大佗坊の在目在口

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幸田本光寺 深溝松平家墓所

2023-12-02 | 掃苔

愛知県幸田の本光寺は深溝松平家の菩提寺であり墓所になっている。深溝という地名、読名は「ふこうず」だと言う。深溝松平家の出自は十八松平という。十八松平は三河松平氏の庶家十八家のことで、寛政重修諸家譜でどこが十八の松平に該当するか探してしまった。三河松平氏のどの庶家が十八松平を指すかは書物によって異なるとウィキペディアにあった。一説によると松の異字体枩をばらして十八も数にしたとも伝わるが本当なのだろうか。三河松平の宗家は泰親の長子信広の松平郷松平家ということになる。三河の地名が分からないこともあるが、三河松平家の系譜を見ても親、忠、家、重とかの通字が入り混じっていて、すぐどこの松平氏かわからなくなってしまう。松平家の簡単な系図を作ろうと始めたが多すぎて直ぐ諦めた。寛政重修諸家譜の清和源氏義家流松平諸流略図にある新田太郎義重を遠祖、はじめ三河国松平郷に移り住み松平と称した親氏を初代として、二代泰親、三代岩津松平祖信光、四代親忠の孫長親は徳川家康の高祖父になる。寛政譜によれば松平信光の七男忠景の二男忠定を深溝松平家の祖とする。二代好景、東條の吉良義昭と善明堤の戦いで討死、三代伊忠、武田勢との長篠の戦いで討死、四代家忠は関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城で豊臣勢と戦い籠城討死、二代から四代まで家康に従軍し、何れも戦死している。
深溝松平家墓所は山門を潜ると正面の本堂への参道左側に初代から四代までと十一代忠祗の墓と五代忠利の肖影堂がある西廟所と山門右手の奥に六代忠房から十一代忠恕を除く十延滞的に九代忠諒までの墓がある東廟所に分かれる。

 

山門を入りすぐ右手の五輪塔は深溝松平十三代忠侯室天妙院(近江彦根藩十五代藩主井伊掃部頭直亮娘)と右隣は十五代忠精室俊光院(出羽国庄内藩八代藩主酒井忠器娘)の五輪塔がある。
東廟所


六代忠房墓と永春院墓

東廟所は六代忠房の室(永春院)の逝去に伴い新たに松平家墓所として造営された。忠房は吉田神道に帰依し忠房以降、神殿型墓標に葬られている。深溝松平家の正室、側室、庶子女の菩提寺は青山玉窓寺、中野宝泉寺としている。五代忠利から十七代忠愛までの藩主十三名が死没地にかかわらず、深溝の本光寺に埋葬されている。深溝への遺骸の埋葬は、五代忠利の遺命と伝承されている。
西廟所
初代から四代墓所


初代忠定墓           二代好景墓

三代伊忠墓           四代家忠墓

十一代忠怒石祠

左)六代長男好房墓   右)松平次章墓

深溝松平家では菩提を弔う「菩提寺」と廟の管理を行う藩士による「廟守」とに分かれていた。昭和の初めに寺に墓所の管理を一元化した。廟守は島原藩士とその子孫により昭和九年まで二百五十年近く続けられたという。

西廟所にある亀跌碑の向きが気になっていたが、航空写真をみると東廟所も全体的に真南を向いていない。西廟所にある亀跌碑は真南に対して反時計回りに約5度、東廟所の地形は真南に対して時計回りに約3度南北の軸から向きを変えている。亀跌碑の向いている延長線は450m先の深溝字権行寺にある素盞鳴神社本殿にぶつかった。東廟所中央の延長線上もこの素盞鳴神社の境内を通り山門の先で亀跌碑の向きの延長線とぶつかった。三河には素盞鳴神社が多くある。深溝素盞鳴神社の情報は何も分からなかつたが、祖宗紀功碑である亀跌碑の向きが、偶々素盞鳴神社の方向を向いていたのか、それとも何かほかの理由があるのだろうか。

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