大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

富山上市 立山寺から浄徳寺・西養寺へ

2020-11-27 | 

富山地鉄上市駅から南東約2.5k、中新川郡上市町眼目にある眼目山立山寺を訪ねた。

 


地名では眼目は「さっか」と呼び、眼目山立山寺の呼名は「がんもくざん りゅうせんじ」。通称、眼目の寺(さっかのてら)と呼ばれているという。上市も昔、立山の山岳信仰への道筋に法音寺の門前を中心に三ノ日の「三日市」がたち、その東の上手にも「上の市」が開かれ、町の前身となったようである。上市町HPに「眼目村は上市川扇状地の扇頂部平野および段丘上に位置し、咲花とも察花とも記された。慶長十年(1605)三代藩主前田利常が巡視した際、眼目山立山寺の由緒を聞き、察花の字を「眼目」にしてサッカと読むようにしたといわれる」とある。立山寺HPに眼目山護国殿立山寺略縁起の記載があった。「建徳元年(1370)に曹洞宗大本山總持寺第二祖峨山紹碩禅師の創設による屈指の寺である。禅師は肥前の出身。美濃の今須に妙応寺を建て、摂津に護国寺を建て、ついで越中に遊化し立山に詣で、その風景を愛し紫雲を見ながら座禅をしていると、そこに禅師の名僧ほまれ高きを慕い、樵の姿となって立山権現が現れ立山山麓の小丘(今の櫛形山)を指して「かの地は法要の所、到り見たまえ」と禅師を懇請した。立山権現は禅師と石上に対坐すること七日間、禅要戒法を聞いて、帰依し寺院の建立を約束した。その夜、大豪雨となり上市川に数千の大木が流れつき、翌日より十八名の大工(伽藍守護の十八神将)が集まってきて、七堂伽藍の精舎が落成し眼目山立山寺と号した。立山や立山信仰との関係が深い。よって、全国でもめずらしい、開創は山神と竜神の神霊による開基の寺であり、立山権現と北海大龍女を開基としている」という。どの部分を聞いて、察花の字を「眼目」にさせたのか良く分からなかったが、辞書を調べると、目は形状や機能の広い意味で、眼は器官、構造などに用いるとあった。眼と目の違いは判った。目は小学1年生、眼は小学5年生で習うとあった。


お寺への参道は高さ20mもある立派な栂の並木で、栂の木をこの地方では「トガ」と呼んでいる。栂の標準和名は「ツガ」、栂(つが)は秋篠宮のお印にもなっている。岡田准一主演の映画「散り椿」のロケ地にもなったという。「散り椿」は葉室麟の時代小説を映画化したもので、「劒岳 点の記」と同じ木村大作が監督となっている。
上市町の下経田地区にある浄徳寺の前にある五輪浮彫供養碑を見に行った。


平らな安山岩に五輪塔を浮彫りしたもので、大日如来を示す梵字がある。昔、上市川の氾濫のとき、上流から流れていたという。雨が降らず、日照りが続くとこの供養碑を起こして祈れば雨が降るということから「雨降り地蔵」と言われていた。子供の間に「地蔵起こし」という遊びが残っていたという。どんな遊びだったのだろうか。
上市は中世から上市川や白岩川沿いに立山参詣の街道筋にあたり、中世城館が多く存在していた。その中の1つ、郷柿沢館は上市川右岸の西養寺が館跡で、戦国期の堀、土塁が遺構として残っており、上市町指定史跡に指定されている。


この館は室町時代から中新川郡一帯を領有した土肥氏一族の居館であったが、天正年間、土肥美作守政繁が佐々成政に敗れて越後に退き、戦いに参加しなかった一族の弥三五郎が俗家して農業を営んだと言われている。三州志古墟考によれば「この土肥は頼朝公の臣土肥次郎實平の後胤天正の初め美作までは新川一郡大半領して弓庄に居城す」とある。相模国足柄郡土肥郷より起る相模土肥氏からどのようにして越中土肥氏として勢力を伸ばしたか、はっきりしなかった。

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