大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

駿河小山 乗光寺・勝福寺・正福寺

2017-02-27 | 小田原

静岡県駿東郡小山町の乗光寺に町の文化財に指定された大森氏六代之墓が残っているというので出かけた。小山町には上古城、下古城や、乗光寺がある生土という古そうな地名が残っている。生土の読み方が判らなかったが、駅前で聞くとイキドと呼ぶという。生土はウブスナ(産土・生れた土地)とも読むと用語辞典にあった。松田から御殿場線に乗換え駿河小山駅に向かう。電車は酒匂川に沿って走る。この川は静岡県に入ると鮎沢川と名を替える。
  
大昔、島だった伊豆半島が北上して、約100万年~50万年前に本州に衝突し、その後も北上を続け丹沢山地を隆起させたという。伊豆半島側の礫層は約10万年前丹沢山地から流れ出した河川がつくったものだという。丹沢層群にもぐりこんだ足柄層群との境が松田町から山北、静岡小山にいたる神縄断層と言われ、小山町生土の北、皆瀬川にこの断層の露頭した場所がある。半島が衝突して皺ができ、そこに水が流れて、砂が運ばれる。ちょっと強引だが、生土が土を生むと場所と云うのもまんざら縁が無い話ではないようだ。(駿河小山駅から生土方面)

駿河小山駅のホームから鮎沢川越しに対岸に乗光寺本堂の屋根が見えた。
 
 
応安五年(1372)大森信濃守頼明の開基により、生土に宝雲山浄居寺を創建、明応四年(1495)大森氏の小田原落城により、当寺も衰廃する。曹洞宗の寺として相模の平山に一時、乗光寺として中興されたが断絶、正保元年(1644)十世隠叟和尚、大森氏末裔の幕臣大森頼直によりに生土に雲居山乗光寺が再中興され、各地にあった大森氏の墓を当地に移したという。
 
乗光寺大森氏六代の宝篋印塔は大森頼明、その室、頼春、氏頼、実頼、藤頼の墓六基だという。寛政重修諸家譜の大森系図によれば、頼明は足柄最乗寺、氏頼は久野総世寺に葬るとあり、風土記稿記載の岩原古城蹟図に在る古墳三基五輪塔が大森信濃守頼春、信濃守氏頼等の墓だと伝える。氏頼は父頼春の菩提を弔うため長泉院を開創し、大森氏の菩提寺としたという。六基の宝篋印塔を探して、墓域の最上段まで行ってしまった。大森氏の墓は墓域の中央にあり、上からだと白い説明板と無縫塔の塊がみえるので場所は判りやすいが辿り着くのに苦労した。
 
小山町中島の鷹巣山勝福寺は大森頼春開基、頼春の長子友石明訓禅師(乗光寺三世)の開山と伝わる。度重なる火災で縁起等の記録は残っていない。
 
     
山門の裏に打付けられた案内板に「この山門は元来は深沢城の城門なり廃城(天正十年)の際申受け現在の門柱の位置に茅葺にて山門となる明治中頃(活岩和尚)屋根亜鉛板葺替、昭和十五年春現在地に移転、昭和三十八年篤志家の力により大修繕を施し、銅板葺と為す、当山六百八十年間の変遷を、黙然と看視する唯一の建物なり。山主記ス」とあった。御殿場の深沢城は葛山氏一族深沢氏の城館ともいわれ、その後、今川勢の城になったとも言う。大森氏と葛山氏の遠祖は同じなので、勝福寺山門が深沢城の城門を申受けたという話が伝わるのも可笑しくはない。
小山町小山にはもう一つ、大森氏と関係の深い梅向山正福寺がある。
 
開基は色々な説があるが、延宝三年(1675)「正福寺歴住宝物由緒書」によれば大森頼明の子の別当職・権大僧正實雄大法印と伝わる。御殿場線は日中、1時間に1本の割合、帰りの時間が気になり裏山にあると云う古い宝篋印塔を見過ごしてしまった。

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河津 称念寺

2017-02-20 | その他

早咲きの河津桜の原木に寄ってから称念寺境内の桜を見に行った。前回(27年2月19日)は3分咲きだったが今回(16日)は満開だった。
左列(27.2.29)                右列(29.2.26)
 
 
河津川に沿って称念寺に向かう。
 
 
静岡教区浄土宗青年会のH・Pに宝林山称念寺の開山上人は僧澄道 心蓮社誠譽上人、開基年は宝治元年(1247)とある。

境内にあった河津町の説明板には「称念寺は、安元三年(1175)河津三郎祐泰が谷津館の内に称念庵を創立、守本尊の阿弥陀如来を安置したのがはじまりといわれている。永禄四年(1562)山崩れにあい、現在地に移った。本尊阿弥陀如来には「春日正作縁起」という縁起が伝えられている。」とあり、河津三郎守本尊の阿弥陀如来像は一本の白羽の矢を蔵していて、現在は秘仏として祀られているという。
本堂の脇に多くの尖頂舟型墓標があった。尖頂舟型墓標は江戸初期の造立で関東地域に多く、西は三島あたりまでと言われている。山中城址の宗閑寺裏の墓地にも多くみられた。ここにある宝篋印塔は相模に多くみられる基礎石の輪郭二区が一区しかなく、この辺りが東と西の異なる墓標様式の接点だったのだろうか。
 
(基礎石の輪郭一区)
               
称念寺の山門近くに、馬頭観音があり、その裏手に明治二十年代に下河津邑の有志により建立された皇軍死者忠魂碑が残っていた。台湾出兵か日清戦争の忠魂碑なのか判読できなかった。
 
河津三郎祐泰は伊豆の豪族、伊藤氏流れをくむ伊東家次(工藤祐隆)の孫、河津祐親(河津祐親)の子で、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我十郎(祐成)・五郎(時致)の父にあたる。河津川の対岸に河津三郎祐泰を奉る河津八幡神社がある。境内には力石を持ち上げている河津三郎や富士の巻狩りでの曽我兄弟の像がある。相撲の珍しい決まり手「河津掛け」を考案したのが河津三郎と云われている。
 
なぜ兄が十郎で弟が五郎なのかと思ったら、同じような疑問を持った人がいた。長野市立長野図書館のレファレンス事例に記載があった。
春湊浪話
「曾我十郎、同五郎 鎌倉時代、人の嫡子より次を太郎二郎三郎と次第に名付る。なべての事なり。曾我十郎祐成、同五郎時宗と名乗し事、人ごとに不審する事なり。今按るに、十郎が元服せし時は、祖父伊藤祐親は三浦介に預けられて存生なるべければ、祐成を祐親が子とし、其末子伊藤九郎祐清が弟に准じて、十郎とは呼ける成べし。五郎は文治六年九月七日に北条時政の亭にて元服して、五郎時致と名乗よし、東鑑に見へたれば、其時に時政の子として時致と名乗らせ、江島小四郎義時の弟に准じて、五郎とは称せしにぞ。東鑑に時致とも、時宗とも書たり。実は時宗なるを、後に北条時宗出来より、是を諱て所々時致と書改しものなる歟。」『広文庫 第11冊』p516『日本随筆大成 第3期 10』p437
なるほどと云う感じ!

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小田原塚原 長泉院

2017-02-11 | 小田原

大森氏の墓があるのではと訪ねた久野の総世寺には大森頼久の供養塔が残っていたが、大森氏の墓標らしきものは見当たらなかった。岩原城址から西に直線で1.7Kの所に大森氏と関係の深い曹洞宗の長泉院がある。
 
長泉院の創建は文明二年(1470)、号は玉峯山、開山は大寧宗忍、開基は大森八郎實頼(法名清泉院可安道印で従昔大森寄栖庵・僧實山を請て岩原村薬師堂の地に一寺を起立し、清泉院と号す、文明二年大森實頼当所廃寺蹟(号東明山)を闢き此に移して再建し今の山院号に改むと云、と風土記稿にあり、さらに明応九年(1500)藤頼公の時、小田原城主北條氏茂により落城し、この節岩原・川村・内山一時に落城し、家臣ことごとく戦死したという。この長泉院は最寄りの大雄山線塚原駅から2K以上離れており、バスも近くを通っていないため、訪れる人も少なく、入口から山門まで杉並木が600mも続き、古刹静寂の趣を強く残している。
 
 
参道杉並木の途中にこの寺の十二旧跡の一つ、大森彦七が火焔を吹く大龍を、太刀を抜き退治し、この龍がでた所を龍門橋と名付けた橋があった。長泉院由来記に出てくる話だが、由来記に大久保忠隣の名が出てくるので、江戸初期に創られたと思われる。この中に「当寺は大森の菩提寺にて、則岩原村に清泉院とて実山和尚の開基の寺有、本尊薬師聖徳太子の御作にして岩原村に有しが、則当寺へ引越、弐寺を一ヶ寺とす、尤鎮守八幡宮并薬師堂大森の墓所は于今岩原村に有之、則当寺の支配なり、寄栖庵の位牌則当寺に有之」、とある。
 
 
風土記稿にある里正が蔵する古城略図にある岩原城址の北西にある五輪塔が墓所だったのだろうか。それでも、未練がましく、寺の墓域を探したが大森氏の墓碑を探したが見つからなかった。墓域には加藤一族の墓碑が多くあり、その一つに清左衛門地獄を開くと書かれた墓碑があった。清左衛門地獄は箱根外輪山東山麓には湧水群や自噴井戸群の湧水の一つで、清左衛門が水源を探し当てたといわれ、数々の伝承が残されている。この清左衛門地獄池は平成の名水百選に選定されている。清左衛門は小田原城主大森氏に仕えた岩原城代家老加藤兵庫の子孫、加藤市郎兵衛頼隆の子清左衛門季安で元禄十六年八月十七日に亡くなったが、墓碑を見ると長男勘右衛門頼季が同年同月の一日遅れで亡くなっている。何があったのだろう。
 
今から70年以上も前の昭和9年に発行された小田原の写真集に大森氏墓の写真が記載されていた。写真の墓は宝篋印塔と五輪塔が混ざって積まれている石塔で、説明に足柄上軍岡本村岩原の城址西南の丘上に五輪塔四基余ありとある。これは風土記稿では岩原古城蹟図に在る古墳三基五輪塔は大森信濃守頼春、信濃守氏頼等の墓だと云う。確認するため、もう一度、岩原城址に行った。今回も最後の一字が判読できず、墓なのか供養碑なのか区別できない「大森寄栖庵之□」石碑のまえに写真と同じ順番で石塔が並んでいた。基礎石が輪郭2区に分かれているので関東様式といわれる宝篋印塔が数基混ざっていた。
 


岩原城蹟図にある古墳の五輪塔はどこにいったのだろうか。

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小田原久野 総世寺

2017-02-04 | 小田原

小田原久野の総世寺に向かう足柄街道の途中、久野保育園の入口近くに北條幻庵屋敷跡がある。
 
 
村に伝わる寛文十三年の記に、幻庵屋舗、百二十三間に九十五間ほど(約1万2千坪)とある。「幻庵は、伊勢早雲庵宗瑞(北條早雲)の末子として明応2年(1493)駿河の葛山の館(裾野市)に生まれた。幼年時代に箱根権現の別当職を約束され、京都に出て三井寺で修学したり、学者や文化人について諸芸を学び、格調高い歌を詠む文化人であった。天文10年に兄氏綱が逝去した後は、3代氏康、4代氏政の後見人として、この久野の館に住み、一族の長老的存在となり、その名は遠国まできこえていた。幻庵は、北條氏が滅びる8ヶ月前、北條氏の盛衰とともに久野の館で97歳で亡くなったとされている」と傍の説明板にあった。
  
足柄街道を走っている伊豆箱根バス停「観音堂前」の脇に龍泉寺欠ノ上観音堂がある。
  
説明板に「総林山龍泉寺という山号は、総は総世寺の総、龍は天龍山の龍、泉は東泉院の泉からとってできたという説がある。弘治元年(1555)春同じ久野にある総世寺の第八世大岳宗純禅師が建立したという。
 
欠ノ上の観音堂は、禅誓上人が当地方教化の足場であった。御本尊の観音菩薩は、禅誓さん自作で、しかも長い旅を背中の笈に背負って歩かれた貴重な御仏である。観音さまの背中にある鉄製の環がそれを物語っている。此所の観音堂には、どういうわけか隠れキリシタン信仰を思わせる痕跡も残っている。嘗て御前立の仏の御手にクルスのついた数珠がかけられていたり、中興住職の墓碑の号法が(骨相紋随庵主寛政十一年八月)コスモスと訓む由。などである。本尊は十二年毎に御開帳する」とあった。コスモスの花は明治になって入ってきた花で、和名では秋桜、隠れキリシタン信仰とコスモスの関係はよく分らないが、訓読みで骨相紋随をコスモスとは良く考えたと思う。境内には寒念佛供養の石塔が多く残されており、足柄地方で寒念佛が盛んだったことが分かる。
 
総世寺は久野諏訪原にあり、風土記稿によれば開創は文安二年(1445)、号は阿育王山、開山は安叟宗楞(あんそうそうりょう)、開基は安叟の甥、小田原城主大森信濃守氏頼入道寄栖庵、明応年間三浦義同(道寸・母は寄栖庵娘)三浦を遁出て当寺に潜み智海宗哲の弟子となり圓頂黒衣の姿となる。北條五代記道寸討死の條に「道寸今生の名残只今なり、酒を飲んと、盃をひかへ給ひければ、佐保田河内守、「君が代は千代にや千代」と謡ふ、荒次郎(道寸の子)扇を取て、「君が代は千代に八千代もよしやただ、現のうちの夢の戯」舞給へば、彦四郎も同じく立て舞ふ。實あはれなる一曲なり」。此の最後の宴に使用したという盃一口は寺宝として総世寺に残ると風土記稿にあった。残っていたら見てみたいものだ。 
 
 
 
 
本堂左奥の御開山安叟宗楞禅師・開基大森信濃守氏頼公供養塔入口の石柱があり、歴代住職の無縫塔の横に、「明應三甲寅年 寄栖庵殿當山開基日曻明曻庵主 八月廿六日 俗名大森信濃守藤原氏頼入道頼直」とある。頼直が建立したとすれば寄栖庵が亡くなってから百年以上も後に建てられた供養塔という事になる。頼直は氏頼から数えて七代目にあたり、五千石を知行した旗本で台徳院、有徳院に仕えた。
 
本堂と墓域の間に道路が貫通しており、五輪塔や供養塔が掘り出されたのか、一列にズラリと並んでいた。大森寄栖庵の墓は何所に在るのだろうか。
 

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