大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

死ねや直道 死ねや直道

2010-02-16 | 會津
すさまじい歌があった。
むくゆへき時はこの時国のためしねや直道しねや直道
(報ゆへき時は此の時国の為死ねや直道死ねや直道)

この歌は会津藩士小川傳吾(斗南後清流、号紫蘇園)が残した歌集
「紫蘇の落穂」にある歌で、長男直道(後、亮)が白虎寄合一番隊
として越後口に出陣した時、公用で日光口から会津に戻った父親が、
「愚息直道が越路の軍にいてたつ折」と息子に送った歌。

白虎士中二番隊飯沼貞吉が出陣のとき、母の文子が息子貞吉に、
如何に鉄砲玉がはげしく来ても、逃げてはならんぞと励ました歌が
「梓弓向う矢さきはしげくとも引きな返しそ武士の道」。
同じ送り出すのでも、「死ね」と「逃げるな」とではだいぶ差がある。

戊辰後、会津藩士秋月悌次郎は越後にいた長州藩士奥平謙輔を訪ね、
藩主の助命や藩士の将来について頼むと共に、書生二人の世話を依頼した。
この若者が山川健次郎と小川亮。秋月一行が越後の帰り鹽川に謹慎していた
小川亮を加え、この帰路束松峠で秋月が作った七言古詩が北越潜行詩。

行無輿兮帰無家 國破孤城乱雀鴉 
治不奏功戦無略 微臣有罪復何嗟 
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠 
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城 
思之思之夕達晨 憂満胸臆涙沾巾 
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親 

この後、二人は越後、佐渡、東京、再び越後と転々とするが、
明治三年十一月、小川亮は萩に戻った奥平謙輔を訪ねる。
此の時、亮(直道)の父親清流が「国みたれし後直道かみそかなる仰事
うけたまはりて佐渡の国より長門路かけて出たつ折」と読んだ歌が、

うら傳へ捨はん浪の白玉にひかりそはすは帰るなよゆめ

萩に滞留を許されなかった亮は、八年陸軍士官学校に入り、十年九月
工兵少尉任、その後、陸軍近衛工兵大佐まで累進する。
明治三十四年病没、墓碑は東京青山墓地にある。

参考
小川亮少佐昇進の時の伝達電報(アジア歴史資料センター資料より)
「真鍋軍事内局長発大生大佐宛、 工兵第五大隊長斉藤政義、
近衛工兵大隊小川亮の二名工兵少佐に任ぜらる」



「明治二十八年四月十五日午前一時五分発十六日午前九時十五分着
工兵第五大隊工兵少佐斉藤政義近衛工兵大隊長小川亮ノ二名去ル十三日
工兵少佐ニ任ゼラル本人共ヘ伝達頼ム 大本営真鍋軍事内局長 大生大佐]

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松代藩士近藤民之助

2010-02-11 | その他
会津藩三代藩主松平正容によって元禄八年(1695)に整備された会津中街道
那須三斗小屋宿で、戊辰の時、会津藩と黒羽藩とで激しい戦いがあった。

明治四十四年、高林小学校南分校の田代音吉校長が三斗小屋地域の
古老から聞きとり纏め「三斗小屋誌」を書き残している。

毛筆で書かれた「三斗小屋誌」で現存しているのが、昭和五十九発行下野史談会
(田代家所蔵本)、平成十五年発行黒磯郷土史研究会(黒磯市立図書館所蔵本)、
高林尋常小学南校本(那須塩原市立穴沢小学校所蔵本)、三斗小屋温泉大黒屋
所蔵本の四冊だという。

三斗小屋での戦いで、住民に対する残酷凄惨な報復が行われた。
奇怪なのは同じ田代音吉著による「三斗小屋誌」に、報復を行った者が
黒羽藩士と幕兵二通りの記述があること。黒磯郷土史研究会発行分には
隊長会津藩士秋月登之助の家臣近藤民之助と名が載っている。

あるサイトに、この近藤民之助の墓碑が谷中霊園に在るというので訪ねてみた。

谷中霊園の墓碑は同じ近藤民之助でも、松代藩士近藤民之助の墓碑だった。
(墓文)
先考諱章康称民之助近藤氏世仕松代藩明治元年北征之役為藩監
軍兼参謀転戦越奥十月凱旋松代   朝廷特召西域慰軍労藩主亦
領賞典録七十八石以賞其功五年八月応微仕司法官二十三年歿仕
賜恩給金若干生文政九年正月二十八日歿明治二十九年十月三十
一日享年七十二有四年男三女   明治三十年十月 男衛謹識

太政官日誌明治紀元戊辰冬十月「会津方横田大助自殺ノ事」の記載がある。

十月廿三日松本藩届書写に「先月廿九日、奥州横田村庄屋善蔵、賊兵へ尽力
諜計ノ聞有之二付、、、本日二日右善蔵並組頭元蔵生捕」とあり、さらに「
奥州玉梨村ニ、会賊山内大学弟横田大助潜伏ノ聞有之趣、、、松代藩五人、
弊藩モ同様、一同玉梨村へ出張、所々及探索候処同村山中一ノ澤ト申所ニ、
横田大助、飯坂新内、小澤源蔵潜伏、大助、新内儀ハ自殺、新内儀ハ自殺致シ
懸候ヲ、取押候得共、深疵ニテ絶脉ニ及ヒ候」とある。

松代藩士近藤民之助が編纂したのが、戊辰戦闘日誌の「松代藩勤王事略私記」。

この松代藩勤王事略私記にも横田大助の記載があった。
「十月二日横田村ニ至リ名主某ヲ召捕来リ会議所ニ差出ス是ヨリ先キ一ノ澤ト
云フ所ヨリ二里程隔ッ山上ニ一軒屋アリ同所ニ先月廿四日ヨリ会藩山内大助
小沼源蔵外一人潜居ノ由ニ付又々達之アリ嶮路深雪ヲ冐シ窃ニ右家ニ至リ松本藩ト
(此召捕兵ハ五番小隊ヨリ五人松本藩ヨリ五人差出)共ニ四方ヲ取囲ミ戒心シテ
押入ル然ルニ已ニ三人共自盡ニ及ヒ倒居ル一人ハ未タ死セス然レトモ言説分ヲス
依テ直ニ斬首」とある。此時の松代藩兵の軍監兼参謀が近藤民之助だった。

横田大助(大佐)は山内大学(二百石)の弟、とんだところで奥会津の
戦国武将山ノ内氏と結びついてしまった。
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〆て金五百八拾一両弐朱也

2010-02-05 | 會津
戊辰鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂に集結した会津藩士は、
どうやって江戸藩邸まで引き上げたのだろうか。

{鳥羽伏見の戦いの発端地、小枝橋近くの鳥羽伏見戦跡碑}



会津戊辰戦史[山川健次郎監修]に、戊辰正月七日幕兵は午後より紀州に
赴き江戸に帰るべきの命あり、尚志[若年永井尚志]曰く、会津桑名の兵は
皆紀州より乗船して江戸に至るべし、己に和歌山藩に約する所ありと
(在阪の和歌山藩家老と交渉せしを云うなるべし)

{紀三井寺からの和歌浦}

 

会津松平家譜によれば「八日我兵大阪を発して紀州に入る、紀藩人を国境に
出して和歌山に入ることを拒み、加太の浦に行かしむ。時に我兵金穀欠乏す。
乃ち之を紀藩に謀る。遂に陸路大島に至り、其の地より海に航して三州吉田に
至る迄の旅費を負担せんことを求め其の許諾を得たり。また和歌浦に於て永井尚志、
小野廣胖に依りて旧幕府の金五千両を借りる」とある。

また、明治二十一年に記録された会津藩戦争日誌慶応四年正月七日から要約すると
「[大坂]八軒にて林隊と合兵し山川大蔵隊長となり」さらに「八ッ時頃より
[大坂城に]繰入る此時始て我君[容保公]供奉御立退の事を知り且江戸へ
引べきの君命の由を聞て」「八日一統東本願寺に会し、四ッ半頃出起惣殿[しんがり]の
堺に至て宿す、九日新舘、十日磯脇村、十二日由良港上陸小松原村、十五日午後
出起由良港、十七日出帆夕刻尾鷲港着、十九日出帆夕刻的矢ノ港着」このあと廿三日
上田傳治の尽力で幕府の蒸気船にて八ッ時品川沖に着、此の夜は品川駅に泊っている。

戊辰の後、四十六年後の大正三年、刊行された藤沢正啓「会津藩大砲隊戊辰戦記」に、
地名等克明に記録されている[内容は会津藩戦争日誌を土台としたと思われる]

「九日新館に宿陣す。紀州街道を幕府我が藩を始め桑名其他の大兵落ち行くを見て、
斯くの如き大兵を擁して二三回の会戦に大敗し退散するは時運とは言ながら遺憾も
極りなく涙を流して嘆息せざるものなし。十日、紀州領磯脇村に宿す。十一日磯脇村滞在。
磯脇村は海岸にして加田村に属し加田村には有名なる淡島神社あり。十二日小船に
分乗して対岸由良湊に上陸す。峠を越えて二里進小松原村に至り宿す。
一両日来山川隊長不快なりしも当所に来りの熱病の気味にて数日滞在治療の上帰東せらる。
十三日より十五日迄小松原滞在。十六日再び由良に戻り和船八百石積にて出帆。
十七日申の刻頃尾鷲湊着一泊。十八日滞在。十九日出帆夕刻志州的矢港着。
二十二日迄滞在。廿三日同所に機関修繕の為入港しありたる幕府の蒸気船長崎丸に
依頼し乗船して出帆することを得たり。組頭上田伝次の尽力による。
謝礼として船長に百金を贈る。二十四日品川上陸同所一泊」とある。

幕末、幕臣となった西周の自叙伝によれば、七日大坂から紀州に向かい、九日和歌山着、
十一日和歌浦に移動、十七日和歌浦から陸路、湯浅から十九日由良に到着、ここから幕府、
会津藩の傷兵と共に幕艦ヘルマン号に乗船、二十一日に江戸湾に着いている。

日高郡誌に、十二日五百四人の落武者が由良に上陸、[丸山鎮之丞が湯川町財部(御坊市)
の往生寺、山川浩は御坊小松原の中屋旅館(中吉旅館?)で療養]二十日比井港から船で
熊野に引揚げる。田辺要史串本町誌に十九日から二十日にかけて当地に会津藩落武者が
到着、芳養浦から伊勢に、串本から三州吉田に送り出したとある。この中には大野英馬、
南摩八之丞等の名が残されている。

紀州藩は朝廷への敗兵に関する報告とは異なり、会津藩兵を加太から由良に送り、
その後、庄屋らに敗兵への援助を指示し、会津藩兵、幕兵が紀藩を離れると敗兵の
探索を命じており、紀藩はギリギリの選択をしたことになる。

{紀州由良の町}



{九鬼と尾鷲の間の大曽根浦}



この間の出来事を示す和歌山の加太浦水主庄屋の記録が残っていた。
慶応四年辰正月
会津藩落武者当浦より紀州由良江乗舩之節書類并に同記帳
  加太浦水主庄屋 羽藤八郎兵衛



御乗船人数〆千八百五十八人但し一人前金一歩一朱

 

これは十一日から十四日にかけて加太から由良に逃れた会津藩士千八百五十八人の
船賃だった。前金〆て五百八拾一両弐朱。[一両は四歩、一歩は四朱で単純に計算すると
五百八十両二歩二朱]この内五百五十両を会津藩勘定方に請求している。
これが加太に集結した会津藩士千八百五十八人の命拾いの値段だった。

南紀徳川史を編輯した堀内信は述べている。
「彼の潰兵江戸に着き、我が赤坂邸前を過る者は地上に跪き、
館を拝して啼泣する者ありし」と。

日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、米価から計算した
金一両の価値は幕末頃には今の3~4千円だという。
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