大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

加賀八家墓所 野田山

2016-06-29 | 掃苔

加賀藩の職制は大雑把に人持組頭、人持組、平士、与力、御歩、足軽とに分かれるという。金沢市のH・Pに「加賀藩では、元禄3年(1690年)以降、8つの家柄が藩の重役である年寄衆を代々世襲しました。これを八家(はっか)といい、家臣の中でも別格の扱いとされ、月交代で藩の執政を担当、重要事項の決定には合議制をしきました」とあった。日置謙が前田家からの依頼で編纂した加賀藩の編年史料集、加賀藩史料に貞享三年(1686)、五代藩主綱紀は老臣の職名を定めたとある。「大年寄或云大老 本多安房政長 前田佐渡孝貞 奥村壱岐庸禮 奥村伊予時成。人持組頭或云七手頭 前田備後直作 長九郎左衛門尚連 横山左衛門英盛、年寄役或云家老 横山筑後正房 津田玄蕃正忠 奥村因幡悳輝。若年寄 前田対馬孝行 前田備前直親 多賀新左衛門直方。備後並は人持組頭、又は七手之頭中と御目通に而可申候。尤人持組頭又は七手之頭と申事は、安房・佐渡・壱岐・伊予・備後・九郎左衛門・左衛門、此七人之義により、其内安房並に七手之頭より大年寄相兼申義に候」とある。

本多政長、前田孝貞、奥村康礼、奥村時成、前田直作、長尚連、横山英盛の七手頭に村井豊後親長を加えたのが加賀八家で、藩主から諮問を受ける合議機関だという。貞享三年の定めによる、人持組頭七人に村井家を加え加賀八家と呼ばれたのは、何時の時代からだったのだろうか。金沢市史では八家の成立を、村井親長が人持組頭兼家老に就いた元禄三年(1690)としている。しかし正徳三年(1713)、藩主綱紀が定めた老臣の班列は、本多政長、前田直之、長 連頼、横山忠次、前田孝貞、奥村栄清、奥村庸禮の座列となっていて、村井家は入っていない。この村井家は慶長期に村井長頼の子長次が前田利家の七女(千世)を正室として迎えているので別格の家柄なのだろうか。村井氏由緒に「天正十九年(1591)、村井長頼従五位に叙せられ、諸大夫となり、名を豊後守に改め、人持組頭、御政務之御用相勤」とある。人持組頭兼家老が世襲制になったのは何時からなのだろうか。

八家墓所のうち野田山墓所の上野地区に村井家、奥村支家、芝山地区に長家、中割地区に横山家、奥村宗家、前田家(直之系)で本多家(筆頭家老)は野田山麓の大乗寺、前田家(長種系)は野町の玉龍寺、長家は野町の開禅寺が七・八・九代の墓所になっている。野田山の前田家墓所の造成拡大に伴い、加賀八家の墳墓の規模の変更や改葬が行われたものと思われる。野田山にある加賀八家の墓所すべては時間とクマの出没に怯えながらで廻れなかったが、村井家と奥村支家の墓所は廻れた。村井家の墓所の入口が分からなかったが、たまたま入り込んだ場所が村井家の墓所だった。
村井又兵衛豊後守平長頼

村井家の初代又兵衛長頼は鎧・兜の甲冑姿で江戸の方向を睨みながら立ったまま埋葬されたと伝わる。
奥村支家墓所入口にある亀趺(初代永福顕彰碑)
 
奥村快心居士之碑 撰文は二代前田利常に仕えた木下順庵
 
笠に四角い方穿があり、蓑亀みたいに苔が付いていたが、牙や尻尾はなかった。寛永十三年(1636)建立で現存する亀趺のなかでは古い方にあたる。
  

加賀八家墓所 大乗寺・開禅寺・玉龍寺

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金沢野田山前田家墓所

2016-06-23 | 掃苔

北陸新幹線が開通してから1年経った。少しは落ち着いたかと思っていたら、案の定6・7割の乗車で結構富山駅で降りる客も多かった。小田原からだと3時間30分ほどで金沢駅に着く。駅前の広場に鼓を二張立てたような巨大なモニュメントがあった。何のためにあるのか判らなかったが外国人に混ざって写真を撮る。昼に着いたので構内にあった加賀屋(金沢店)で、ランチは加賀屋創立110周年記念メニュ―だという「加賀屋御膳」。料理は大したことなかったが、店員さんの古風と云うかユニークな制帽姿にびっくりする。
 
 
昼過ぎから加賀前田家の墓所のある野田山にいく。金沢は3・40年前に来たことがあるが、全く記憶がない。タクシーを時間借りして野田山に行って貰った。長い間、運転手をしているが、野田山の前田家墓所に案内するのは2度目で、お客さん変わっているねと言われてしまった。道の途中、墓地駐車場にクマ出没を知らせる看板が到る所にあり、聞くとよくクマを目撃 する場所だという。墓所に運転手の方が棒を持って付いてきてくれた。
加賀前田家、江戸時代の菩提寺は下谷広徳寺(今練馬)、駒込長元寺、明治になって西日暮里の道灌山南端(今の西日暮里公園)が前田家の墓地になっていた。広徳寺の前田家の墓は関東大震災の区画整理で大正十四年、寺が下谷から練馬に移転時、野田山に改葬された。加州侯五代吉徳母随玄院が開基の長元寺にはまだ一部前田家家紋の入った墓碑が残っている。西日暮里公園の場所は明治七年に加賀前田家にこの地が売却され、前田家の墓地として改修されたが、昭和四十七年に金沢野田山前田家墓所に改葬し、その跡を公園とした。
台東区役所横・広徳寺遺趾      練馬広徳寺
 
右・広徳寺会津松平家墓所
 
駒込長元寺
 
   
荒川西日暮里公園
 
 
二代藩主利長は越中高岡、四代藩主光高と九代藩主重靖は当初、金沢市内の天徳院に葬られたが昭和二十年代に天徳院から野田山へと改葬され、現在、全ての加賀藩主の墓は野田山の前田家墓所にあるという。
野田山の前田家墓所は天正十五年(1587)、前田利家の兄利久をいづみ野迄野おくりしたことに始まる。いづみ野が何所だか特定されていないが、利久の改葬記録が無い事から泉野が野田山の別名ではないかとも考えられている。前田利家の「長持に入、加賀え下し野田山に墓をつかせ」との遺言により慶長四年(1599)、野田山に利家は埋葬された。
藩祖 利家公(左)     藩祖正室 芳春院(右)
 
 
 
前田家一族は始め土饅頭の墳墓として埋葬されていたが、明治七年(1874)前田家の祭祀が神式に改められ、廟所の廟堂を取除き、藩主墓の入口には鳥居、その奥に塚を築き、その前に碑石が建てられている。ここ野田山に大正になって下谷円満山広徳寺の前田家墓所にあった会津保科正之の娘で加賀藩五代藩主綱紀室となった松(松嶺院殿信嶽宗正大禅定尼)、会津保科正容娘で加賀藩七代藩主宗辰室となった常(梅園院殿心操紹源大姉)の墓が改葬されている。
五代 綱紀公(左)     綱紀公正室松嶺院(右) 
 
七代 宗辰公(左)     宗辰公正室梅園院(右)
 
二代 利長公(左)  利家公娘宇喜多秀家室 豪・樹正院(右)
 
山側環状道路22号からの前田家墓所への参道途中の東側と前田家墓所北側を囲むように加賀八家墓所が点在している。今回は体力と時間の関係ですべて廻れなかったのは残念だった。

 

加賀八家墓所(野田山・大乗寺・開禅寺・玉龍寺)

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杉田間宮氏

2016-06-18 | 掃苔

佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜によると始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕えた。間宮本家の間宮信冬、信盛父子は北条早雲に仕え、信盛の子信元は氏綱に仕え、その子康俊は玉縄北條の家老として武蔵國久良岐郡笹下城主となり、間宮氏は北條家に仕えた。北條家滅亡後、一族は徳川家の旗本として仕え、康俊の娘お久(華陽院)は徳川家康の側室になっている。千島・西蝦夷・樺太を探検した間宮林蔵の家系は、はっきりしないが、康俊の子傳右衛門元重の八代頼名が林蔵を名乗っているので、この一族ではないだろうか。

北條氏所領役帳に玉縄衆間宮豊前守都合六百九拾八貫百弐拾弐文の内、久良岐郡杉田参百貫文とあり、久良岐郡杉田は間宮氏の知行地であった。新編武蔵風土記稿に「杉田村は正保元禄二図は寺家村と記す杉田は古名にて妙法寺大寺なりし故中頃寺家と号し今古名に復せり彼寺縁起に古此地杉多し故に杉田の名起れり」という。風土記稿は杉田村の陣屋蹟として「間宮左衛門尉信次(或は常信に作る)以来世々の陣屋なりと云傳ふ、家譜に拠るに信次は豊前守信盛が二男にて北條氏綱及び氏康に仕ふ、天文十五年八月二十七日相州三浦走水に於て戦死す法名法西、妙法寺に墳墓あり其子左衛門尉信忠初め藤太郎と稱す氏康及び氏政に仕ふ云々」とあり、北條五世に間宮氏は仕え小田原没落後、一族は御家人となり二十一家の多きに至っている。

JR新杉田駅の近くにある間宮氏の菩提寺、妙法寺を訪ねた。
 
 
妙法寺は風土記稿によると「法華宗下総国中山法華経寺末牛頭山と号し開山は日祐上人開基妙法日荷上人此僧俗たりし時荒井次郎光善と称し後又因幡大掾と改む云々、文和元年(1352)当寺を起立す」とある。荒井次郎因幡守光善の子孫、源左衛門威忠は天正十八年東照宮に仕え、間宮左衛門信繁に属した。新編武蔵風土記稿は「子孫江戸に移り今の代官職荒井平兵衛保恵が祖なり」と云う。会津藩士山本権八の娘八重が嫁いだ新島襄の母とみ(旧姓中田)が十四歳のとき、行儀見習いのため腰元奉公に上がったのが小川町神保小路の荒井平兵衛(信州中之条御代官)で、この幕臣荒井平兵衛の遠祖が妙法寺開基妙法日荷上人(荒井次郎光善)という事になる。

間宮氏一族でも妙法寺を菩提寺としているのは、間宮豊前守信盛の二男、左衛門尉信次一族で信次(法名法西)・信忠(日法)・信繁(日縁)・信之(日諦)・信勝(日賢)・信久(日誠)・敦信(日了)・信勝(日登)と継く。妙法寺の間宮家の墓域は二ヶ所にわかれていて、寺庭にある杉田梅林之碑傍の日本武尊ゆかりの牛頭天王殿への石段を上り三十番神堂の右手奥に一列に並んでいる。
 
 
神堂の横の墓域に二基の宝篋印塔があり、一基は塔身の日附けから間宮信之(日諦)、もう一基の宝篋印塔には施主と入っていることから、この二基の宝篋印塔は供養塔なのか墓塔なのか判らなかった。
 
          
この墓域から北側奥(本堂左手上)に間宮家の墓域があった。いずれも家紋は角四目結紋であった
 
帰り、背に銘を刻まれている珍しい和様狛犬がある杉田神社に寄る。
 
  

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間宮杉田氏

2016-06-11 | その他

会津藩藩祖保科正之の母方の祖父母は元北條氏家臣神尾伊予と杉田氏女、祖父の神尾氏も北條家臣団のどの神尾氏だか特定できないでいた。それではと夫が北條家臣なら妻の実家杉田家も北條家家臣ではないかと探し始めた。北條家家臣団には小河内衆杉田氏と間宮豊前守信高同心衆の久良岐部杉田邑杉田氏がいた。たまたま小河内衆杉田氏の在所、奥多摩川野村に保科正之生母お静の方の院号と同じ浄光院と云うお寺があるのを見つけて奥多摩を最初に訪ねた。ここで川野村の杉田氏と杉田邑の杉田氏が同族だと学校の先生が言っていたと聞いたが、桓武平氏三浦党多々良氏流の川野村杉田氏と佐々木氏流近江源氏流の杉田邑杉田氏を結び付けるのは、話が遠いような気がするがどうであろう。
「蘭学事始」を著した杉田玄白の孫、杉田成卿が「遠祖の墓」とした杉田長安の墓がある川崎菅田の長安寺を訪ねる。長安寺のH・Pに「小田原北条氏の家臣であった間宮長安は杉田玄白の遠祖で、過去帳によると武蔵国久良岐郡杉田郷(横浜市磯子区)に生まれているとあります。永禄二年(1559)の『小田原衆所領帳』には、杉田郷の領主は間宮豊前守とあり、その間宮一族であった長安は、下菅生村に転じたあと杉田姓に改めてこの寺の再興に尽くしたそうです。慶長17(1612)年11月28日に90歳で没し、境内にある墓石には法名の法林院釈氏浄安の文字が刻まれている。江戸時代に入ってから、この長安の法名をとって山号を法林山としたそうです」とある。佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜に始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕え、信盛子信元孫の信高に仕えたのが杉田長安の父真野新左衛門信安で、信安の妻は行方弾正左衛門の娘、行方氏も間宮氏も同じ小机衆として『小田原衆所領帳』に名がある。杉田長安は北条氏滅亡の後は諸国を転々とし、文禄三年(1594)に旧領の杉田村に戻り、このころ姓を杉田氏と改めたのではないだろうか。その後、橘樹郡菅生に移り、無住の寺を自らの名を冠して法林山長安寺とし、慶長十七年(1612)この地において没したという。
 
 
長安寺は矢取坂を通る鎌倉古道に面しており、成卿が「遠祖の墓」とよんだ長安の墓は、本堂の真後ろにあり、正面には「法林院□□浄安大比丘」の法名、左側面には「杉田生 俗名 杉田門殿次良長安」と刻まれている。家紋を確認することは出来なかったが、この長安寺に多くの杉田氏の墓がある。これは三代目忠安長子でこの地に居ついた伝左衛門一族と思われ、いずれも柏紋だった。
 
      
杉田長安を初代として六代目に当たるのが、蘭学医の杉田玄白で、東京の別名猿寺と弥ばれる愛宕栄閑院にある玄白の墓にあったのは鶴丸紋で、これは長安の養子に入った五兵衛忠元の実家の森家に家紋が鶴丸紋を使用していたからとも言われている。
 
 
本家の間宮氏はほとんど四目結紋だが鶴丸紋を使用している一族もあり、また佐々木高秀六男多田満秀の後胤、忠吉が杉田を称し、家紋を鶴丸、四目結を使用している。結局、杉田長安がどんな家紋を使用していたか解らなかった。

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