大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

高岡 極楽寺から妙国寺へ

2019-08-21 | 

高岡新西国三十三観音札所四番札所だという博労町の極楽寺を訪ねた。
 
 
あとで高岡諸寺院由緒聞合帳をみてびっくりした。高岡に同じ山号を持つ極楽寺が二ヶ寺あり、一瞬、訪ねたお寺を間違えたかと思った。安養山守山極楽寺と安養山富山極楽寺、守と富の一文字違いの浄土宗のお寺で、いずれも前田利長の高岡築城の折、それぞれ守山、富山から富岡に移転し、守山極楽寺、富山極楽寺と呼んでいるという。聞合帳に安養山富山極楽寺は慶長年中、富山より高岳へ引越、坂下町に居住したとある。一方、安養山守山極楽寺は後醍醐天皇第八王皇子宗良親王(越中宮佛眼明心法親王)を牧野郷に迎え後醍醐天皇の三回忌に一宇を創建し、自ら開山とし号して安養山極楽寺と名付けという。その後、牧野から守山の西海老坂に移ったが、前田利長が関野を高岡と改称して移城、それに伴って高岡に移ったのが守山極楽寺で、安養山富山極楽寺は南朝方の郷士が宗良法親王を開山に勧請して創建された寺だという。
 
 
極楽寺に神仏習合の名残で境内に八の宮稲荷社、本堂には熊野権現様がお祀りされていて、なにがごちゃごちゃしたお寺さんだった。馬喰町から利屋町(とぎやまち)にある大法寺に向かう。
 
 
富岡は古い町名が残って利屋町も何と読むのか分らなかった。寺のH・Pによると「海秀山高岡大法寺は亨徳三年(1453)、京都大本山本圀寺第九世妙勝院日曉聖人の弟子、栄昌院日能聖人が、越中国開教の命を受け、越中国放生津(現在の富山県新湊市)の地に本圀寺布教所として開創された寺院である」という。(注:亨徳の年号はないので享徳の間違い。享徳三年は1454年)。放生津から守山、富山に移転後、慶長年中に高岡へお供したという。この大法寺、とりわけどうというお寺では無いと云ったら怒られてしまうが、この寺の門前に大変貴重なものがあったのに見逃してしまった。大法寺の門前左側に建っていた汚い木柱が入らないように山門の写真を写した。この木柱が明治時代初期の交通枢要地に木標を建てて管内諸街道の起程とする里程調査のために定められた道路元標の富山県里程元標「高岡」で、北陸街道の一つの基点となっていたもので、復元木柱の里程元標は全国でも数基しかなく後で分ってガックリした。
大法寺のお隣の龍雲寺に寄る。入口に大きな「高岡之新西国第一番霊場」の石標がある。
 
 
 
射水郡高木城主龍雲入道は射水小杉に高木山龍雲寺を創建、慶長年中高岡の瑞龍寺内の拝領地に移ったが、瑞龍寺再興用地に召上げられ現在の利屋町に移転したという。万葉線という私電に一度乗りたくて、龍雲寺から一番近い片原町の駅に向かう。
 
道路に青いペンキで長方形に塗り、中に「電車のりば」と白いペンキで書かれているのが電車の停留所だったので驚く。この停留所の前にあったのが守山から高岡に移転した妙国寺で、この妙国寺は本陽寺、立像寺、本光寺、妙伝寺の五個寺組頭役だったという。
 
 
また高岡の西方丘陵にあった一向衆寺院、西方八ヶ寺(本陽寺、本光寺、妙国寺、長蓮寺、法光寺、妙伝寺、大法寺、立像寺)の一ヶ寺でもある。境内に「勤皇志士山本道斎追墓□」があった。幕末に頼三樹三郎が高岡の片原町医者山本道斎の書堂牛馬堂に身を寄せ「牛馬堂記」を残している。高岡のお寺を駆け足で回った。慶長以前に関野にあったのは、総持寺、本陽寺、浄土寺の三箇寺で、ほかの寺はすべて慶長年間かそれ以降に移転、または新しく建立されたお寺だという。ただ総持寺と瑞龍寺との関係が、今一つ分らなかった。

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高岡 総持寺・林洞寺・東漸院

2019-08-14 | 

前田利長の菩提寺、瑞龍寺の西北に石仏が並んでいるお寺、総持寺があったので行ってみた。
 
 
総持寺の山号は衆徳山、高野山真言宗のお寺で、ここのH・Pによると「当山は創建当時、今の高岡市石堤の地にあったといわれ、前田利長(加賀藩二代藩主)守山在城の節は祈願所となり、高岡城移住の時、利長の意向により、慶長年間に現在地に移ったとされる。当山二十二世快雄和尚は、慶長十四年(1609)時の利長公高岡城築城の際、利長公より、当時関野と呼ばれたこの地の新たな命名を依頼され、中国の詩経の一節により「高岡」と名付けた人物である」とあった。ここの像内に正平八年(1353)卯月三日金剛位禅恵、仏師幸賀並ニ頼真等の銘がある「木造千手観音座像」は昭和12年、国の重要文化財に指定されていて、一年に一度11月15日に御開帳だという。このお寺にはもう一つの「秘仏」がある。薬師如来像で普段は厨子の中に納められ、五十年に一度の開帳だという。高岡諸寺院由緒聞合帳によるとこの厨子蓮台は玉泉院(織田信長娘で前田家長室)の寄進で、薬師如来像は三輪明神之作だという。由緒聞合帳によれば、むかし寺中より出火し縁起等焼失している。高岡城の地祭、並びに端龍寺建立の節、地祭を仰せつけられ、千手観音は越中那古の海より上がり給わったものだともいう。
 
外塀に寺を取り巻く様に安置している六十六部の石仏は昔の国名、六十六国を廻国し納経する聖を意味し、六十六体の石仏を納めたもので、現在は半分ほど残っているという。外側の石仏を眺めていて、ここの山門と境内にある建物の位置が微妙に歪んでいるように思えた。瑞龍寺から北側の道を廻るようにいくとJR城端線の踏切があり、その先に総持寺の裏門というか東側の門がある。正門は北側にある。念のため総持寺と東側の門を結んで延長してみた、前田利長墓にぶつかった。本堂と正門の延長上には高岡城の大手門があった。町を歩いていると方向感覚が少しずつズレていくような不思議な感覚にとらわれる。総持寺は巡れば西国三十三観音霊場を巡礼したのと同じご利益があるといわれている高岡の新西国三十三観音札所の二十八番札所です。
瑞龍寺四箇寺と呼ばれた塔頭寺院、東漸院、亀占庵、林洞庵(今林洞寺)、法性寺の内、今残る林洞寺、東漸院を廻った。城端線に沿って林洞寺に向かう。途中、だいたい1時間に1本しか運転していない城端線の電車が横を通過した。なにか珍しいものに出会って徳をした感じになる。
 
 
 
林洞寺は総持寺の南にあり、高岡新西国三十三観音の十一番札所となっている。
東漸院は瑞龍寺の南側にあり、瑞龍寺の塔頭寺院の筆頭であった寺院で高岡新西国三十三観音札所場の九番札所です。ちょうど瑞龍寺を時計と反対周りに一周したことになる。
 
 
高岡城下での寺の加賀藩での正月年頭御作法が「北藩秘鑑」にあった。筆頭が十帖一巻の総持寺、十帖一本が瑞龍寺、繁久寺が中畧の十帖一本、それに瑞龍寺塔頭四箇寺が連なる。総持寺が瑞龍寺よりの寺格が上だったのに驚く。

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高岡 瑞龍寺

2019-08-07 | 

「曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、明王堂(現僧堂)、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている」。長々と瑞龍寺のサイトから引用させてもらった。
 
  
仏殿、法堂、山門は平成9年(1997)、国宝に指定されて、昭和3年から平成9年にかけて、総門、禪堂、回廊、高廊下、大茶室が国の重要文化財に指定されている。
 
 
文化庁の解説に「延享三年<一七四六>に山門と回廊の前半部分及びその脇にあった禅堂などが焼失したが、江戸時代後期にほぼ旧状の配置で再建され、 山門は創建時の大工山上善右衛門(加賀藩御大工)の後裔にあたる大工が建てたもので、禅宗様の手法になる三間一戸の二重門であり、古式な手法をもつ。鳥蒭沙摩明王堂(旧禅堂)や高廊下、回廊は伽藍を構成する重要な要素である。当寺は大規模な曹洞宗寺院の中でも、整備された伽藍配置をもっともよく残すものの一つであり云々」とあった。法堂の左手回廊に外に出られるところがあった。なにがあるのだろうと向かうと、石廟が五基並んでいた。
 
 
前田利長宝篋印塔
 
前田利家                 織田信長
 
織田信長側室               織田信忠
 
国指定重要文化財僧堂
 
 
前田利長は本能寺の変後、織田信長父子の分骨を迎えてその霊を慰めたと伝えられ、利長の菩提寺瑞龍寺を造営したとき、開山広山恕陽禅師が利長父子も加えて同じ形式の五基を建造したのが,この石廟で、向かって右から前田利長(高岡開祖)、前田利家(加賀藩祖)、織田信長(利長室玉泉院父)、織田信長側室(正覚院・利長室永姫生母)、織田信忠(信長嫡男)の五人の霊廟だという。前田利長墓と瑞龍寺、それを結ぶ八町道、みな向きがバラバラで気になっていた。織田信長親子の石廟がいつ造られたかわからないが、八町道の延長上に瑞龍寺山門があり、さらに延長するとこの石廟にぶつかるのではないだろうか。瑞龍寺山門と法堂を結ぶ線が東西軸から五度北に偏っている。利長墓所と瑞龍寺石廟を結ぶ参道が八町道という事になる。そうすると利長墓所の正面は何処を向いているのだろうか。5度傾いている瑞龍寺中心線と利長墓所からの延長線と直角に交わる延長178.8kmの先にあったのが、前田氏発祥の名古屋荒子城、高岡城と利長墓所を結んだ200km先にあったのが岡崎城、利長祖父の菩提寺、能登七尾の長齢寺を結ぶと高岡城を通る。高岡城と瑞龍寺の延長上、266km先にあったのが大坂城、前田一族の居城だった越前府中城(現越前市役所)と瑞龍寺を結ぶ延長上に高岡城がある。これはGoogleマップの距離測定での計測と高岡城の正中点が不明で、利長墓所と瑞龍寺と比べて高岡城の面積が大きく、遠方から利長墓所、瑞龍寺を通過させると、おおかた城にぶつかるという欠点はあった。金沢でも城の向きが不思議に思っていたので、金沢城小立野口から真っすぐ延びる小立野通の234km延長先にあったのが静岡駿府城、金沢城の真南に伊勢神宮内宮(経度0.065度差)があった。加賀百万石と言われた金沢藩も創成期には色々な所に気を使い存続に大変だったのだろう。

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高岡 前田利長墓所

2019-08-01 | 掃苔

数年前、金沢市の野田山にある加賀藩主前田家歴代の墓所にいった。
左)野田山前田利長墓           右)前田利常墓
 
ここの墳墓及び碑は平成21年(2009)、国の史跡名勝記念物として指定を受けている。説明に「加賀藩主前田家墓所は、江戸時代、加賀・越中・能登三カ国を領した加賀藩主前田家歴代の墓所であり、石川県金沢市の野田山に営まれた歴代墓所と、富山県高岡市に造営された前田利長墓所の2カ所からなる」とあり、野田山の藩祖前田利正室芳春院(まつ)隣にある前田利長墓以外に高岡市に利長墓があるのを知った。高岡市がどこにあるのか知らなかったが、何時か行ってみたいと思ってから三年経った。
高岡市の前田利長墓所は、利長の三十三回忌に当たる正保三年(1646)、三代利常が利長隠居・終焉の地高岡に造営したものだという。なぜ利長が焼失した富山城のあと高岡に城を築いたか分からないが、この高岡は前田氏本城、金沢城の鬼門に当たっている。前田利長墓所は真北から5度東を向いている。どこに正対しているのだろうか。
 
 
 
利長墓所を訪ねた日は、朝からの雨で靴がビシャビシャになる。水はけの悪い参道には参った。墓所は外堀一辺百間(180m)の正方形(約1万坪)で、二重の堀で囲まれ、中心には、戸室石の二重基壇上に笠塔婆型墓碑が立つ。境内墓の前に「七重の石の塔燈籠あり高さ二十丈余と云丸き石中にあり是を千人釣ノ石と云此燈籠二基大坂よりとりよせられしに一基は故ありて建られず」とあり、大名個人墓として全国最大級の規模を誇るという。野田山の前田家墓所にある利長墓が何時、造成されたか判らないが、三代利常が二代利長に大恩を感じていたことは間違いない。それにしてもなぜ、高岡に利長墓を造営するのに三十年以上の月日がかかったのだろうか。高岡史料に「利長公は以て天下の平定を速ならしめん為、以て百万石の加藩を維持せん為慶長十九年五月二十日高岡城に於て自害を遂げられしなりとは古来我高岡地方に傳ふる口碑なり」との記述があった。口碑とは「石碑のようにながく後世に伝わりのこる」で、こんな話が残っているのを初めて知った。謀反と生涯疑われた利長について、幕府に気を使ったのだろうか。利長三十三回忌の年は第三代前田利常五十三歳、ちょうど利長が亡くなった歳と同じになる。利常、法円寺に於て利長の火葬を行うとあった。この時の利長の埋葬地は法円寺(現端龍寺)、繁久寺(旧地)、現利長墓のうち、どこだったのだろう。加賀藩史料に「正保元年(1644)、高岡瑞龍寺利長(英賢)石塔浅加左京奉行たり」また「正保二年(1645)、前田利常高岡繁久寺に土地五萬参千七百歩余寄進す」とある。一歩は一坪なので五万坪以上の広さになる。ここに墓所壱万坪が含まれるのは分からなかったが、繁久寺は永禄五年(1562)射水郡南條の城主加納中務と云者の発起で、むかし守山に在り、利長在城の折、参拝した寺で利常の命により正保三年(1646)、高岡の利長墓前に移転させ、寺領五十石を与え墓所の墓守供養を命じた。
 
 
墓所から利長の菩提寺まで直道八町あり八町道と呼ばれている。この道も東西の基軸から各5度ズレがあった。利長墓所や瑞龍寺、それをつなぐ参道の八町道を地図上で見ても、それぞれの向きがバラバラで美しくない。念の為、瑞龍寺の総門と法堂を結ぶ線と東西の基軸と比べたら5度北に偏っていた。この偏りはなぜだろうと思いながら瑞龍寺に向かった。

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越中 高岡

2019-07-24 | 

高岡市のある越中銘菓店の栞に「西越の大都市高岡は昔関野(志貴野)と呼ばれる荒涼とした原野でしたが慶長十五年前田利長が退隠の地としてここを選び城下町を築いて今日の隆盛をみるにいたりました云々」とあった。たしかに荒涼とした原野に城下町が出来れば、かなりの賑わいになったと想像するが、北陸新幹線の新高岡駅に降りてびっくりした。
  
西越の大都市の玄関先でもある高岡との連絡の新幹線高岡駅とJR城端線新高岡駅は改札外連絡の無人駅で、しかも本数が1時間に1本から数本の運行、新幹線新高岡駅のタクシー乗り場には客待ちのタクシーがたったの1台のみ、キョロキョロしている間にタクシーがいなくなった。結局本数の多いバスでJR高岡駅に向かい、そこから目的地に行くことにした。高岡駅に着いて驚いた。客待ちのタクシーが一台もいない。駅の観光案内所でタクシー会社の番号を聞いて、配車を頼んだら、混んでいるので何時になるか分からないがタクシー乗場で空車が来るのを待っていてくれと言う。20分経っても1台も来ない。また、タクシー会社に電話を掛けた。そのうち他社のタクシーが来るかも知れないからタクシー乗場で待っていてくれとの返事だった。これが高岡市で一番所有台数の多い会社の対応だった。駅も綺麗、道路も広く立派に感じるが、えらい所に来てしまったというのがこの町に来て最初に思った感想だった。電車の本数は少ない、タクシーは来ない、路線バスのコース、本数は少ない、この町の勧める観光コースは歩け、歩けで回れというのだろうか。「飛越能地域の玄関口」というキャッチコピーがある。北陸新幹線高岡駅建設に伴い在来線の駅開発に100億円以上投資したという。駅玄関にすべてを投資し、観光インフラまで手が廻らなかったのだろうか。高岡は2泊3日の短い旅だったが、観光客に殆ど会わなかった。初日の夕方、駅前商店街に行ったら、商店の一斉休業日かと思ったほどシャッターは閉まって人通りも全く無くビックリした。
高岡駅前午後6:00
 
左)高岡駅午後5:30        右)高岡駅朝8:30 前方タクシー乗場
 
慶長十年(1605)、加賀藩二代藩主前田利長は富山城に隠居した。慶長十四年三月、城下から出火、城も侍屋敷残らず焼失し、「居城普請之儀、何方に而も其方次第候」と築城の許可を徳川家康より得て、関野に築城の作事を急がせ、加越能三州より材料と人を集め、同年九月には完成させたという。加賀藩の雑記集「三壺聞書」に「能州より其の頃大杉松材木・雑木等取寄せ、又庄川より飛騨材木、三ヶ国夫人足・諸奉行人集り、早々出来し、金澤より両愛宕波着寺法印召よせられ御祈祷仰付らる。その頃関野を改め高岡と名付らるゝ」とある。城の周りに小高い岡でもあるのかと思ったら、「詩経」大雅・巻阿にある「鳳凰鳴矣于彼高岡 梧桐生矣于彼朝陽」から高岡と名付けたという。鳳皇とは誰のことを言っているのだろうか。石川県史の編纂員であった日置謙が前田家からの依頼により編集した加賀藩の編年史料集「加賀藩史料」重輯雑談の引用として、「越の高岡に定塚あり、下の町端に定塚と云所の小塚どもあり。是は慶長十四年酉の歳高山南坊(高槻城主高山右近)に縄張被仰付、関野に新城を被築、初高丘と云、後に被改高岡云々」と加賀藩加判衆であった高山右近に縄張りを命じ、城設計に関して書を神尾之直(図書)と稲垣與右衛門に与え家臣の屋敷割を相談させている。後北条の家臣で鎌倉鶴岡八幡宮造営に係った神尾治部入道と前田利長家老だった神尾図書と関係があるのだろうか。

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鎌倉 妙本寺と本覚寺

2019-07-17 | 東海道沿線

伊豆修善寺にある源頼家墓所に誰が言い出したのか分からないが、若狭局とその子一幡のものだという墓があった。鎌倉の妙本寺に比企一族の墓所があるのを思い出して20年ぶりに訪ねた。JR鎌倉駅前若宮大路にある鎌倉郵便局の横の道を進み滑川に掛かる鎌倉十橋の一つ、夷堂橋(えびすどうばし)を渡ると髭題目や閻浮堤内本化最初霊窟と彫られた妙本寺の石塔が現れる。
 
Wikipediaに閻浮提(えんぶだい、サンスクリット語)とは、古代インドの世界観における人間が住む大陸だとあった。日蓮宗で,「南無妙法蓮華経」というお題目を,特殊な筆法で書いたものを言い、法を除くほかの六文字の筆端をひげのように長く走らせる書体で,万物が仏法の光明に照らされて,ことごとく真理の活動をなすことを表現するものだという。なにか山門を入るまでに疲れてしまう。
長興山妙本寺の場所は右大将頼朝の乳母比企尼の邸宅で、其甥比企能員に伝わり、頼家嫡男一幡の小御所及び源頼経御台所(頼家娘)の竹御所は皆この場所だったという。新編鎌倉誌に「妙本寺(附比企谷、比企能員跡、竹御所)、妙本寺は長興山と号す、日蓮説法始の寺也。相傳ふ、日蓮の俗弟子、比企大学三郎と云し人、建立す。日蓮在世の時、日朗に附属する故に、日朗を開山とす云々、此地を比企谷と云。比企判官能員が旧跡なり」さらに「頼朝の乳母、能員が姨母、武州比企郡を請所として居す。故に比企尼と号す。甥の能員を猶子として、共に此所に来居す。故に比企谷と云なり。能員が女は、若狭局と号して、頼家の妾にて、一幡君の母なり。故に能員、恩寵渥く、権威盛なりしが、北條家を亡さんと謀るに因て、建仁三年(1203)九月二日、北條時政が名越の亭にて誅せらる。一族此地にて悉く亡びたり」とある。建仁三年(1203)の翌年、元久元年(1204)七月十八日、北條は修禅寺に幽閉した源頼家を指殺している。比企大学三郎は法名を日学、号を能本という。日蓮聖人は比企能本の父・能員に「長興」、母・渋河氏に「妙本」の戒号を与え、三郎能本は文応元年(1260)、故御台所二十七回忌にあたり、御所を転じて法華堂とし、「長興山
妙本寺」と名付けたという。総門を入り右手に方丈門があり、その奥の石段の上に蛇苦止堂がある。
 
 
 
ここは、比企一族を滅ぼした北条時政の子北条時村の娘に大蛇となって取りついた若狭局の霊を鎮めるため蛇苦止明神社を祀ったもの。蛇形曼荼羅より名付けたものか。
 
  
 
比企一族の墓所
 
五輪塔は前田利家側室寿福院(三代利常生母)の供養塔。
 
比企の変で、小御所の焼け跡から殺された一幡のものと思われる着物の袖が見つかり、それを弔った一幡袖塚がある。横に明治三十九年、池上本門寺六十八代貫首日亀上人篆額による「無垢證之碑」があった。
 
 
後で知ったが、応永二十九(1422)年妙本寺墓地左手の崖に上杉憲直に追われ、ここで自害した佐竹常元と男一人並びに家人十三人が討死した佐竹矢倉が残っているという。気が付かなかったのは残念だったが、ここにも修善寺の源氏山公園にあった十三士墓と同じ十三という数が出てきた。
帰り、夷堂のある妙厳山本覚寺に寄る。本覚寺は身延山から日蓮の遺骨を分骨したため東身延とも言われ、いま境内にある夷堂は鎌倉大蔵幕府政所の裏鬼門に鎮守として建てられたともいう。
  
 
 
地図を見ていたら近くに蛭子神社が在った。夷と蛭子、同じ呼び名かと思ったら、「ひるこ神社」というらしい。こんど訪ねてみようと思う。

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修善寺 源頼家墓と十三士の墓

2019-07-11 | 

伊豆修禅寺本堂と山門を結んだ延長上桂川の対岸、直線で約200mに対面して、尼将軍政子が鎌倉二代将軍頼家の冥福を祈るため経堂を創建したという指月殿と同じ源氏山公園に源頼家の墓がある。
 
 源頼家墓前の供養塔は元禄十六年(1703)、頼家公五百回忌に、時の修禅寺住職が建てたと伝わる。増訂豆州志稿に「五輪塔高三尺余(約90cm)、墓前に元禄十六年五百回忌辰、建設せる石標ありて征夷大将軍左源頼家尊霊と刻す」とある。又、日本伝説叢書によると「征夷大将軍左源頼家尊霊、右に元久元年、左に甲子七月十八日と三行に刻し、側面に元禄十六癸未暦當五百年忌 修善寺現住筏山智船代立之」と刻されているという。今は苔に覆われ、まったく判読できなが、頼家墓は供養塔裏側にある二基の小さな五輪石塔だと墓傍の説明にあった。
 
石標の裏を覗いてみると、五輪塔が三基あった。台座のある五輪塔に挟まれて台座のない小さな五輪塔が置かれていた。いつから二基から三基に増えたのだろう。伊豆市の観光サイトによると「三基あるうち真ん中が頼家、両側が側室の若狭の局(わかさのつぼね)とその子一幡(いちまん)のものといわれています」とある。いったい誰がそんなこと言っていたのだろうか。
 
公園でウグイスが盛んに鳴いていた。冥途の使いのホトトギスでなくてよかった.
 
明治三十一年発刊の修禅寺新誌に「桂水の南丘経堂の左側に在り、即一小石の五重塔を立てて墓印とせり。其上に假龕を構えて之を庇い塔前に又三尺許の楕円石を植て」とあり、元禄年間、江戸人の立てたものだという。「筏山智船代立之」というのはこの事か。同じ広場の東側に十三の石塔が並んでいる。
 
伊豆市観光情報サイトに十三士の墓として「鎌倉幕府2代将軍・源頼家が暗殺された後、家臣13人は謀反を企てたが発覚し殺害されたとも、殉死したとも言われています。当初墓は、南町公民館上の御庵洞にありましが、平成16年(2004)の台風で墓の裏山が崩落したため、現在は源氏公園の中に移設されています」とあり、増訂豆州志稿にも「御庵洞ニ石塔十三アリ故ニ称ス傳云元久元年源頼家害ニ遇ウ時殉死ノ士ヲ埋葬ルト」とおなじような記述がある。修善寺在の岩城魁著、修禅寺新誌御庵洞の項に「渓南塔の峰の麓にあり、古墳十三列立す。皆石層塔にして源公と同製の物なり」とある。明治二十七年に書かれた桂谷紀聞にも「十三塚、その地御庵洞と呼び、古墳十三存す。皆石層塔を以て標と為す。塔の造り古様にして、すこぶる公の墓に類す」とある。何時のころから十三塚が十三士墓に変わったのだろう。気になるのは、十三士の石塔と源頼家墓と云われる石塔が似ていないのと、十三の宝篋印塔のうち大きさや、笠の隅飾の角度から左の五基、中央の五基、右側の三基とだいたい三グループに分かれ、製作の年代も異なると思う。どこから十三もの石塔を集めてきたのかという感じで、一体、どの石塔が古くからあったのだろうか。
 
十三という数も気になる。柳田国男の「石神問答」「十三塚」と「塚と森の話」を慌てて読み直した。全国に十三塚と称される地名や塚が列挙されていて、全国に数多くあるのに驚く。

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伊豆修善寺 指月殿

2019-07-03 | 

修禅寺の門前の橋、虎渓橋を渡りながら弘法大師が独鈷で川の岩を打ち霊泉湧き出させ、伊豆最古の温泉と言われる独鈷の湯に誰か入っていないかと見ながら桂川を渡る。
 
誰も居ないと思ったら、今は見るだけで手や足を付けたり、入浴は禁止しているという。誰か入らないかと橋の上で待っていなくてよかった。川沿いに竹林の小径に向かう。途中、昼食とおもって、キョロキョしていたら、地元のおばちゃんの二人連れがスッと「ふつうのそば・うどん」と暖簾が掛かっている店に入った。地元の人御用達の店かと思い店に入って驚いた。さっきのおばちゃんの一人がカウンターの中にいた。ガックリしたが「生ゆばそば」を注文、蕎麦が出来上がるまでと出してくれた、切り干し大根の漬物が美味しかったので気を持ち直す。
 
竹林の小径は200m位の孟宗竹の散歩道で、中ほどにある大きな竹の円形ベンチに仰向けになってしばらく空を見上げていた。起き上るのに苦労した。腹筋がゼロになってしまったのだろうか。
 
現存する伊豆の木造建築で最古だという指月殿に向かう。
 
指月殿は修禅寺と桂川を挟んで相対する鹿山の北麓にあり、経蔵又は一切経堂と呼ばれ、扁額の指月殿は寧一山禅師の筆だと云われている。市の説明によると扁額の実物は修禅寺本堂に保存され、「指月」とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉であるという。不立文字を解く言葉が指月という説明も理解の外で、不立文字の言葉を検索してしまった。字義では「文字で真理を説くことはできない」「文字のなかに真理はない」という事らしいが、指月=経典が不立文字を解く言葉というのも、禅宗の問答みたいで、小さな脳ミソでは理解不能で、法戦式のように「尊意・そんい」「珍重・ちんちょう」「万歳・ばんぜい」というわけにはいかなかった。寺伝に尼将軍政子が鎌倉二代将軍頼家の冥福を祈るため経堂を創建し、宋版大般若経を納めたと言われている。お堂の中央に釈迦佛金身坐像が安置されており、坐像の下に微かに露出している石棺があり、頼家の遺骸を納めたものと言っている。指月殿は伊豆最古の木造建築物といわれており、建立の際、政子が寄進したといわれる宋版法華経は、大半が散失して現在では八巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経」の第二十三巻が、県の文化財となっている。この放光般若波羅蜜多経一巻の最期の余白に「為征夷大将軍左金吾賢源頼家菩提尼置之」と記されているという。さすがに吾妻鑑には頼家の暗殺を誰が命じたとの記述はないが、頼家が薨った数日後、北条義時が金窪太郎を差し向け頼家の家人等を誅戮している。「元久元年七月大十九日己夘酉尅伊豆國飛脚參着昨日十八日左金吾禪閤年廿三於當國修禪寺薨給之由申之云々」「元久元年七月大廿四日甲申左金吾禪閤御家人等隱居于片土企謀叛縡發覺之間相州差遣金窪太郎行親已下忽以被誅戮之」とある。より具体的で生々しいのが、天台宗僧侶慈円による鎌倉時代初期の史論書「愚管抄」で「元久元年七月十八日ニ修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指殺シテケリ。トミニエトリツメザリケレバ頸ニ緒ヲツケフグリヲ取ナドシテ殺シテケリト聞ヘリ」と惨たらしい。政子が頼家の遺骸を納めたという石棺の上に経堂を建立したのは、冥福を祈るというより頼家の怨念を封じ込めるため経堂を建立し経巻を納めたのではないだろうか。
 
この指月殿に掲げられている扁額の最期の文字、これで殿と読ませるのだろうか。

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伊豆 修禅寺

2019-06-26 | 

源範頼の墓から修禅寺に向かう。途中、桂谷八十八ヶ所標の道の標識があった。そういえば源範頼の墓の所に 八十一番 四国香川綾歌山白峯寺 本尊千手観世音菩薩の石碑があった。
 
桂谷八十八ヶ所は昭和5年、丘球学修禅寺三十八世が四国八十八ケ所霊場の土を修善寺に移し桂谷八十八ケ所として弘法大師の像と札所本尊の梵字、寺号を刻んだ石碑を建立したものだという。桂谷八十八ヶ所案内図に「桂谷・けいこく」と音読みで振り仮名をつけている。地名の桂谷、桂川など「かつら」と訓読みなのでなにかややこしさを感じる。霊場巡りは年寄が多い。頭の鬘に気を配ったのかなと思ったが、修禅寺八塔司の東陽院、真光院、放光庵、松竹院、梅林庵、日窓寺、半経寺、正覚院のうち、いま一院だけ残る修禅寺奥の院正覚院が、弘法大師が修行址の桂谷の山寺で、修禅寺の本地だと云われている。お寺は基本、音読みなので「けいこく」というのも有りなのかなと思うが、無駄に煩雑さをかんじる。
修禅寺の正式な呼称を「福地山修禅萬安禅寺」としている。
  
 
 
 
 
寺伝によると、弘法大師十八歳の時、来りて悪魔降伏も法を修す。のち大同二年(807)再来りて仏像数体及自像を刻み安置し真言宗福地山修善寺を草創。その後、建長年間に臨済宗に改め、建治年間に村名はそのまま修善寺として、山号は肖廬山、寺号を修禅寺とし福地肖廬山修禅寺と改めたという。延徳年間、小田原北條氏は隆渓禅師(北條早雲の義叔父)に重修させ、曹洞宗に改宗している。明治時代の地誌には肖廬山修禅寺とも福地山修禅寺とも記述があるので、正式に福地山修禅萬安禅寺と称したのは何時からだったのだろうか。修禅寺を世に知らしめたのは、岡本綺堂作戯曲「修禅寺物語」が明治四十四年、明治座で初公演されてからだろう。家に戻ってから慌てて修禅寺物語を読んだ。前書きに「伊豆の修禅寺に頼家の面といふ面あり。作人も知れず。由来もしれず。木彫の假面にて、年を経足るたるまゝ面目分明ならねど、所謂古色蒼然たるもの、観来つて一種の詩趣をおぼゆ」とある。岡本綺堂が参考とした古面は修禅寺の端宝蔵で見てきた。写真は端宝蔵の入場券から転用させて貰いました。

修禅寺物語は面作り師・夜叉王は伊豆修禅寺に押し込められた将軍源頼家から面を依頼されていたが、満足のゆく面ができないでいた。出世を望む夜叉王の娘も巻き込み、頼家が持つ死への運命まで予見してしまう名人の物語ですが、最後の部分が凄まじい。頼家の冥途のおん共と、死直前の娘に、(夜叉王)「やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写ししておきたい。苦痛を堪えてしばらく待て」、「娘、顔をみせい」。(娘)「あい」。この親子、我が娘の断末魔を写し取る親と、死直前に顔を見せろと云われて「あい」と答える娘と、どちらが凄まじいのか分からなかった。綺堂は日露戦争に記者として従軍し明治四十二年この修禅寺物語を書き上げた。芝居が上演された明治四十四年、戦争が終わり、社会主義運動が高まっり、幸徳秋水らが大逆事件で処刑された年で、殺伐とした時代に上演された修禅寺物語を人々はどのように捉えていたのだろうか。綺堂は、室町時代末期の能役者が死に行く妻の面影を描き写し面の基としたという話と江戸時代初期の能役者が、誤って子を死なせた乳母の半狂乱の様子を見て演技を会得した話から修禅寺物語を作り上げたという。

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修善寺 日枝神社と源範頼墓

2019-06-19 | 

修善寺に行った。三島駅で駿豆線に乗り換える。後発の電車がアニメの国木田花丸と黒澤ルビィのラッピング車両で、1本遅らせようかと思ったが修善寺でのバス乗合せ時間のため予定の電車に乗る。車内は思ったよりガラガラの一車両5.6人で、結局、終点修善寺駅で降りた客は10人程度で、ラッピング車両に費用をかけて採算が取れるのだろうか。バスを待っている間キョロキョロしていたら、地名の修善寺とお寺の修禅寺とで文字が違っていた。今までまったく気が付かなかった。
 
大昔は桂の里と称え、また桂谷・泉の里と呼んでいた。桂谷というのは、弘法大師が唐から携え帰った桂の杖を達磨山の源に立てて置いたものから、芽を吹き枝葉を生じたのが桂谷の桂の樹で、それが川の名となり、里名となったと伝わるという。終点のバス停から修禅寺までは約200m、修禅寺の手前にある日枝神社に寄った。
 
 
 
市の説明に「日枝神社は修禅寺の鬼門に当り、弘法大師の建立と言われている。明治元年(1868)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であった。また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある」とあり、信功院跡として、修禅寺の八塔司の一つである信功院のあった所で、建久四年(1193)、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉され、翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範朝は防戦の末に自害したといわれ、信功院は後に庚申堂となり、今は文政元年(1818)建立の庚申塔が一基残っているだけだという。
日枝神社の西、三,四町に小山と云う処の林の中に石塔があり源範頼の墓と伝わる祠あり、明治十二年九月、土地所有者の小山清三が祠の傍を開墾中に篇石で壺口が覆われた骨瓶を見つけた。中には焼骨が納めてあり、里民の口伝と同じであり、再び埋蔵してのちの世に伝えようと碑石を立てたという。源範頼の墓は苔むした五輪塔か宝篋印塔だと思い込んでいたら、コンクリートで台を固めた墓で、なんだこれはと言う感じだった。祠の傍に静岡県士族岩城魁撰文による「蒲侯碑」が残っていた。
 

吾妻鑑では建久四年(1193)八月、「參河守範頼書起請文。被献將軍」とあり、十五日あとの十七日、「參河守範頼朝臣被下向伊豆國。狩野介宗茂。宇佐美三郎祐茂等所預守護也。歸參不可有其期。偏如配流。當麻太郎被遣薩摩國。忽可被誅之處。」とあるだけで、自刃したとも、殺害されたとも記述はない。しかし、翌日の十八日、「參州家人橘太左衛門尉。江瀧口。梓刑部丞等。砺鏃籠濱宿舘之由。依有其聞。差遣結城七郎。梶原平三父子。新田四郎等。則時敗績之」として範頼の郎党を排除し、さらに廿日、「故曾我十郎祐成一腹兄弟。京小次郎被誅。參州縁坐」と参州(參河守範頼)の縁坐として曽我兄弟の兄、京小次郎を誅殺している。北條九代記にも建久四年八月三川守範頼被誅とあり、やはり範頼は修善寺で誅殺されたのだろう。範頼墓は下の道路から直線で100m、標高差20m程度の高台にあるが、これが結構きつい。
範頼墓の傍に岡本綺堂の随筆に出てくる墓畔の茶屋、今は家屋を改造した和風喫茶「芙蓉」があった。
 
 
銅鑼を叩いて入店を知らせるのがいい。年寄には、小山を登ってきて、なにか一息ほっと出来る場所があるのが嬉しかった。

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