松阪市は南西に奈良県上山町大台ケ原の県堺まで直線で約60km、面積も623k㎡とかなり広く、東京の特別区部とほぼ同じ広さを持つ。街を歩いていても人を見かけることが少なく、目印になる建物もないので、スマホで地図を見ながらでないと、迷いそうになる。常教寺から樹敬寺へは歩いて5分程度。地図をみても山門の場所が分らず墓地と境内を結ぶ裏門から本堂に向かった。
樹敬寺は浄土宗寺院で号は法幢山、知恩院の末寺で建久六年(119)、俊乗房重源上人建立時は不断念仏院とした。正長年中(1428~)に兵火で一山悉く焼失、享禄元年(1528)、三州大樹寺二世敬誉上人当国に来り、廃墟のうちに小庵を結び、ついに伽藍を再建、このとき樹敬寺と号したという。元亀元年(1570)、知恩院より浄土一宗僧録職の勅命あり、それ以来蝕頭の職を伝える。寺の墓域に国学者本居宣長墓がある。無学を自慢するわけではないが、本居宣長の功績が何なのか全く知らなかった。係り結びに法則があることを発見し、「詞玉緒(ことばのたまのお)を刊行したとある。玉緒を検索したら、中村玉緒の笑い顔が出てきたのでガックリした。樹敬寺墓域の入口に鈴屋大人月参墓(本居宣長翁)と原田二郎翁墓所とある。
本居宣長一族の墓は「跡 本居宣長墓」とある高い石柱があるので直ぐわかる。
本居宣長墓 附本居春庭墓は昭和11年に国の文化財指定となっている。文化庁の説明に「本居家累代ノ墓所ニアリ宣長ノ遺言ニ拠リ營ミシ所ニシテ墓石ニハ高岳院石上道啓居士、円明院清室惠鏡大姉ト刻ス即チ夫妻ノ法名ナリ其ノ後ニ春庭ノ墓アリ明章院通元道永居士、雅靜院淑和慧厚大姉ト刻セリ」とある。同じ11年に松阪駅南西約7kにある山室山にある本居宣長墓も国指定文化財となっている。文化庁の説明に「山室内ノ上ニアリテ妙樂寺境内ニ接續ス宣長生前ニ自カラ他ヲトシ遺言セルニヨリテ葬リシ所ナリ。小塚ヲ築キ上ニ櫻樹ヲ植ヱ自筆ニテ本居宣長之奥墓ト題スル墓石ヲ建テ石柵ヲ繞セリ柵ノ傍ニ平田篤胤ノ歌碑アリ」とある。この説明を読むまで本居宣長の墓が、遺体を埋葬する所を「埋め墓」、墓石を建てる所を「参り墓」と呼び、遺体を埋葬する場所と墓石を建てる場所を別々に設ける「両墓制」の墓だとはしらなかった。伊勢見聞集に「山室村妙楽寺、本居宣長ノ墓 石碑面 本居宣長奥墓 銘年号等無之 宣長自筆妙楽寺ニ有之」とあった。
山室の妙楽寺の山にはか所をさだめかねてしるしの石をたておくとて 宣長
山むろに千年の春のやとしめて風にしられぬ花をこそ見め。
本居一族墓域の先に松阪出身の明治大正期、大阪の鴻池財閥の経営者で、原田積善会を創設した原田二郎、原田家之墓がある。
近くに墓名は海軍大将鈴木貫太郎書、墓碑は海軍中将杉坂悌二郎撰竝書による松阪出身の海軍中将須賀彦次郎の墓があった。
さらに小野田家とある大きな供養塔があった。
塔の陰文に小野田高重二十七回忌、末娘七回忌に樹敬寺の小野田家墓所を修理し遠祖並びにここに埋葬された諸霊のため供養塔を建立したとある。この供養塔に三井家の家紋、「四ツ目結」があることから、この小野田家は三井家の連家と思われるが、苔むしていて誰が建立したのは判読できなかった。
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