠んだ歌で、この歌集の名は作者不詳の漢詩「櫻花詞」から名付けたのではないだろうか。題詠は文学博士黒川真頼によるものです。

「櫻花詞」

薄命能伸旬日壽 納言姓字冒此花 零丁借宿平忠度 吟詠怨風源義家

滋賀浦荒翻暖雪 奈良都古簇紅霞 南朝天子今何在 欲望芳山路更賖

 

遺什中三首(会津会々報告十三号から)

帰故郷

錦きて帰らぬ我はふるさとの 紅葉見るさへはつかしきかな

東山観月

東山やまのかひよりさしのほる 月はむかしの光りなりけり

若松故城址

そのかみのうらみも深く紅の ちしほ染め出す城のもみち葉

 

群馬大学工学部同窓記念会館に大竹博士の歌が飾られていた。

大正七年三月 帝国大学病院病室にて

病中作

かかるとき人の誠を知られける 常には見えぬ心なれとも

待花

心あらは花また咲うぬ昨日今日 はる風は吹け春雨はふれ

尽人事而待天命

くれ無の直なる道をふみて来て 身のす未は神のまにまに

 

大竹博士の長男虎雄は大蔵官僚、退官後は東京市財務局長も勤める。次男千里は巴里で病死、娘暢子はフルベッキ写真で以前岩倉具経と間違われていた佐賀藩士江副廉蔵の長男隆一に嫁いだ。港区白金三光町に虎雄が大正十一年頃建てた別邸に一時、江副一家が住んだとも言われている。青山墓外人墓地にあるフルベッキの墓の隣のブロックに大竹家、その後ろのブロックに江副家の墓域があった。

 

 

江副家墓域

 

 

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京都会津会第106回法要

2011-06-13 | 會津

京都会津会は、会津と関わりの深い京都に於ける先人の遺徳をしのび、会津の歴史と文化を直視し、そのよき伝統を受け継ぎながら郷土の発展に寄与することを目的とし、併せて会員相互の親睦を図るものとして、明治三十八年に発足、その事務所を戒光明寺境内「紫雲石西雲院」に置き、今年は6月12日に106回の会津藩殉難者慰霊法要が行われた。

  

今年も来賓として京都新選組同好会の方々に参列して頂いた。法要焼香で進行役の方が京都新撰組土方歳三こと誰々と昨年と同じく紹介していた。昨年はあまり感じなかったが、紹介の呼名に違和感を覚えた。この京都新選組同好会の方々は、他の新選組同好会と違って所作もきちっとしており好感を持っているが、紹介の仕方に問題があるのだろう。各地に色々な歴史の団体がある。その中では歴史上有名な人物の名をハンドルネームとして使用している処も多く、仲間内では通称名で呼びあっても何の問題も無いが、作家などのペンネームと違い公式の場で使われることは殆ど無く、またあり得ないと考えている。

 

 

今回の法要で、会津若松市長としては最後の挨拶になるであろう管家一郎氏の東日本大震災に対する思いは胸を打たれるものがあった。今年は直会のお弁当が何時もと違った。この差額も義援金としてお届けするという。これは良いアイデアだと感心する。

 

 法要の席で飯盛山にある「白虎隊殉難詞碑」の題字部分の容保公の掛け軸が披露された。真筆かどうかは判らないが書体は同じで、西雲院で保管するということであった。

 

 西雲院所有の和歌等から

  

左 若松旧家の所有本より      右 浦賀旧家の和歌より

 

 

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桐生高等染織学校長 大竹多気

2011-06-10 | 會津

群馬では明治三十二年当時から織都桐生に繊維関係の高等教育機関をという願いから高等学校の設置を要望、やっと明治四十四年、第二十七回帝国議会にて学校設立の議決がなされたが財政上の理由により執行されなかった。明治四十五年、設立費金35萬円と敷地1万5千坪の寄贈条件により、ようやく大正四年文部省直轄諸学校官制が改正され桐生高等染織学校の設置が公布された。大正五年一月、米沢高等工業学校長兼特許局技師従四位勲二等工学博士大竹多気は桐生高等染織学校長兼任を命じられ、一月十九日には第一回入学生として色染科十五名紡織科二十五名の生徒の募集を開始し、四月十日第一回入学式及宣誓式を行い、翌十一日より授業を開始した。その後、桐生工業専門学校から、昭和二十四年には群馬大学工学部となり、昭和四十七年の新校舎建築時に大正五年の創立時に敷地中央に建てられた本館玄関の一部と講堂が、現在の正門入ってすく左手の場所に群馬大学工学部同窓記念会館として移築復元されている。旧桐生高等染織学校創立当時の門衛所も大学正門の守衛所として使用されている。

門衛所 群馬大学工学部同窓記念会館

 

  

創立時の設計青写真が百枚程残っているが劣化が心配されている。講堂と大竹多気博士肖像

    

この記念会館を入ってすぐ第一回入学式での大竹多気学校長の訓示がパネルに掲示されていた。会津の論客荘田三平は大竹多気について演説文章に長ずと褒めている。

大竹学校長訓示全文を記載した。

 

職員諸君及生徒諸子(大正五年四月十日)

桐生高等染織学校創立に當り、私が本学校最初の校長として今日第一回生徒入学式を挙行するの光栄を有するは、誠に欣幸の至りであります。本学校は、政府が、群馬県官民の希望を容れ、明治四十五年度の予算に初めて其創立費を計上して帝国議会の協賛を得、地を當桐生町に卜して建設したるものです。群馬県は、之が為め、敷地一萬五千坪と創立費金三十五萬円とを政府に寄附し尚二ヶ年の経常費をも負担して居るのであります。是等の事に就ての詳細は、後日本校創立に尽力せる群馬県の有力者諸氏を始め、朝野の貴賓を招待して開校式を挙げる時に報告する筈でありますから今日は略します。抑、両毛の地は、本邦有数の染織工業地でありますから染織専門の本校が當町に設置せられたるは敢て怪しむに足らず、本校の隆盛発展は疑を容れざる処であります。是然しながら、本校職員及生徒の行動如何に因るのでありますから、我等本校に職を奉ずるもの、及び本校に業を学ぶもの、何れも慎重に勤勉努力しなければならぬものであります、就中、創立の際此の学校に在るものは、寸毫の悪例をも後日に遣さざる様心掛なければならぬことと思ひます。諸君及諸子、大正五年四月十日は、桐生高等染織学校の歴史に於て最も重大なる意味を有する日の一であります。校舎未だ竣工せず、設備未だ完了せず、諸般の事務未だ整頓せずと雖も、世界の大乱に際し有為なる青年工業家を渇望歓迎する我邦工業界の現状は、本学校開設に対し一日の猶予をも許さぬのであります。されば、吾人職員は、暫く此の不完全なる設備に忍び、奮って其完全を謀らざる可からず。而して生徒は、彼「艱難汝に壁にす」と云へる古き諺あるを思ひ、勉強して学業を遂ぐべき覚悟を要するのであります。桐生高等染織学校の名誉は、善良なる校風に依って顕揚すべきである。而して、善良なる校風を振作することは、生徒職員及校長の共同なる責任に在るのであります。今回入学せる生徒諸子は、桐生高等染織学校第一回入学生徒と云へる光栄を有し、現在の職員諸君と私は、本校最初の職員及校長たる光栄を有するのでありますから、此光栄には、則ち前陳の如き責任が伴ふて居るのであります。希くは、私は、諸君及諸子と共に、永く此責任の重大なることを思ひ、大に桐生高等染織学校の名声を発揚せんことを切望致します。是より特に入学生諸子に一言します。余は前に、校舎未だ竣工せず、設備未だ完了せず、諸般の事務未だ整頓せずと述べたが、校舎の竣工は目前にあり、事務の整頓亦日々進行しつつあるのであるから、是等は共に憂ふるに足らぬのである。只設備の完全と云ふことに至っては、欧州戦乱の今日、其時期を豫期し得ぬのを遺憾とするのである。併しながら、諸子在学三年の後、本校卒業生として世に出すに方り、決して東京高等工業学校や京都高等工業学校の卒業生に劣るやうな事をせぬ覚悟であるから、諸子は安心して可なりである。如何に校舎が壮麗であるとも、如何に器具機械の設備が完全であるとも、教官其人を得ざれば、学校教育の価値は軽微と謂はねばならぬが、本校は此の点に就ては少しも懸念に及ばぬのである。本校の教官は孰れも学識立派なる人々であって、斯る優秀なる教官諸氏を本校に招致し得たるは、本校長の大に誇りとする所である。諸子宜しく心を強うすべきである。諸子は、本校の規定中、特に寄宿寮の規定に対し、或は厳格に過ぐるとか、窮屈であるとかの感を抱くかも知れぬが、校風未定の今日なれば、是れは止を得ぬことである。寛に失するよりは、寧ろ厳格に規定する方が安全であると思ふ。諸子の父兄も、亦之を希望することと信じる。況んや、當地には、随分、青年を堕落せしむべき誘惑物が少なからぬ認めらるるに於てをや。諸子は充分警戒を要するのである。諸子の多くは、是迄中学校の生徒であったのであるが、今回初めて高等実業専門学校の生徒となったのである。諸子が中学校に入学せる時は、中学を卒業してからの自己の職業に就ては何等考ヘ及ばなかったことと思ったものもあらう。政治家になりたいとか、或は文学者になりたいと思ったものもあらう。医師になりたいと思ったものもあらう。又は農業を修めたいと思ったものもあらう。した商業に従事したいと思ったものもあらう。然るに諸子は今回工業家を養成する処の本学校に入学したのである。諸子は本学校を卒業すれば工業家となるのである。是れが諸子が中学校に入学したる時の場合と今日の場合と非常なる差別であると思はなければならぬのである。諸子に一生涯の運命は今日を以て確定するものである。それから諸子の中には中学程度の工業学校より入学したものもある。是れは業に既に前学校在学中に其職業が決定して居たのであるから、今後本学校に於て益其本領を発揮せねばならぬのである。中学校依り入学せるものも、工業学校より入学せるものも、今回本学校に入学して本校生となる以上、本学校の教育綱領を格守し、決して本校の名誉を傷くる様の事あってはならぬのである。本校教育綱領とは即はち左の五ヶ條である。

一、教育に関する勅語並に戊申詔語の聖旨を奉体すべし

一、校規を守り師長を敬ひ学友を親愛すべし

一、学業を励み品行を慎み志操を高尚にすべし

一、身体を強壮にし精神を快活にし意志を鞏固にすべし

一、言責を重んじ廉恥を知り勇気を練るべし

入学生徒総代は誓詞を学校側に差し入れる厳しいものだった。

生等本校ヘ入学ノ上ハ謹ミテ校規命令ヲ尊奉シ品行ヲ正ウシ学業ヲ励ミ本校ノ恩徳ニ答ヘンコトヲ誓フ依テ茲ニ姓名ヲ自記ス

余談だが明治二十九年、現群馬大学教育学部(群馬県立尋常師範学校)に講談社創業者の野間清治が入学している。野間清治は飯野藩剣道師範森要蔵の娘ふゆと飯野藩士野間銀次郎の弟、好雄との子で野間銀次郎は箱根戦争参加後、脱藩者代表として自刃、森要蔵は戊辰会津白河の戦いで次男虎雄と共に戦死した。

米沢高等工業学校長 大竹多気

 

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米沢高等工業学校長 大竹多気

2011-06-06 | 會津

明治三十五年頃から山形県では県内官立工業専門学校の設置を切望していたが、仙台市に工業専門学校が設立の風聞も伝わり、明治三十九年九月、山形県知事より高等学校設置の要望書が提出され、米沢市は敷地二万坪の提供と四年間、継続して十万円寄付も申入れしてる。明治四十三年、文部省直轄諸学校官制を改正し高等工業学校七番目の米沢高等工業学校の設置を公布し明治四十三年五月、文部省視学官針塚長太郎を米沢高等工業学校事務取扱に任命して文部省実業学務局内に事務を開始した。

  

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A03020837900

明治四十三年六月、針塚長太郎に代り同年五月に千住製絨所を退職した東北帝国大学農科大学教授大竹多気を米沢高等工業学校事務取扱に任命、同年八月に米沢と東京二箇所で入学試験を行った。第一回入学を許された者は応用化学科二十五名、染織色染分科五名、機織分科十五名計四十五名(福島県人は、松井真、大高愿、半野貞義の三名)だった。同年十月一日、入学式を挙行、式後直ちに授業が開始された。米沢工業会誌によくこの学校のことが記載されている。この会誌によれば実際は3日より授業が行われたという。 (創立当時の米沢高等工業学校建物図 )

明治四十四年四月第二回入学を許可された者は、応用化学科二十名、染織色染分科六名、機織分科十四名計四十名、この年の八月、東北帝国大学農科大学教授兼特許局技師正五位勲三等工学博士大竹多気は米沢高等工業学校長に任命された。大竹校長は、米沢地方は工業が盛んな割には大規模な工場がなく、大阪東京では生徒が学科の余暇を利用して実地に研究する便宜があるが、こちらではそのような便宜がなく、学校の方で出来るだけ大仕掛の機械を購入して生徒に実習させ、他の優秀な高工に負けないようにさせたいとの抱負を述べている。ところが大正三,四年に、群馬県桐生で県立織物学校を国に移管して官立の高等染織学校の設立運動が起こり、大正四年、米沢の色染、紡織両科の桐生移転問題が起きたが、米沢市の猛烈な反対運動により、この移転問題は沙汰止みとなっている。

 

大竹校長の「軽佻浮華は都人土の事なり。都門を隔つること遠き米沢なる我が学校の最大なる長所は此の無垢真摯の点にあり、勤勉忠実は我が学校の特色也、我が学校出身者の生命なり。本校出身者にして怠惰放逸なる者は其の死骸なり」という教えは、米沢の持つ素朴な地域性と相まって本学学風の中核となっているという。大正四年一月、大竹米沢工業学校長兼任のまま桐生高等染織学校長に就任する。米沢高等工業学校はその後、米沢工業専門学校と改称され、昭和二十四年に国立山形大学工学部となった。

(旧米沢高等工業学校本館 現国立山形大学工学部)

 

山形大学工学部50年史記載の北海道技術士センター初代会長、石山 禎宣氏(機械科)の思い出によれば「先生は米沢で大正二年には下宿生活をしておられましたので、毎週日曜には御訪ねしました。和服に袴で、常に端坐しておられ犯し難い態度でありましたが、それでも生徒等は常に親しんで訪問しました」、窪島誠二氏は先生の風采について「色の浅黒い、小柄な、眼光の鋭い、一見近寄りがたき威厳を持っておられ、強度の近視眼鏡よりギョロリと睨まれると気の弱い生徒などは一すくみという感じを与える先生でした。厳格そのものの如き感じの反面非常に打ち解けた、いわゆる話せる人でした」と大竹先生について回想している。

                           千住製絨所所長 大竹多気

                                   

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千住製絨所長 工学博士大竹多気

2011-06-01 | 會津

千住製絨所せいじゅうしょ)は明治十二年(1879)、それまで西洋から輸入していた羅紗を内地品で製造するため内務省管轄工場として操業明治十四年農商務省管理となる。同十五年に民間への払下げの話もあったが支払い条件で折合いが付かなかった。同二十一年七月、千住製絨所は陸軍大臣の管理に属し陸軍所用の絨類製造所となり、下士以下の被服及び毛布等を一手に供給するようになる。この千住製絨所の五代目所長になったのが千住製絨所技師だった大竹多気博士でした。大竹多気は文久二年、旧会津藩士松田俊蔵の四男として北海道渡島国上磯郡に生まれで幼名は竹四郎と称し、慶応三年、旧会津藩士大竹作右衛門の養嗣子となり、多喜四郎(多気?)と改め、さらに明治十四年に多気と改名した。明治三年頃、東京で英語、数学を学び、工部大学校機械化に入学、五期生として明治十六年に次席卒業、二期先輩の三期生に機械学会創設者の真野文二、同期には日本土木史の父と言われ東京石川島造船所社長となった渡邊嘉一、近藤真琴長男で海軍造船中将近藤基樹らがいる。真野文二は大正二年、二度目の東京帝国大学総長に転任した旧会津藩士山川健次郎から九州帝国大学総長を引継いでいる。大竹多気は工部大学校卒業後の十八年、旧会津藩士関場忠武が農務局農書編纂掛兼勤として在官していた農商務省から製絨研究のため三年の予定で欧州留学、明治二十二年十二月帰朝、二十三年一月に陸軍千住製絨所に技師試補として入所、留学先のヨークシャー大学で高等染色術と織物部を首席で終了しているため明治二十三年二月一日付で千住製絨所技師相當の資格者として認定されている。

同年、七月には東京工業学校で毎週二時間の授業を嘱託され、明治二十五年十一月に原田銀蔵二女の良子と結婚している。明治三十年には短期だったが帝国大学工科大学で講師を務め、三十二年には豪州に派遣され、その後カーキ色染料について研究を始め、三十四年八月、工学博士学位を取得し、翌年の三十五年千住製絨所長に就任した。

(初期の工場図、写真は北東から写したもの)

  

 明治三十八年出版された男女就職案内に千住製絨所の記載があった。

 本所は陸軍省の経営されて居る所で、戦争の今日沢山の職工を使っています。当分は何程でも欠員はあり、かつ永く辛抱して手に職を覚えようと思う方は進んで入るがよいと宣伝している。採用するか否かは体格検査の上で一昨年頃迄はなかなか難しくあったが昨今は人員の足りぬ折柄、少し位不満足な所があっても取ってくれる。給料の支払日は何処の工場でも多くは月末だのに、同所は職工の便宜を計って、月十二日と二十七日の二度に渡してくれる。給料は最初日給二十八銭だが、一ヶ月過ぎると三十三銭になり、時間外と成績によって月二十円は大丈夫と宣伝している。明治二十六年、陸軍所属特別文官の千住製絨所長の年給が二千円、同じ文官の陸軍監獄長の八百円と比べると破格の扱いとなっている。大竹多気は明治四十三年五月、千住製絨所を退職して四十四年七月まで米沢高等学校長事務取扱として東北帝国大学農科大学に籍をおいている。千住製絨所は昭和二十年の敗戦により一切の操業を停止、土地建物併せて民間に売却され、東京スタジアム等に使われた。現在は荒川総合スポーツセンター、南千住警察、都立荒川工業学校となっている。都立荒川工業高校の西側(千住若宮神社前)と近くの大型ス―パーの東側に煉瓦製の壁が僅かに現存していた。

 

(スーパー東側)

 

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