大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

三島の名号塔

2021-04-30 | 東海道沿線

静岡の三島駅北口から真北約1.5kにある耳石神社にいった。

耳石神社は幸原地区の氏神で祭神は国狭槌尊、三嶋大社西側を北に甲州に向かう佐野街道の三島幸原より裾野伊豆島田に至る旧道に面し、耳病を治す神社として古くから知られている。

社殿の左右に石が置かれていて、向かって左側が古くからある耳石で、右側の石はバランスを取るために祀られ、三島の七石と呼ばれる石の一つだという。耳石はかなり大きな石で、富士山の爆発で飛んできたのだろうか。この神社には唯念の六字名号を探しに来た。本殿の後ろに馬頭観音を始め色々な石仏や墓石が並んでいた。

唯念六字名号塔

覚誉上人碑があった。

右 小田原の誓願寺本堂横の寛文五年(1665)建立の笠付行蓮社覚誉上人名号塔

石仏は明治になってからの神社合祀により一か所に集められたのだろうか。神社の鳥居に変わったしめ縄がかかっていた。棒状のしめ縄を初めてみた。耳石にかけてあったしめ縄は普通のヨリ(左綯い)で作ってあった。

境内に枯れたような大きな幹のスダジイの御神木があった。

御神木に静岡県神社庁の認定証の発行があるとは知らなかった。

三島駅に戻り、北口にあるという木食観正碑を探す。駅前にそれらしき碑はなかったが、google地図に、新幹線沿い約300m西側に小浜山刑場供養碑とあり、刑務所の塀沿いの道みたいな所を進むと四基の石碑があった。

右から南無妙法蓮華経(王澤日遥?)の題目塔、名号塔、妙法蓮華経碑、木食観正碑
 


市の説明に「「この石碑は、江戸時代三島代官所小浜山刑場で斬首の刑を執行したところに建てられていた供養碑である。刑場は宝暦九年、韮山代官所の併合の後も幕末に至るまでそのまま使用され、その後は葬祭場ができるまで火葬場としてその姿をとどめていた。供養碑は昭和四四年東海道新幹線三島駅の建設現場に当たり現在地に移転したものである。なお、旧位置は南方約40mの新幹線下り走行線付近と推定される」とあり、処刑場は幕末まで使用され、明治に入って跡地は一時期火葬場として使用されたという。木食観正は天明四年(1784)、三十歳で剃髪して仏門に入り、雨乞い、火伏せ、病気平癒などの、庶民の現世利益の要求に応える加持祈祷の行で、多くの信者を集めた。木食観正が三島に滞在したのは、文政二年(1819)の事だという。小浜山刑場の供養碑として木食観正碑が元から在ったのだろうか。

小浜山は富士山噴火の時、流れ出た溶岩流の末端の高まり部分で、三島駅の南側にある旧小松宮彰仁親王別邸の所有者が転々とした後、三島市が購入、公園となっている楽寿園から北口の三島北高校付近までを小浜山と言ったという。楽寿園の中に江戸時代に完成した数奇屋造りの様式を備え、京風建築のすぐれた手法を現在に伝える明治期の代表的な建造物の楽寿館がある。以前にこの建物の中で家人が敷居に足を突っ掛け、国宝級の襖を破きそうになって、冷や汗をかいた。しばらくの間、三島には立ち寄らなかった。楽寿園の南側、「小浜のみち」通りにある木食観正之碑を訪ねた。

昭和四十八年とある木食観正上人碑護持会の説明板に「過ぐる日偶然一部壊れた碑を発見、茲に、有志相計って再建安置し云々」とある。惜しいのは、何時、何所で、どのようにして見つけたのか、何も表示されていないのが残念だった。

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小田原の六字名号塔

2021-04-23 | 小田原

関本の龍福寺にあった徳本六字名号塔は小田原では数が少ない。慶応三年(1867)、徳本五十回忌に刊行された知恩院七十六世、増上寺七十世で初代浄土宗管長に就任した行誠の編纂「徳本行者伝」によると、諱は徳本、号は名蓮社誉弥阿弥。宝暦八年(1758)、紀州日高郡志賀庄久志の生まれだという。唯念が寛政元年(1789)生まれなので、約三十年の開きがある。徳本行者は江戸後期の代表的な捨世派(念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達の総称)念仏聖で文政元年(1818)、六十一歳小石川の一行院で亡くなっている。ちょうど唯念が恐山や羽前の月山、湯殿山、羽黒山を登り修行していた頃である。享和三年(1803)、四十六歳で初めて関東下向。文化十一年(1811)、増上寺称誉典海の招請を受け関東に下向する。十一代将軍家斉実母慈徳院の御悩を平療、江戸でも評判は高く、以後、文化十四年に至るまで、関東諸国の各地を廻っている。文化十一年秋、巡教遊化のため伊豆相模を巡り、小田原の心光寺を訪れている。

心光寺門前の徳本六字名号塔

心光寺は新編相模風土記稿に「月窓山護念院と号す。浄土宗京都知恩院末、文安元年(1444)僧門栄起立す(松蓮社貞誉と号す)、當寺元は小田原古新宿町(山王川右岸海寄り)に在り、寛永七年(1630)回録の後、当所へ移れり」とある。この心光寺門前に徳本六字名号塔があった。中世以降の浄土宗では宗門における長老、学頭などの指導者を能化者と呼び、この能化者が何々蓮社という法号を用いるようになり、蓮社号は浄土念仏実践の団体・信者を蓮社と呼んでいる。増上寺、弘経寺、鎌倉光明寺六十世を経て、元文三年(1738)、知恩院四十九代住職に就いた称誉は号を名蓮社称誉円阿としている。小田原では唯念六字名号塔が多い。気が付かなかったのか徳本六字名号塔は少なく、国府津より西大友に至り、曽我、金子、などを経て十文字の渡(酒匂川と川音川合流附近)を渡り古田島、千津嶋、怒田、苅野を通り矢倉沢関所前の矢倉沢往還道に合流する甲州古道に面した小田原梅林の中心地の曽我にある東光院の門前に徳本六字名号塔がある。


東光院は風土記稿に「瑠璃山南谷寺と号す、古義真言宗(国府津村宝金剛寺末)、古は剱澤川の東に在しが(旧地は陸田を開き寺畑と字す)文禄二年中興恵誉今の地に移すと云」とある。現在は真言宗の宗派のひとつ、清荒神清澄寺を大本山とする真言三宝宗のお寺です。参道に笠付六角柱の六面地蔵があった。

六面地蔵はどこかで見たことが在ったが思い出せなくて、10年分のお寺の石仏の写真を見返しても分からなかったが、小田原藩の処刑地だった北條稲荷神社近くに行ったとき、扇町にある小田原藩のもう一つの処刑地跡に建立された地蔵が六面地蔵だったのを思い出した。

小田原 扇町

秀学六字名号塔については手持ちの写真を見直したらいくつか有った。
東町の昌福院門前(安政六年:1859)、


上多古公園内(安政五年:1858)の秀学六字名号塔と石仏群

小田原、山北には
秀学、行幹、祐天、覚誉などの六字名号塔が残っている。

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唯念名号塔

2021-04-16 | その他

最近、養老孟司著の「死の壁」を読んだ。序章の「バカの壁」の向こう側で、人生でただ一つ確実なことは「死ぬこと」だという。また、「人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである。というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代だ」という。「私は私という思い込みが強くなると「変わった部分は本当の自分ではない」という言い訳が成り立ち、あの時の自分は本当の自分ではなかった」という論理が展開できるようになる。なるほどと思うが、凡人は情報が無いと不安になる。死んだ後の自分自身の情報は当然であるが本人には全く分からない。死という結末は解っていてもそのあとが気になる。そんな折、南足柄市にある足柄道を歩いた。バス便もなく、タクシーの配車も断わられ、仕方なく歩かざるを得なかった。小一時間、歩いて出会ったのは女性1人と庭から外を眺めていた年寄1人だけだったが、それ以上に出会ったのが野仏、石仏、路傍神などの多くの石造物で、なかでも気になったのが「南無阿弥陀仏」の六字名号塔。「南無阿弥陀仏」は、どんな人でも救うのが阿弥陀如来の願いだという。「南無阿弥陀仏」の念仏で救われるならば、蜘蛛の糸にすがらなくて済むかなと都合の良いことを考えたりもする。名号とは辞典によると仏陀や菩薩の称号をさすとある。「南無阿弥陀仏」の六文字を阿弥陀如来の名号だという。「南無不可思議光如来」の九字名号、「帰命盡十方無礙光如来」の十字名号もあるというが、残念ながらまだ見たことがない。六字名号塔があるのを知ったのが小田原に転居してからで、今まで九字名号、十字名号を見ても気が付かなかったのかも知れない。足柄古道を歩いてみて、南足柄の弘済寺へ入る小道にある唯念名号塔と関本の龍福寺境内にある名号塔との文字の書体が異なるのに気が付いた。
足柄弘西寺(地名)の唯念六字名号塔と花押

関本龍善寺の
徳本六字名号塔と花押

それまで名号の書体はみな同じだと思っていた。今まで撮った写真を見直してみた。唯念、徳本、秀学、裕天と結構、出てきた。唯念、秀学については殆ど史料が残っていない。秀学についてはどこの誰だか全く分からなかった。唯念の念仏講の信者によって建てられたのが唯念六字名号塔だという。
伊豆修善寺と小田原曽我別所の唯念名号塔

小田原東町昌福院と伊豆河津称念寺前の唯念名号塔

明治十六年発行、垂水良運編纂「明治往生傳」によると、唯念行者は肥後国八代郡の生まれで、文化三年(1806)十七歳の時、下総行徳村徳願寺誓誉弁端和上より剃髪染衣し受戒、弟子となった。布教活動のため諸国行脚し、文政年間に武州高尾山、富士山に登り念佛修行し、天保四年(1833)より再び、富士山の麓奥ノ沢にて草庵を結び、籠居念仏を行う。明治七年(1874)静岡県庁の特薦に依り教部省より新たに滝沢寺の号を賜い、駿河国駿東郡御厨上野村奥ノ沢の瀧澤寺開基師となり、明治十一年内務省より、龍澤山唯念寺と号すべし指示があったという(現在地、駿東郡小山町上野)。 明治十三年八月、九十一歳で入寂、逆算すると寛政元年(1789)の生まれという事になる。駿東郡上野は酒匂川上流、鮎沢川のさらに上流の須川左岸にある。酒匂川流域の唯念の念仏講も多く、相模や駿河の活動地域の唯念六字名号塔が多く分布しているという。

 
小田原荻窪の市方神社境内、扇町足下神社前の唯念六字名号塔に何れも蓮華講中とあるので、小田原近辺の唯念の念仏講は蓮華講と呼ばれていたのかもしれない。

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南足柄 関本界隈

2021-03-04 | 小田原

神奈川県道78号御殿場大井線、いわゆる足柄峠を越える東海道の旧街道で、足柄古道、甲州道や矢倉沢往還の別名がある。いずれも伊豆箱根鉄道大雄山駅の先から足柄峠への道は狩川の左岸を通っている。弘行寺から大雄山駅に向かう街道に沿って石佛、石碑が多く残っている。市営グランド駐車場入口(学校前バス停50m手前)に道祖神と五輪塔(上宿の道祖神)、学校前バス停25m手前(雨坪と関本の境)関本地蔵尊があった。

この地蔵は「子育て地蔵」ともよばれ、関本公民館に置かれていたものを平成24年(2012)に「関本宿を語る会」により旧関本村地蔵堂の近くにお地蔵を修復して新たに祠を建立したものだという。関本の三福寺は関本地区にある福がつく三つの寺院で、廃仏毀釈で廃寺となった善福寺が上寺、中寺と呼ばれてきた長福寺、下寺の龍福寺を関本の三福寺と呼び、財産(上寺)、健康(中寺)、智慧(下寺)の三福を願う人々で賑わったという。廃寺の関昌山観音院善福寺の御本尊等は同じ真言宗寺院である弘済寺に移されたという。


長福寺は新編相模風土記稿によれば「開雲山と号す、臨済宗 狩野村極楽寺末、開山子文、文明二年(1470)八月廿七日寂」とあるが、文政四年(1821)に鎌倉円覚寺の直末寺となった。ご本尊は十一面観世音菩薩、円覚寺百観音霊場第二十番札所となっている。本堂屋根に正三角形の三鱗紋があった。臨済禅 黄檗禅の公式サイトをみると、円覚寺の寺紋は二等辺三角形の三鱗紋(北条鱗)で建長寺は正三角形の三鱗紋だという。



山門前に馬頭観世音、百番観世音、万霊等の石碑があり、境内に古そうな宝篋印塔と五輪塔がたくさんあった。隅飾がほとんど垂直で古い小さな宝篋印塔や五輪塔をみると、名もなき中世相模武士の供養塔に思えてくる。長福寺から歩いて4,5分の龍福寺に行く。
   
龍福寺は瀧澤山吉祥院と唱え時宗にて国府津蓮台寺末、開山は遊行二世他阿真教、真教は一遍上人の最初の弟子で、「他阿弥陀仏」の他阿の名を授かったという。門前の寺号標石に龍澤山龍福寺、遊行七十三代 一雲□とある。一雲とは時宗の七十三世法主、藤沢清浄光寺五十六世の法燈を相続した河野憲善氏の号。寺号標石の山号の瀧澤山が龍澤山に、どっかでサンズイ(三水)が抜けてしまった。天保三年(1834)の龍福寺地誌取調書上帳に瀧澤山吉祥院とあり本堂の山号額も瀧澤山とあったので、瀧と龍は違うなと思いながら、瀧と龍の音が一緒なので、細かい事は考えないことにした。「隅折敷に三文字紋」が本堂の屋根にあった。隅折敷に三文字紋は時宗の宗紋で一遍上人の出自である伊予河野氏の家紋から採られたのだろう。


境内に大正11年に建立された大きな「下田隼人翁碑」があった。下田隼人と云う名前、最近どこかでみた名前だと思いながら、碑文を読んでいたら、一時間ほど前に訪ねた雨坪の弘行寺の境内に下田隼人「観理日圓」と戒名を贈られた供養塔があったのを思い出した。

小田原藩は万治年中の検地により新しい麦租徴収令を発布、これに反対した足柄上下郡二百余村の代表として近郷の大庄屋を務めていた下田隼人が一身を犠牲にして藩主稲葉正則に強訴したという。大正13年発行の足柄上郡誌には「万治三年十二月廿三日死罪、龍福寺の重阿上人は亡骸を引き取り境内に葬り「相阿弥陀」の法名を授けた」とある。


この下田隼人翁碑の下部に墓標なのか、中央に「南無阿彌陀佛」、右側に「相阿彌、萬治二年十二月廿□」。左側に「利佛房 延宝五巳年十二月二日」 下に「施主下田□□」とあり、「相阿彌 萬治二年」となっていた。雨坪の弘行寺にある下田隼人の供養塔の日付も万治二年か三年かはっきりしなかった。文政十年(1827)の下田隼人施餓鬼供養を呼びかけた文書には萬治二年十二月廿三日死罪とある。処刑日が萬治二年か三年かはっきりしない。萬治元年から同三年の小田原藩の総検地と萬治三年(1660)の大災害による減免が直訴事件と結びついて、近世に処刑が萬治三年になってしまったのだろうか。

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南足柄 大門通りの石仏石碑群

2021-02-25 | 小田原

甲州道(県道78号御殿場大井線)から弘済寺に向かう小道、地元の人が付けたのか、通称大門通りのかどに石仏石碑群がある。




道路側左から浅間大神、堅牢地神、南無阿弥陀佛、単体と双体の道祖神、木食観正 南無大師遍照金剛の石仏石碑と向かい側に四国八拾八箇所順拝二世安樂の石碑があった。農地開墾や道路整備工事等により石仏石碑を一か所に集めたのだろうか。石仏の最初に在った場所が不明となり、村と村の境目や古道の位置が分からなくなってしまうのは残念です。浅間大神碑も最初は富士山が眺望できる見晴らしの良い場所にあったのかもしれない。堅牢地神は「地神」とも呼ばれ、辞書によると「大地をつかさどる神。万物を支えて堅牢であるところからいう」という。地神と堅牢とを習合させ、より強力な神にしているのだろう。ここのある南無阿弥陀佛には九十一歳 唯念(花押)がある。唯念上人は江戸時代末から明治初期に活躍し、箱根山麓周辺の人々に念仏を広めた。この唯念念佛碑は九十一歳とあるので明治十三年(1880)、唯念上人入寂により造られたものなのか。相模では唯念上人か徳本上人の書体での六字名号碑がほとんどだという。単体道祖神と双体道祖神と右端が大日如来の別名でもある木食観正 南無大師遍照金剛碑、文政二己卯年(1819)二月現住實乗代造立之とある。木食観正は小田原を拠点に、加持祈祷など布教を行い小田原上人とも呼ばれた遊行僧、この碑を造立した實乗は弘済寺世代、文政十二年(1829)大阿闍梨法印實乗で、弘済寺の本寺、國府津の寳金剛寺二十七世を務めている。向かいにある石塔、四国八十八箇所巡拝二世安楽の二世安楽とは「現世の安穏と来世の極楽往生」を願うことだそうです。色々な民間信仰の石仏石碑を一ヶ所に集めてあるのは珍しい。弘済寺から弘行寺に向かう途中、地図に載っていた福泉公園内の善能古墳(福泉善能古墳)に向かった。

弘福(里道)通りと云う横道があり、曲がった先に複数の石祠と木花開耶姫命の石碑があった。風土記稿弘済村の項に村持ちの山神社や山王社があったと記載されている。この境内に祀られていた石祠と石碑なのだろうか。弘福を福泉と勘違いして、この近所をウロウロしてしまった。やっと公園にたどり着いたが、古墳らしきものは見当たらず、左奥に草がぼうぼうと残っている円墳らしき場所があった。

たぶんこの半円状の小山以外に何もないので、これが善能古墳跡かとガッカリしながら雨坪の中世寺院、法華宗弘行寺に行く。


雨坪(あまつぼ)という珍しい地名の由来は諸説あるらしいが、新編相模風土記稿に「古壺二口あり、一は公に献りて御茶壷となり、一は村内にありしが今は失えり。この壺宇治へ往返の時、小田原寓宿の夜は必雨ふるとぞ、村名はこれ等に拠りて起りしならんと云う」とあり、さらに「弘行寺 関本山と号す、弘安五年(1282)、日蓮甲州身延山より武州池上へ赴く時、少時当所村民の家に寓宿あり、當寺其頃迄は不動堂なりしが日蓮爰に止宿の際、興立して一寺となし地名に因て関本山と唱へ弘安中の起立故、弘行寺と称す、故に日蓮を開山とす」。日蓮は病気療養のため身延山から常陸に向かうが、その途中、武蔵国の池上宗仲邸で亡くなっている。ここ弘行寺に徳川家康側室で、紀伊徳川家藩祖徳川頼宣と水戸徳川家藩祖徳川頼房の生母、お万ノ方(養珠院)の母(性殊院妙用日理)の墓という小さな五輪塔があった。

風土記稿は「養珠院殿母堂、当寺に葬せし来由詳ならず」と素っ気無い。

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足柄神社から弘済寺へ

2021-02-19 | 小田原

足柄神社前バス停傍の神社への急な参道を見て、ここを上がるのかと後悔した。後で地図を調べたら、標高差約40m、距離160mあった。参道を登りきり足柄古道にぶつかった所に神社があった。


足柄神社は風土記稿に「古は足柄峠に鎮座し足柄明神と号せり」また「其後矢倉ヶ嶽に遷座せしかば是より今の神号矢倉明神社を称す」とある。明治中期には足柄明神と矢倉明神の名が併用され、昭和四年(1929)、足柄矢倉大明神、昭和十四年(1939)に足柄神社となる。昭和四年竣工の日本海軍妙高型重巡洋艦の3番艦が足柄と命名され、乗船の水兵が多く参拝したことから足柄の社名が定着した。昭和34年建立された由緒碑によれば祭神は日本武尊、現在の本殿は欅の素木仕上げで慶応二年(1866)、建築されたものだという。

境内に海上自衛隊の護衛艦「あしがら」の説明板があったのには驚いた。足柄神社のお札が護衛艦「あしがら」の艦内に祀られていて、足柄山の金太郎があしがらのマスコットになっているそうです。
足柄神社参道の反対側にある湧水が豊富にあふれ出ている弁天社を祀る巌島弁天池に寄った。


弘済寺に向かう途中、松田署苅野駐在所前の山側に斜めに入る坂道が足柄道(小田原から沼田、関本、矢倉沢、足柄峠から甲州に抜ける道)で、駐在所から100mほど先の道端の地蔵堂を化粧地蔵(白地蔵)と呼んでいる。


新編相模風土記稿に「祈願する者、必ず白粉或胡粉をもて、佛面を塗抺するが故、此名ありと云」とあった。中央に化粧地蔵、向かって左に南無観世音菩薩、右に地蔵菩薩があり、周りに古そうな五輪塔、馬頭観音、地蔵か道祖神か判らない石仏もあった。この化粧地蔵の附近を化粧坂といっていたという。
弘済寺がある地区の地名を弘西寺といい、風土記稿に「弘西寺村、弘西寺(寺名は西に済に作る、同音なるにより、西に作りしならん)所在の地なれば村名とす」とある。弘済寺と云う寺があったので、一文字替えて村名にしたというが、なんで替える必要があったのだろうか。


右)法雨山主 真海書「佛法非遥心中即近」額

弘済寺は狩川左岸、甲州道側にあり、東寺真言宗で山号は法雨山金剛憧院、国府津の寶金剛寺末で応永十六年(1409)栄海中興と伝わる。地蔵堂の脇に石仏が一列に並んでいた。県道78号(御殿場大井線)から弘済寺に向かう小径に地元の人が立てたのか大門通りの看板があった。道なりに進むと怒田にあるアサヒビール神奈川工場に出てしまう。風土記稿に苅野岩村の項に「村内矢倉明神社地の西北に、流鏑馬の馬場と唱へ、兩側に老松列立せし所(長一町許)、又南方に古松七株並たる小徑(裏大門と云)、共に足柄古道の遺蹟にて、往昔矢倉澤町の古道に、續きたる路次と覺ゆ、又村南にも、松並木二所あり、是彼古道の殘れるならん」とあり、大門通りは松田、怒田から矢倉沢に抜ける甲州古道に通ずる道だったのだろうか。甲州道と甲州古道を混同してしまう。足柄上郡誌によると「小田原宿より甲信駿への往来を甲州道と称して、下郡足柄村北ノ久保より岡本村沼田に入り矢倉沢を経て駿州竹ノ下村に達す」とあり、「足柄下郡国府津村より西大友に至り、曽我村、下大井上大井、金子、金手等の村を経て十文字の渡(酒匂川と川音川合流附近)を渡り古田島、延澤、千津嶋、怒田、苅野等の村々に掛り矢倉沢関所前の道に合す、これを甲州古道と云う」とあった。


 

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足柄地蔵堂

2021-02-11 | 小田原

伊豆箱根鉄道大雄山線の始発小田原駅から21分で終点の大雄山駅に着く。単線なので上り下りとも21分で運行している。


大雄山駅に隣接しているバス停の伊豆箱根バスのバス停は大雄山駅、4番3番乗場は箱根登山バスのバス停は関本、その後の富士急バス停は大雄山駅バス停となっている。一所にあるバス停名が異なるのは奇妙な感じがする。小田原に転居した時、この関本というバス停の場所を探すのに苦労してしまった。伊豆箱根鉄道は西武グループ、箱根登山バスは小田急グループと別れている。小田原駅から箱根地区へのバスも伊豆箱根と箱根登山と殆ど同じ路線を運航しており、それぞれ専用のクーポンを発行しているが、相互性がなく伊豆箱根バスと箱根登山バスの区別がつかず利用できずに戸惑っている観光客を多く見かけた。何とかならないのだろうか。小田原から足柄峠に向かう旧矢倉沢往還(県道78号線)の狩川支流、内川に沿った矢倉沢岳の南麓にある足柄地蔵堂にいった。

江戸幕府は東海道の箱根に関所を設けたが、その東海道の脇街道五ヶ所にも関所を設けた。海岸熱海道は根府川関所、箱根裏街道は仙石原関所、酒匂川上流、奥山家道(おくやまがみち)の谷ヶ村関所(谷峨駅傍、県道727号と76号交差付近)、川村関所(安戸隧道、県道726号と76号交差付近)、そして矢倉沢往還は矢倉沢関所の六ヶ所を小田原藩の管理とした。この矢倉沢村の関所から上流に約3kの所に地蔵堂がある。風土記稿に「往古、駿州仁杉(御殿場市)に杉の大樹あり、霊木の聞えあれば其木を伐り当所及駿州竹ノ下村、当国板橋村の三所に、一本三体の作作り置と云」あり、本尊の地蔵菩薩立像は秘仏として地蔵堂裏の収蔵庫に納められ、鎌倉時代作の県指定文化財となっている。地蔵堂から奥に400mほど坂道を登った所に金太郎の生家跡と金太郎が遊んだという「たいこ岩」と「かぶと石」があった。



大正十三年発行の足柄上郡誌は「坂田金時の遊戯せし金葢石と称するものあり自然石にて横四尺許厚一尺許あり」とあり、また「金時は酒匂の郷士阪田金次(或曰坂田衛門義澄)の遺児にて其母豆州三島明神に平産を祈り此の山中に住居し阪田の家を再興せんとしを源頼光に知られ公時と命名され武士となりし者なり」と記載している。なんだか金太郎が実在の人に思えてきた。傍に湧水を流して保温し栽培する「水かけ菜」を金太郎の畑として栽培していた。

左)秩父のしゃくしな漬      右)御殿場の水かけ菜漬

塩で漬け込む秩父のしゃくし菜も水かけ菜と同じアブラナ科の野菜なので水かけ菜漬が少し酸味がつよいものの、ほとんど同じ味がした。バスで足柄神社前バス停まで戻る。

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南足柄 清左衛門地獄池

2021-01-29 | 小田原

極楽寺から地獄池へ向かう途中、狩野公民館の敷地に加藤幾兵衛翁顕彰碑、狩野生産森林組合による愛林碑、富士浅間大菩薩碑の石碑があった。


加藤幾兵衛って誰だろうと思いながらスルーしてしまったが、あとで風土記に「旧家幾兵衛 里生ナリ、加藤ヲ氏トス、先祖織部後清左衛門ト改。文明中ヨリ里正ヲ勤メ今ニ至リテ十四代連綿ス」との記述があり、地獄池の名前の清左衛門と何らかの関係があるのかも知れなかった。もう少し顕彰碑の裏面を見ればよかった。ここから歩いて3,4分で赤い鳥居が見えてくる。池を割るように中央に狩野厳島神社がある。


昔は弁天社と池は御手洗池として風土記稿に「弁天社 御手洗池の中島に鎮座す(池廻り凡六十間許)、池中澄て底あらはに見ゆ中程に水沸騰する所あり、土俗呼ひて清左衛門地獄と云。人池辺に在て清左衛門と呼は、水益沸騰すとなり(按するに足柄下郡底倉村小地獄にも清左衛門地獄と云処あり。又豆州熱海の温泉にも平左衛門地獄と云あり。当所の如きも其類なるへし)この水を延て田間に沃く旱魃にも涸る事なしと云」とある。御手洗(みたらい)と云うのは、神社や寺院で、参拝者が手や口を洗って身を清める所を云うが、団子は諸説あるが、京都下賀茂神社の祭りで、御手洗池の水泡を模して団子を供えたことによるという話もある。では、お手洗いは名詞の「手洗」に、接頭辞「お」をつけて、丁寧に表現したものだという。古くからある造成語かと思ったら存外新しくまだ百年も経っていなみたいです。清左衛門地獄池のある狩野地区は、神奈川の南足柄市と箱根町の境にある箱根山の古期外輪山の明神ヶ岳の北東の末端にあり東側には酒匂川水系狩川、南に谷津川、北に大雄川に挟まれ、無数の沢に湧水があり、町なかの側溝の水量も豊富で流れも速い。この湧水の豊富さに目をつけ、大日本セルロイドが写真フィルム工業化を計画、昭和九年(1934)、フイルム事業を分離し、富士写真フイルム株式会社を設立し、この池のそばに工場建設し、現在は富士フイルムの第二水源地として、工業用水としても利用されている。昭和三十九年には伊豆箱根鉄道大雄山線「富士フイルム前駅」が開設された。昭和60年(1985)、環境庁が選定した昭和の名水百選のあと、平成20年(2008)、環境省が選定した全国各地百ヶ所の湧水・河川(用水)・地下水のなか、平成の名水百選に清左衛門地獄池が選ばれている。
隣に弁財寺があった。


風土記稿によれば「観池山と号す、浄土宗(足柄下郡塔ノ沢阿弥陀寺末)、開山禅誓」とあり、明治期に尼寺となっていたが、戦前、本堂が焼失し無住の寺となった。近年、地域住民によって本堂が再建され、平成27年(2015)、単立宗教法人として登録されている。境内に石佛が多く並んでいた。

一段と大きい石仏は六世天質忍孝尼、一番左端は九世幸運尼の墓だろうか。寛政元年(1789)、狩野の名主らで巳待講を立て、本寺の塔ノ沢阿弥陀寺から蛇形弁財天を10年の期限付きで弁財寺が預かった証文が残されている。天保十二年(1841)成立の新編相模国風土記稿の塔ノ沢阿弥陀寺の項に寺宝として肉身蛇形弁天像一体とあるので無事戻されたようです。弁財天信仰の盛んな地域では、弁財天の縁日である巳の日に弁財天に参詣する講を組織した。弁財寺の境内に巳待講や巳待塔の碑がないか探したが分からなかった。

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南足柄 極楽寺

2021-01-22 | 小田原

鉞担いだ金太郎のふるさと、南足柄の極楽寺から地獄池か、地獄池から極楽寺に廻るか迷ったが、途中でも帰れるように極楽寺から廻ることにした。



このお寺、新編相模風土記稿に記載があるが内容が難しく、解る所を記載すると「上関山ト号ス、臨済宗、鎌倉円覚寺末、庚永三年ノ起立ナリ、開山法忻」とある。庚永の年号を探してしまった。庚永三年は康永三年(1344)の誤記か。起立と創建、同じ意味なのだろうか。開基は今川五郎範国入道心省(法名定光寺殿悟庵心省)、中興開基松田尾張守憲秀(法名極楽寺雲章喜公)とある。極楽寺ははじめ定慧山極楽寺という法相宗の寺であったが、のち百丈山極楽寺と称し禅寺に改宗、二世季高法雲の時、山号を上関山に改めという。大喜法忻が二十九歳の時で、開基の今川五郎範国は大喜の弟になる。康安元年(1361)に大喜は鎌倉円覚寺三十世住持となり、さらに貞治三年(1364)、建長寺住持となっている。後光厳天皇から「仏満禅師」の禅師号を贈られている。松田氏は相模松田郷の国人領主で、伊勢宗端の大森氏小田原城攻略が明応四年(1495)から文亀元年(1501)の間だとすると、上杉禅宗の乱で西相模に進出した大森氏の台頭により、没落した松田氏のどの支族が伊勢氏の家臣となったのだろうか。
秀吉は天正十八年(1590)の小田原合戦のあと、北條氏直を助命し、首謀者として北條氏政、氏照。大道寺政繁、松田憲秀四人の切腹を命じた。北條氏政、氏照は七月十一日に自刃したとされるが、北條氏の宿老であった松田憲秀も田村安栖方にて自刃したと伝わるが自刃の日時、場所ははっきりしない。

極楽寺本堂の裏山にある松田憲秀の墓を訪ねる。裏山への登り口が分からずウロウロしてしまった。


本堂の左手の墓地を巻いて進むと斜めに山に入る道があり、20mほど登った所に四基の石塔がある。左から二基目が開祖大喜法忻(仏満禅師)の寂照塔(供養塔)、風土記稿によれば、法忻は足利尊氏ノ家臣、今川基氏の第三子、鎌倉円覚寺三十世の後、山内の続燈庵を営み、応安元年(1368)九月廿四日、庵の後の岩窟で入定したと云う。
 

開祖寂照塔
応安元戊申年九月廿四日於瑞鹿山中灯菴后岩窟入定偈諸佛降跡所續灯大光明岩上開一室一坐五百生□塔曰祥光
  
四基の右端が松田尾張守憲秀墓と伝わる。風土記稿に「二十五回忌追福ノ為二建テシ物ト云ド、寛永十年五月十一日ノ文字仄カニ見ユ」とある。供養塔と伝わる石塔の文字は殆ど読み取れなかった。
(右)于□□□□喜公居士 (中央)□□五回忌之石塔建立之□ (左)寛永十癸酉□五月□一日□□
天正十八年(1590)から石塔に刻まれた寛永十年(1633)までは四十三年になる。風土記稿も「云ど」と疑問形にしている。松田憲秀の供養塔と伝わる石塔は誰によって、いつ建立されたものなのだろうか。

この墓域の途中にいくつかの筆子塚があった。五基の無縫塔の真ん中、吐月墖(塔)は当山十六世別峯法教大和尚の供養塔。これは極楽寺での寺子屋の教え子(筆子)が師匠を偲んで建立した供養塔です。

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富山 於保多神社戦没諸君之碑

2020-12-25 | 

富山城址公園の真東、約1,4kの所に於保多神社がある。


何て読むのか分からなかった。社名の「於保多おおた」は、初めて社が建てられた地名の「太田保(おおたのほ)」を万葉仮名にしたものだという。保は万葉仮名では「ほ」、万葉の歌「於能我乎遠 於保尓奈於毛比曽、訓読では「己が命をおほにな思ひそ」。保(ほ/ほう)は、庄や郷と同じ中世に存在した所領単位なので、於保多を「おおた」と読むのは難しいのでは。何か他に意味があるのだろうか。社務所で貰った小さなパンフレットによると於保多(おおた)神社は、弘長三年(1263)に菅原道真公をお祀りしたのが始まりで、富山初代藩主前田利次公が富山城入城後の寛文五年(1665)に創建した菅原道真公を祀る「天満宮」と文化七年(1810)九代藩主前田利幹公が創建した「国玉社」、この二つのお社が明治六年に合祀、明治七年「於保多神社」と改称。菅原道真公、前田利次公(富山藩初代)、前田正甫公(富山藩二代)、前田利保公(富山藩十代)を御祭神として祀る。寛永系図に、右大臣道真太宰権師に遷り、筑紫にありて二子を儲く。兄を前田と称し、弟を原田とあり、越前前田氏は菅原道真の末裔を称し、菅原道真公を祖とし氏神としている。神社によると、貞享三年(1686)、二代藩主前田正保が命じ造らせた、富山城の時鐘が正甫公顕彰碑として昭和三十八年に建立された。

富山市埋蔵文化財センターによると、鐘の各部分の文様は、宮崎義一(金沢の鋳物師)や富山鋳物師が使用しなかった型式のもので、このことから於保多神社の鐘は、碑を造立するときにどこかから取り寄せられたモニュメントであるとしている。
鳥居の傍に西南の役で戦死した将兵の姓名階級を銘記した岡田信之撰文併書による明治十一年八月建立の戦没諸君之碑があった。

碑文にある陸軍大尉山田貫徹明治十年六月九日大分県臼杵ニ於テ戦死、中尉堀重忠明治十年五月三十日肥後国国見山ニ於テ戦死、中尉古川治義明治十年五月二十四日大関山ニ於テ戦死、中尉磯野篤之明治十年三月二十九日田原坂ニ於テ戦死。

境内に明治十八年に建立された岡田信之の顕彰碑、呉陽先生之碑があった。岡田信之は小西有斐の次男で岡田栗園の養子となった。実兄有實、弟三男有義の両人の顕彰碑、小西伯叔両先生遺徳碑が呉陽先生之碑の隣に建てられていた。
富山旅行の最後に富山懸護国神社に寄った。


ここの広い境内の玉砂利で幼稚園の制服を着た男の子が遊んでいるのを、若いお母さんが傍で辛抱強く見守っているのが印象的だった。ここの御朱印に「夢にだに忘れぬ母の涙をばいだきて三途の橋を渡らむ」という特攻隊員の遺詠が書かれてあった。数え二十一歳だったそうです。

戦没諸君之碑
明治十年二月劇賊之挙兵於西州也我舊藩士従王師而戦没者陸
軍大尉山田貫徹中尉古川治義磯野篤之堀重忠加藤三郎軍曹浅
野清堅佐久間道直伍長富田詮豊根塚亀治兵卒中島力蔵福原近
喜斎藤利忠太田幸定也而若大尉柴田勝能中尉岡本昭之伍長杉
山競河村正貫兵卒宇佐清範亀田傳治喇叭卒松谷勝二諸子則時
適罹疾慨不能従王師日夜憤激以故病大劇遂至不起矣初山田君
等之為兵員鎮越後新潟也一日相共誓曰天下無事則惇信守義以
達其道而已苟有事之日而所不一死以酬国者有如噭曰既而果践
其言矣頃者其同盟士相謀為立石于富山於保多社内而悲柴田氏
等之志併録其名以歳時祀之且曰嚮西州之役吾儕幸得生而凱旋
然天下筍有事則亦復死於變耳其志固期不譲于諸君不則他日視
玆碑亦當愧死也乃請余銘焉余偉諸君之能致死於国又嘉其同盟
士之志不得不銘銘曰  忠肝義膽誓以噭曰功有成否其義則壹魂
之所寧於保多社貞珉勒銘以告来者
    明治十一秊戊寅秋八月 越中岡田信之撰併書

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