すさまじい歌があった。
むくゆへき時はこの時国のためしねや直道しねや直道
(報ゆへき時は此の時国の為死ねや直道死ねや直道)
この歌は会津藩士小川傳吾(斗南後清流、号紫蘇園)が残した歌集
「紫蘇の落穂」にある歌で、長男直道(後、亮)が白虎寄合一番隊
として越後口に出陣した時、公用で日光口から会津に戻った父親が、
「愚息直道が越路の軍にいてたつ折」と息子に送った歌。
白虎士中二番隊飯沼貞吉が出陣のとき、母の文子が息子貞吉に、
如何に鉄砲玉がはげしく来ても、逃げてはならんぞと励ました歌が
「梓弓向う矢さきはしげくとも引きな返しそ武士の道」。
同じ送り出すのでも、「死ね」と「逃げるな」とではだいぶ差がある。
戊辰後、会津藩士秋月悌次郎は越後にいた長州藩士奥平謙輔を訪ね、
藩主の助命や藩士の将来について頼むと共に、書生二人の世話を依頼した。
この若者が山川健次郎と小川亮。秋月一行が越後の帰り鹽川に謹慎していた
小川亮を加え、この帰路束松峠で秋月が作った七言古詩が北越潜行詩。
行無輿兮帰無家 國破孤城乱雀鴉
治不奏功戦無略 微臣有罪復何嗟
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城
思之思之夕達晨 憂満胸臆涙沾巾
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親
この後、二人は越後、佐渡、東京、再び越後と転々とするが、
明治三年十一月、小川亮は萩に戻った奥平謙輔を訪ねる。
此の時、亮(直道)の父親清流が「国みたれし後直道かみそかなる仰事
うけたまはりて佐渡の国より長門路かけて出たつ折」と読んだ歌が、
うら傳へ捨はん浪の白玉にひかりそはすは帰るなよゆめ
萩に滞留を許されなかった亮は、八年陸軍士官学校に入り、十年九月
工兵少尉任、その後、陸軍近衛工兵大佐まで累進する。
明治三十四年病没、墓碑は東京青山墓地にある。
参考
小川亮少佐昇進の時の伝達電報(アジア歴史資料センター資料より)
「真鍋軍事内局長発大生大佐宛、 工兵第五大隊長斉藤政義、
近衛工兵大隊小川亮の二名工兵少佐に任ぜらる」
「明治二十八年四月十五日午前一時五分発十六日午前九時十五分着
工兵第五大隊工兵少佐斉藤政義近衛工兵大隊長小川亮ノ二名去ル十三日
工兵少佐ニ任ゼラル本人共ヘ伝達頼ム 大本営真鍋軍事内局長 大生大佐]
むくゆへき時はこの時国のためしねや直道しねや直道
(報ゆへき時は此の時国の為死ねや直道死ねや直道)
この歌は会津藩士小川傳吾(斗南後清流、号紫蘇園)が残した歌集
「紫蘇の落穂」にある歌で、長男直道(後、亮)が白虎寄合一番隊
として越後口に出陣した時、公用で日光口から会津に戻った父親が、
「愚息直道が越路の軍にいてたつ折」と息子に送った歌。
白虎士中二番隊飯沼貞吉が出陣のとき、母の文子が息子貞吉に、
如何に鉄砲玉がはげしく来ても、逃げてはならんぞと励ました歌が
「梓弓向う矢さきはしげくとも引きな返しそ武士の道」。
同じ送り出すのでも、「死ね」と「逃げるな」とではだいぶ差がある。
戊辰後、会津藩士秋月悌次郎は越後にいた長州藩士奥平謙輔を訪ね、
藩主の助命や藩士の将来について頼むと共に、書生二人の世話を依頼した。
この若者が山川健次郎と小川亮。秋月一行が越後の帰り鹽川に謹慎していた
小川亮を加え、この帰路束松峠で秋月が作った七言古詩が北越潜行詩。
行無輿兮帰無家 國破孤城乱雀鴉
治不奏功戦無略 微臣有罪復何嗟
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城
思之思之夕達晨 憂満胸臆涙沾巾
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親
この後、二人は越後、佐渡、東京、再び越後と転々とするが、
明治三年十一月、小川亮は萩に戻った奥平謙輔を訪ねる。
此の時、亮(直道)の父親清流が「国みたれし後直道かみそかなる仰事
うけたまはりて佐渡の国より長門路かけて出たつ折」と読んだ歌が、
うら傳へ捨はん浪の白玉にひかりそはすは帰るなよゆめ
萩に滞留を許されなかった亮は、八年陸軍士官学校に入り、十年九月
工兵少尉任、その後、陸軍近衛工兵大佐まで累進する。
明治三十四年病没、墓碑は東京青山墓地にある。
参考
小川亮少佐昇進の時の伝達電報(アジア歴史資料センター資料より)
「真鍋軍事内局長発大生大佐宛、 工兵第五大隊長斉藤政義、
近衛工兵大隊小川亮の二名工兵少佐に任ぜらる」
「明治二十八年四月十五日午前一時五分発十六日午前九時十五分着
工兵第五大隊工兵少佐斉藤政義近衛工兵大隊長小川亮ノ二名去ル十三日
工兵少佐ニ任ゼラル本人共ヘ伝達頼ム 大本営真鍋軍事内局長 大生大佐]