大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

南足柄 東山北駅界隈

2021-09-25 | 小田原

香集寺から国道246を横切ってJR御殿場線のガード(中里函渠)を潜った先の左側角に大正十三年と比較的新しい馬頭観音と道祖神があり、写真を撮っていたら、ゴミを出しに来たお婆さんと眼があった。

近所に念仏塔がないか聞いてみたら、御殿場線に沿って30mほどの角にあると親切に連れて行ってくれた。



六字名号塔、廻国供養塔、庚申塔、地蔵菩薩があった。六字名号塔は小田原市東町の道場院門前にある芝増上寺三十六世祐天上人と同じ書体だったが、名号塔は風化で摩滅しており、碑表文字は、一部しか判読できなかった。六字名号の右側に金躰寺、左側にはかすかに祐天との文字が読みとれたが、道場院門前にある六字名号塔の祐天上人の花押と異なるのが気になった。嫁に来た時には、まだ念仏講が在ったというので、昔、山北向原にあった金躰寺の事を聞くと、この辺りが、むかし金躰寺があった処で、この奥にお堂があると連れて行ってくれた。この金躰寺は新編相模風土記稿に「西蓮山向原院と号す。浄土宗(足柄下郡矢作村春光院末)寛永十二年(1635)に草創、僧吟道を開山す本尊弥陀を安す」とある。いつ廃寺となったがはっきりしないが、皇国地誌村誌川村向原に維新の革命に方りて廃せらるとある、慶応四年(1868)の神仏分離による廃仏毀釈により廃寺となったのだろうか。1、2分だったが、しらない家の庭先を抜けてドンドン進むのでビックリしてしまった。ちいさな建物とその傍に無縫塔、地蔵菩薩、寛文七年板碑(供養塔?)があった。

建物の中に、阿弥陀如来像、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を左右に従えた三尊形式の仏像が安置されていた。この石仏の上の道脇に左から不動明王、六字名号塔、富士講碑、西山孝行?大我碑の石碑が並んでいた。


唯念の六字名号塔だったが、左側面に安政五戊午年(1858)九月大安日 行念六十七歳とある。行念って名前なのか、宗教用語なのか検索で調べてしまった。年齢の入っている名号塔で計算しても満年齢と数え年が混ざっているのか、唯念の生まれが寛政元年なのか、寛政三年(1791)なのかはっきりしない。唯念は明治十三年(1880)八月の死去と伝わる。

朝、出かけた山市場にあった行幹の六字名号塔も安政五(1858)年に建立されたもので、安政五年五月、長崎に寄港した米艦乗組員がもたらしたコレラが東に広まった時期で、七月下旬には江戸に達したと言われている。伊予松山藩主松平隠岐守勝成参府のおり、小田原宿にてお供の面々、二,三十人即死しそれから小田原に流行したと伝わる。このコレラ騒動で、人々は流行り病を除こうと、念仏真言題目、道祖神祭り、正月行事の復活など氏神の祭祀で対応しようとした。西相模に安政五年に造られた石仏が多いのもこんな理由があるのかも知れない。山北向原の薬師堂に向かう。途中東山北駅東側のがらんと何もない広場前のお堂に道祖神(向原1875−2)、

そこから100m位に本村薬師堂(山北町向原1881)があった。




地蔵菩薩、如意輪観音、馬頭観音、道祖神、反対側に庚申塔が残されていた。もともと、これらの石仏はどこに祀られていたのだろうか。

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相模 山北

2021-08-28 | 小田原

神奈川県西部、山梨県道志村と接する山北町にある丹沢湖は昭和53年(1978)三保ダム建設により出来た人造湖で、ここから南に河内川が流れ酒匂川に合流する。昔、この河内川をさかのぼり、川村関所から川村山北、皆瀬川、都夫良野、湯触村、川西村、山市場村、神縄村を通り奥山家三ヵ村(玄倉・世附・中川)に通じる奥山家道(おくやまがみち)があった。道幅は六尺から四尺(1.8m~1.2m)だったという。今は県道76号山北藤野線となっている。この76号の山市場にある六字名号塔を見に行った。山市場へは小田急線新松田駅からバスで行った、午前中7時台に2本、8時、9時台に各1本で、1日でも8本と本数が少ない。新松田駅から約40分位で山市場に着いた。途中、四軒屋、瀬戸六軒屋と寂しい名のバス停を通り谷峨駅上流で酒匂川と離れ河内川左岸をさかのぼって行った所に山市場の集落がある。山市場は昔、河村郷に属し、この地名は水産物の集積場と陸産物の取引場所があったことからこの地名が付いたと言われている。藤原秀郷の後裔で、相模の波多野遠義の子秀高は遠義から同国足柄郡上河村郷などの所領を与えられ、河村郷を本拠として河村氏を称した。民俗学者の柳田国男の遠祖がこの河村氏だと知って驚いた。バス停の斜め前の山市場公民館の横に六字名号塔があった。


表は南無阿弥陀仏、行幹(花押)とあり、裏面は安政五(1858)の他は殆ど判読できなかった。


横に享保十二年五月(1727)の庚申塔、萬霊塔、廻国供養塔、石仏等が並んでいた。
行幹の六字名号塔は初めてだったが、その書体は小田原の心光寺の徳本六字名号塔書体と非常に似ていた。念仏聖として有名だった徳本行者の書体を真似たのだろうか。中)心光寺徳本六字名号塔、右)関本龍善寺徳本六字名号塔
            
バスで東山北の向原バス停まで戻って歩いて5、6分の安能寺を訪ねた。



安能寺は新編相模国風土記稿世附村に「通永山と号す、曹洞宗川村向原香集寺末、元亀三年(1572)創建す、開山行翁本寺五世云々」とあり、世附川を堰き止めた三保ダムの建設に伴い、昭和52年(1977)山北町向原に移設されたという。安能寺には大数珠を巨大な滑車に取り付け、数珠を回転させる念仏信仰が残っている。「世附(よづく)の百万遍念仏」として県指定無形民俗文化財に指定されている。安能寺入口の石造物。萬霊塔(寛政四・1792)、廻国供養塔(文化十三・1816)、供養塔。
隣の安能寺の本寺であった香集寺の山号は如意山、曹洞宗小田原久野の総世寺の末寺で、応仁元年(1467)、僧永相が此処に在った観音堂に寄宿し堂宇を起立、一滴庵と号し如意輪観音を安置したことから如意山と号したと言う。



駐車場から境内への石段の途中にお寺を守るように萬霊塔・天明二年(1782)と禁牌石・安政三年(1858)があった。「不許葷酒入山門」を「 許されざる葷酒、山門より入る」とか「許されざれど、葷酒山門に入る」などと、訓読みしていたら破門になりそう。

境内に永平寺六十四世管主の性海慈船禅師篆額「功徳聚」、明治三十八年建立の重修如意山香集寺伽藍記碑があった。

重修如意山香集寺伽藍記 碑文
創業守成固為難矣継絶興廃豈亦易哉吾於如意山香集寺益知其然焉寺舊稱一滴奄無
方永相師所創立有青松自観二支院足利将軍施寺田五十石叢林規模備具二世休庵永
艮為兵禍所侵遂不能守成伽藍亦罹燹災時忠室宗孝和尚董総世主席観其惨状不禁痛
惜発憤拮据従事興復併二支院改稱今之寺号故以和尚更為本寺開祖二世香山良聞以
休菴之徒承開祖附属守成有功三世天光正玖徳望超羣朝旨特賜微号曰佛覚大光禅師
自是寺門漸盛比至六世有末寺十三儼然為一方巨刹慶長中有祝融之災再造堂塔百廃
復興爾来三百餘歳柱梁朽頽不可復支現住穎哉長老企図重修興諸檀越胥謀同心協力
鞅掌経営明治三十三年起工明年告竣仍卜是年四月二十四日特請永平性海慈海禅師
挙開堂遷佛之典禅師手裁白檀一株以為後昆丰標項曰長老来微記文于吾吾請経不言
乎諸佛滅度巳供養舎利者起萬億種塔金銀及頗梨硨磲與碼碯攻瑰瑠璃珠清浄廣厳飾
乃至如是諸人等漸漸積功徳具足大悲心皆己成佛道今夫長老及諸檀越重修梵刹供養
三寳其功徳其深豈可堪随喜哉仍紀梗慨以應其請寺住相模足柄上郡川村西對富獄足
初金時函根諸山連旦其西南鞠子川貫流其前風光佳絶真為相南勝境云

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小田原根府川 岩泉寺

2021-08-11 | 小田原

根府川の寺山神社から130m程坂道をあがると、左側に下りる急坂がある。
ここがちょうど新幹線の片浦トンネルと南郷山トンネルの間にあたり、海岸側に東海道線の白糸川橋梁がみえる。急な坂道を進むと斜面に建つ岩泉寺の本堂の境内にでる。

 
海岸側からの石段

新編相模風土記稿に「岩泉寺 巨岳山と号す。曹洞宗(早川村海蔵寺末)開山通國門泰(本寺十三世の僧)慶長九年(1604)建(旧家長十郎の家系には元和七年先代広井長十郎重次開基すとあり)」さらに「當寺昔は海辺にありしが、萬治二年(1659)の洪水に流失して、同五年今の処へ転す(長十郎家系に重次の孫左衛門重光の時、己が持地を寄附して此地に転ずと云)」とある。根府川村名主広井長十郎と村民が寺の維持費、畑七畝二歩・山林三町歩を寄進し本堂庫裏を再建したという。金堂前の急な石段の途中に手前から寛文七年(1667)建立の観蓮社縁誉至道上人碑、安政五年(1858)建立の秀学六字名号塔、文政元年(1818)と言われる広井長十郎が建てた「南無大師遍照金剛 木食観正」碑があった。


寺山神社の前にあった釈迦堂入口の石標につられて急な石段を下りて行った。根府川は小さな集落でどこを通っても白糸川にぶつかってしまう。釈迦堂を探して海岸の国道まで出てしまった。

帰り道のJRの白糸川橋梁真下の柵の陰に入口の案内板があった。私有地みたいな所を進むとgoogleマップに表示のない橋が架っていた。橋から20mほど先にみえる小屋がマップに白糸川の釈迦如来とあるのが釈迦堂だった。



お堂は半地下で岩に釈迦如来像があった。元自治会長の内田一正氏による「白糸川の釈迦如来」の説明があった。広井家文書によると、広井家二十二世広井長十郎重友の代に度重なる地震への不安から村の安泰を祈り、明暦二年(1658)、当時の岩泉寺境内の岩盤に像立し、右側に彫られた「寛文九歳七月十二日 元喜道祐庵主」は長十郎重友の命日と戒名だという。その左に「普明暦二歳仲秋月」「広井左衛門敬」と彫られているという。岩泉寺は万治二年(1659)の大洪水で万治三年から五年にかけて現在の高台に移転し、岩盤に彫られた釈迦如来像はそのまま残されたという。また子の釈迦像は弘法大師の作とも伝わっている。明和三年(1766)に釈迦如来像が野ざらしのため、お堂建設の願いが出されている。残念ながら釈迦如来像の周りに彫られた年号や名前は全く気が付かなかった。風土記稿は旧家として広井氏家系を載せている。上総介平良兼を遠祖として、良兼五代孫広井太郎致房を初代として、二十一代が寛永十二年江戸城普請採石を任され、岩泉寺開基の長十郎重次、その次の記載が重次孫宅左衛門重光(二十三代)となっている。風土記稿に「岩泉寺、當寺昔は海辺にありしが、万治二年の洪水に流失して同五年(1662)今の処へ転す、長十郎家系に重次の孫左衛門重光の時、己が持地を寄附して此の地に転ずと云」とあり、二十二代宗左衛門重友一人だけが風土記稿から抜けている。重友の命日が寛文九年(1669)だとすると、万治五年(1662)、寺に持地を寄附した時の広井家の家長は誰だったのだろうか。寛永九年(1632)、正保四年(1647)、慶安元年(1648)の地震、万治二年(1659)の大洪水など度重なる災害や、岩泉寺無住の期間享保年間(1716~1735)を考えると、あまり古文書も残されていないように思われる。

駅に戻る途中に日正上人の題目塔があった。

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小田原根府川駅周辺

2021-07-22 | 小田原

JR東海道線小田原駅の二つ先に根府川駅がある。この根府川駅は昭和60年代、オレンジ輸入自由化により根府川地区はみかん園の転換跡地利用方策により福祉施設が建設され、いくつかの遍歴のあとリゾート施設となった。根府川駅より無料シャトルバスが運行するようになり、乗降客数も少しは増加したと思われるが、現在でもJR東日本東海道線区間の唯一の無人駅で乗車人員は非公表の珍しい駅となっている。大正12年(1923)、関東大震災による大規模な地すべりが発生、8両編成の6両が駅舎、ホーム共に海中に没した。改札横に、関東大震災殉難碑、寺山神社に大震災耕地復舊記念碑、岩泉寺に大震災殃死者供養塔がある。


この地区に植えられた、カンヒザクラとマメザクラを交配させて誕生した早咲きの桜「おかめ桜」が有名で、花が下を向いて咲くのが特徴で色が濃くて華やかさがある。京都の大報恩寺(千本釈迦堂)の阿亀桜とは別種だそうです。根府川(ねぶかわ)の地名は古く、一説によると広井を氏とする家系に上総介平良兼五代の孫、広井太郎致房の次子重房、その次子太郎重門、始めて当所に住まい、根府川太郎と称したという。その後、広井を氏とし北條氏に仕え、天正十八年(1590)小田原落去のあと民間に下り、慶長九年(1604)頃より江戸城普請の採石御用を務め、代々採石の御用を務めている。この地区で産出する根府川石、荻野尾石は小松石と同じ箱根外輪山の中腹部より噴出した溶岩が主成分のため採掘者でもなければ区別するのは不可能に近い。
根府川駅から根府川郵便局の前の坂道を150m程歩くと根府川公民館の入口がある。この公民館の駐車場の片隅に木食観正碑と小祠があった。


県道740号小田原湯河原線を挟んで旧村の鎮守、寺山神社がある。新編相模風土記稿では「寺山権現社祭神詳ならず」とあったが、境内の案内板に「神社の草創は不明であり、古くは寺山権現と言われていたが明治初年寺山神社と改称した。祭神は武甕槌命(たけみかずちのみこと)であり、浅間神社、山神社の二社を鎮座している」とあったが、境内社の看板は天三社と姥社となっていた。


本社横に明治十二年建立の月日・三猿の庚申塔(石祠)と小田原市指定重要文化財に指定された丸彫単座像合掌型二基と彫単座像合掌型の一基の道祖神が祀られている。

境内に浅間大神塔、地鎮神塔があった。

元帥公爵山縣有朋書「日露戦役」彰忠碑

名号塔のある岩泉寺に向かう。

岩泉寺の大震災殃死者供養塔
大正十二年九月一日午前十一時五十八分俄然
大震災アリ同時二山津波起リ老若男女二百餘
人殃死セリ甚夕悲惨ノ至リニ堪ヘス茲二遺族
一同共ニ丹悃ヲ協セ殃死者菩提ノ為大供養塔
ヲ建立シ以テ永ク精霊ヲ祭ル者也
大正十四年八月十二日   
     遺族一同建之  
         海蔵實英書

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小田原真鶴 岩地区

2021-06-18 | 小田原

久しぶりに真鶴にいった。江戸時代の関東にある武家の墓はほとんどが真鶴の岩地区の山で採れる小松石を使っていた。会津藩諸士系譜に出でくる会津藩士の江戸での菩提寺で、藩士の墓を見つけるのに役にたった。真鶴半島自体、30万年ほど前に箱根外輪山の中腹部より噴出した溶岩で形成されたと考えられている。伊豆石、小松石、根府川石などは溶岩が固まった火山岩で玄武岩、安山岩、デイサイトなどで何度みても区別する事が出来ないでいるが、なんでも珪酸の量が違うらしい。新編相模風土記稿に「小松石、小松山より産する以て此名あり。石理至て緻密にして、且堅牢剥落の患なし。故に碑石に用る是を最とす。故に故より御寳塔にも是を用らると云。又御三家方及松平阿波守の采石場あり是は寛永二年よりの事云う云々」とあり、根府川石は根府川・米神兩に產し、小松石は岩の小松山に產し、眞鶴石は眞鶴で採掘したという。荻野尾石は根府川の荻野尾山より產し、磯朴石は根府川の海岸より產したという。玄蕃石は江ノ浦の產、其餘は小田原石と稱したという。平成の小田原城馬出門修復で馬出門左側は真鶴産の小松石、右側は早川産の安山岩が使われたという。

小松石(門左側)

早川の安山岩(門右側)

小松石は研磨すると独特の灰色から淡灰緑色の密な石面を見せるが、荒削りの石垣ではどこ産の石だか見当がつかない。
小田原本町にある明治天皇宮ノ前行在所跡碑は総磨の小松石で建立された。

弘法大師の草創と伝えられる多寶山瀧門寺に行く。

古くは密寺院だったのを、後年僧原行が曹洞宗に改め、天正元年(1573)僧林屋中興した、と風土記稿にある。参道入口には明和四年(1767)、瀧門寺十三世了吾和尚の発願、造立の関東最大といわれる宝篋印塔がある。この石塔は小松石で造られているという。山門に向かう石段の手前に廃寺となった岩松山光西寺にあった承応三年(1654)建立とされる五層塔と上野寛永寺の宝塔造営した宮石工三津木徳兵衛の頌徳碑(1533)がある。


山門を入って驚いた。本堂、庫裏、鐘楼すべて茅葺で建っていた。補修の時にはかなりの資金が必要になるなと余計なことを考える


瀧門寺から南に山際の道を5分程歩くと児子神社の入口に着く。



御祭神は「惟喬親王と惟喬親王之御子神」で、境内の碑に「延喜年間(十世紀初)の創立と伝えられるが天保年間大災のため社殿を焼失し古記録等はこの時に失った。御子神は親王の御後を慕い、従者二人を従え二才になられた若宮を擁して当所に来られたが、若宮、病を得て夭折されたので御父と伴に奉斎したと伝えられ、以後子供の流行病の厄除けの参拝が多く見られた云々」とあるが、風土記稿に兒子神明社「土肥次郎實平の外孫、萬寿冠者の霊を祀る。神体木像なり。傳云治承四年八月廿八日、頼朝實平等を引具し当浦より乗船して安房国へ落し時、冠者實平の跡を慕い当所に来たりしが既に出帆して及ばず、よりて涕泣し終に自殺せしを岩松山光西寺へ葬り其霊をここに祭りしとなり」「岩松山光西寺今廃して其跡詳ならず、社地に立る承応三年(1654)の五輪塔に岩松山光西寺と題し云々」とある。何時から土肥次郎實平の外孫、萬寿から惟喬親王の御子に替わってしまったのだろう。神社入り口右手に大正八年建立の元帥公爵山縣有朋書による忠魂碑、その隣に昭和三十年建立の円覚寺管長宗源書による護国塔がある。




源頼朝が房州に逃れた場所と伝える「船出の浜」碑と塩谷温題「開帆の碑」がある岩海岸より真鶴駅に戻る。

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三島 蓮馨寺から林光寺へ

2021-05-29 | 東海道沿線

静岡県三島の「小浜のみち」から蓮馨寺に向かう。途中に源兵衛川の川辺に遊歩道があった。


源兵衛川は寿楽園にある小浜池を源流としている。広瀬橋より下流は農業用水のため人工的に作られた川で、十六世紀の室町時代に地元の有力者で、この工事に関わった寺尾源兵衛に由来すると言われている。この源兵衛川は国際かんがい排水委員会(ICID)の主催する「世界かんがい施設遺産」に平成二十八年に登録された。水の豊富な三島でかんがい施設と思ったら、水源が富士山からの冷たい伏流水であり、農業用水として利用できるよう水路幅を広く、水深を浅くして太陽光で水温を上昇させるための灌漑用水路だという。この川の水量は寿楽園の小浜池の水位と連動しており、小浜池の満水時(150cm)には踏み石が完全に水没してしまう事があるという。鎌倉古道を少し歩き、蓮馨寺(れんけいじ)へ裏門の方から入る。

豆州志稿に「君澤山蓮馨寺 浄土宗、本尊阿弥陀、享禄天文年間(1529~1554)の間、明誉上人建つ」とある。山門内側に、芭蕉の供養塔が在った。

この碑は安永七年(1778)、芭蕉の顕彰に努めた松木乙児(別号六花庵)の門生陶官鼠(すえかんそ)によって建てられた。この碑の下に芭蕉の遺髪が納められているという。

山門の前に唯念六字名号塔があった。
門前でちょうど暖簾を出していた「登喜和」という店でお弁当とお刺身で昼食をとる。


伊豆箱根駿豆線の三島広小路駅の反対側のある林光寺まで約600m、徒歩で約10分位の所だったが、食事の後だったので嫌になるほど遠く感じた。


三島の林光寺は摂取山西照院と号し、知恩院末の浄土宗のお寺です。寺によると、開山は閑蓮社泰誉故信大和尚で、俗姓武田信景(武田信玄子)で元和七年(1621)八十歳寂とし、弘治三年(1557)、山梨国坂の帰命院笈往上人より得度し「故信」と称し、永禄九年(1566)、遠江相良の林光寺に住み、のち天正二年(1574)、念仏説教のため三島に留まり、天正五年、三島に一宇を建立、遠州山梨の寺号を移しという。一説に故信上人は晩年、甲州酒折東光寺村如来寺帰命院に住いたとも言われているとあった。甲斐国誌によれば、帰命院開山生蓮社笈住(教安寺五世)慶長元年(1596)寂、二世故信上人(或人云、豆州三島ノ林光寺ニ住セシコトアリ、故ニカノ所ニハ勝頼ノ子也、従ウ所ノ土人今其胤ト云傳ル者アリ)。有識の僧にて世人の渇仲あり、幡隋意白道の法友なりとあり、「豆州志稿」には、故信上人、武田勝頼庶子と相傳うとある。甲州加来寺の点鬼簿(過去帳)に故信は遠州相良の人、父を月光道秀と曰う。甲州酒折の帰命院笈往親和上人の弟子と為し、笈往往唱滅す,故信第二世と為る。あと寺を東光村に遷し加来寺帰命院と称したとある。本堂の屋根に武田菱の寺紋があった。
境内に信玄の長子義信の子で豆州上沢に蟄居し天正八年(1585)元服した神澤太郎左衛門尉義発の墓があった。

元和三年(1617)、六十一歳で卆したと云う。神澤家の墓域は中央に還空院殿正誉覚心大居士・当氏大祖太郎左衛門尉義発墓とあり、墓碑に、同妻 游蓮院貞誉浄圓大姉・近藤長左衛門尉祐富ノ娘 縁とあった。林光寺の由来には浄園大姉、名は緑とあったが、園は圓の間違い、緑は訓読みでは三字で女性の名としては珍しく思い、鮮明に撮れなかったので墓碑の写真を加工した。ハッキリしなかったが訓読みの二字、縁(えん)ではないだろうか。機会があったら再度、林光寺を訪ねてみたい。

本堂前に木食観正碑(左)、徳本六字名号塔(右)、

山門近くに唯念六字名号塔(左)、利剣名号塔(右)があった。

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三島の名号塔

2021-04-30 | 東海道沿線

静岡の三島駅北口から真北約1.5kにある耳石神社にいった。

耳石神社は幸原地区の氏神で祭神は国狭槌尊、三嶋大社西側を北に甲州に向かう佐野街道の三島幸原より裾野伊豆島田に至る旧道に面し、耳病を治す神社として古くから知られている。

社殿の左右に石が置かれていて、向かって左側が古くからある耳石で、右側の石はバランスを取るために祀られ、三島の七石と呼ばれる石の一つだという。耳石はかなり大きな石で、富士山の爆発で飛んできたのだろうか。この神社には唯念の六字名号を探しに来た。本殿の後ろに馬頭観音を始め色々な石仏や墓石が並んでいた。

唯念六字名号塔

覚誉上人碑があった。

右 小田原の誓願寺本堂横の寛文五年(1665)建立の笠付行蓮社覚誉上人名号塔

石仏は明治になってからの神社合祀により一か所に集められたのだろうか。神社の鳥居に変わったしめ縄がかかっていた。棒状のしめ縄を初めてみた。耳石にかけてあったしめ縄は普通のヨリ(左綯い)で作ってあった。

境内に枯れたような大きな幹のスダジイの御神木があった。

御神木に静岡県神社庁の認定証の発行があるとは知らなかった。

三島駅に戻り、北口にあるという木食観正碑を探す。駅前にそれらしき碑はなかったが、google地図に、新幹線沿い約300m西側に小浜山刑場供養碑とあり、刑務所の塀沿いの道みたいな所を進むと四基の石碑があった。

右から南無妙法蓮華経(王澤日遥?)の題目塔、名号塔、妙法蓮華経碑、木食観正碑
 


市の説明に「「この石碑は、江戸時代三島代官所小浜山刑場で斬首の刑を執行したところに建てられていた供養碑である。刑場は宝暦九年、韮山代官所の併合の後も幕末に至るまでそのまま使用され、その後は葬祭場ができるまで火葬場としてその姿をとどめていた。供養碑は昭和四四年東海道新幹線三島駅の建設現場に当たり現在地に移転したものである。なお、旧位置は南方約40mの新幹線下り走行線付近と推定される」とあり、処刑場は幕末まで使用され、明治に入って跡地は一時期火葬場として使用されたという。木食観正は天明四年(1784)、三十歳で剃髪して仏門に入り、雨乞い、火伏せ、病気平癒などの、庶民の現世利益の要求に応える加持祈祷の行で、多くの信者を集めた。木食観正が三島に滞在したのは、文政二年(1819)の事だという。小浜山刑場の供養碑として木食観正碑が元から在ったのだろうか。

小浜山は富士山噴火の時、流れ出た溶岩流の末端の高まり部分で、三島駅の南側にある旧小松宮彰仁親王別邸の所有者が転々とした後、三島市が購入、公園となっている楽寿園から北口の三島北高校付近までを小浜山と言ったという。楽寿園の中に江戸時代に完成した数奇屋造りの様式を備え、京風建築のすぐれた手法を現在に伝える明治期の代表的な建造物の楽寿館がある。以前にこの建物の中で家人が敷居に足を突っ掛け、国宝級の襖を破きそうになって、冷や汗をかいた。しばらくの間、三島には立ち寄らなかった。楽寿園の南側、「小浜のみち」通りにある木食観正之碑を訪ねた。

昭和四十八年とある木食観正上人碑護持会の説明板に「過ぐる日偶然一部壊れた碑を発見、茲に、有志相計って再建安置し云々」とある。惜しいのは、何時、何所で、どのようにして見つけたのか、何も表示されていないのが残念だった。

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小田原の六字名号塔

2021-04-23 | 小田原

関本の龍福寺にあった徳本六字名号塔は小田原では数が少ない。慶応三年(1867)、徳本五十回忌に刊行された知恩院七十六世、増上寺七十世で初代浄土宗管長に就任した行誠の編纂「徳本行者伝」によると、諱は徳本、号は名蓮社誉弥阿弥。宝暦八年(1758)、紀州日高郡志賀庄久志の生まれだという。唯念が寛政元年(1789)生まれなので、約三十年の開きがある。徳本行者は江戸後期の代表的な捨世派(念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達の総称)念仏聖で文政元年(1818)、六十一歳小石川の一行院で亡くなっている。ちょうど唯念が恐山や羽前の月山、湯殿山、羽黒山を登り修行していた頃である。享和三年(1803)、四十六歳で初めて関東下向。文化十一年(1811)、増上寺称誉典海の招請を受け関東に下向する。十一代将軍家斉実母慈徳院の御悩を平療、江戸でも評判は高く、以後、文化十四年に至るまで、関東諸国の各地を廻っている。文化十一年秋、巡教遊化のため伊豆相模を巡り、小田原の心光寺を訪れている。

心光寺門前の徳本六字名号塔

心光寺は新編相模風土記稿に「月窓山護念院と号す。浄土宗京都知恩院末、文安元年(1444)僧門栄起立す(松蓮社貞誉と号す)、當寺元は小田原古新宿町(山王川右岸海寄り)に在り、寛永七年(1630)回録の後、当所へ移れり」とある。この心光寺門前に徳本六字名号塔があった。中世以降の浄土宗では宗門における長老、学頭などの指導者を能化者と呼び、この能化者が何々蓮社という法号を用いるようになり、蓮社号は浄土念仏実践の団体・信者を蓮社と呼んでいる。増上寺、弘経寺、鎌倉光明寺六十世を経て、元文三年(1738)、知恩院四十九代住職に就いた称誉は号を名蓮社称誉円阿としている。小田原では唯念六字名号塔が多い。気が付かなかったのか徳本六字名号塔は少なく、国府津より西大友に至り、曽我、金子、などを経て十文字の渡(酒匂川と川音川合流附近)を渡り古田島、千津嶋、怒田、苅野を通り矢倉沢関所前の矢倉沢往還道に合流する甲州古道に面した小田原梅林の中心地の曽我にある東光院の門前に徳本六字名号塔がある。


東光院は風土記稿に「瑠璃山南谷寺と号す、古義真言宗(国府津村宝金剛寺末)、古は剱澤川の東に在しが(旧地は陸田を開き寺畑と字す)文禄二年中興恵誉今の地に移すと云」とある。現在は真言宗の宗派のひとつ、清荒神清澄寺を大本山とする真言三宝宗のお寺です。参道に笠付六角柱の六面地蔵があった。

六面地蔵はどこかで見たことが在ったが思い出せなくて、10年分のお寺の石仏の写真を見返しても分からなかったが、小田原藩の処刑地だった北條稲荷神社近くに行ったとき、扇町にある小田原藩のもう一つの処刑地跡に建立された地蔵が六面地蔵だったのを思い出した。

小田原 扇町

秀学六字名号塔については手持ちの写真を見直したらいくつか有った。
東町の昌福院門前(安政六年:1859)、


上多古公園内(安政五年:1858)の秀学六字名号塔と石仏群

小田原、山北には
秀学、行幹、祐天、覚誉などの六字名号塔が残っている。

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唯念名号塔

2021-04-16 | その他

最近、養老孟司著の「死の壁」を読んだ。序章の「バカの壁」の向こう側で、人生でただ一つ確実なことは「死ぬこと」だという。また、「人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである。というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代だ」という。「私は私という思い込みが強くなると「変わった部分は本当の自分ではない」という言い訳が成り立ち、あの時の自分は本当の自分ではなかった」という論理が展開できるようになる。なるほどと思うが、凡人は情報が無いと不安になる。死んだ後の自分自身の情報は当然であるが本人には全く分からない。死という結末は解っていてもそのあとが気になる。そんな折、南足柄市にある足柄道を歩いた。バス便もなく、タクシーの配車も断わられ、仕方なく歩かざるを得なかった。小一時間、歩いて出会ったのは女性1人と庭から外を眺めていた年寄1人だけだったが、それ以上に出会ったのが野仏、石仏、路傍神などの多くの石造物で、なかでも気になったのが「南無阿弥陀仏」の六字名号塔。「南無阿弥陀仏」は、どんな人でも救うのが阿弥陀如来の願いだという。「南無阿弥陀仏」の念仏で救われるならば、蜘蛛の糸にすがらなくて済むかなと都合の良いことを考えたりもする。名号とは辞典によると仏陀や菩薩の称号をさすとある。「南無阿弥陀仏」の六文字を阿弥陀如来の名号だという。「南無不可思議光如来」の九字名号、「帰命盡十方無礙光如来」の十字名号もあるというが、残念ながらまだ見たことがない。六字名号塔があるのを知ったのが小田原に転居してからで、今まで九字名号、十字名号を見ても気が付かなかったのかも知れない。足柄古道を歩いてみて、南足柄の弘済寺へ入る小道にある唯念名号塔と関本の龍福寺境内にある名号塔との文字の書体が異なるのに気が付いた。
足柄弘西寺(地名)の唯念六字名号塔と花押

関本龍善寺の
徳本六字名号塔と花押

それまで名号の書体はみな同じだと思っていた。今まで撮った写真を見直してみた。唯念、徳本、秀学、裕天と結構、出てきた。唯念、秀学については殆ど史料が残っていない。秀学についてはどこの誰だか全く分からなかった。唯念の念仏講の信者によって建てられたのが唯念六字名号塔だという。
伊豆修善寺と小田原曽我別所の唯念名号塔

小田原東町昌福院と伊豆河津称念寺前の唯念名号塔

明治十六年発行、垂水良運編纂「明治往生傳」によると、唯念行者は肥後国八代郡の生まれで、文化三年(1806)十七歳の時、下総行徳村徳願寺誓誉弁端和上より剃髪染衣し受戒、弟子となった。布教活動のため諸国行脚し、文政年間に武州高尾山、富士山に登り念佛修行し、天保四年(1833)より再び、富士山の麓奥ノ沢にて草庵を結び、籠居念仏を行う。明治七年(1874)静岡県庁の特薦に依り教部省より新たに滝沢寺の号を賜い、駿河国駿東郡御厨上野村奥ノ沢の瀧澤寺開基師となり、明治十一年内務省より、龍澤山唯念寺と号すべし指示があったという(現在地、駿東郡小山町上野)。 明治十三年八月、九十一歳で入寂、逆算すると寛政元年(1789)の生まれという事になる。駿東郡上野は酒匂川上流、鮎沢川のさらに上流の須川左岸にある。酒匂川流域の唯念の念仏講も多く、相模や駿河の活動地域の唯念六字名号塔が多く分布しているという。

 
小田原荻窪の市方神社境内、扇町足下神社前の唯念六字名号塔に何れも蓮華講中とあるので、小田原近辺の唯念の念仏講は蓮華講と呼ばれていたのかもしれない。

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南足柄 関本界隈

2021-03-04 | 小田原

神奈川県道78号御殿場大井線、いわゆる足柄峠を越える東海道の旧街道で、足柄古道、甲州道や矢倉沢往還の別名がある。いずれも伊豆箱根鉄道大雄山駅の先から足柄峠への道は狩川の左岸を通っている。弘行寺から大雄山駅に向かう街道に沿って石佛、石碑が多く残っている。市営グランド駐車場入口(学校前バス停50m手前)に道祖神と五輪塔(上宿の道祖神)、学校前バス停25m手前(雨坪と関本の境)関本地蔵尊があった。

この地蔵は「子育て地蔵」ともよばれ、関本公民館に置かれていたものを平成24年(2012)に「関本宿を語る会」により旧関本村地蔵堂の近くにお地蔵を修復して新たに祠を建立したものだという。関本の三福寺は関本地区にある福がつく三つの寺院で、廃仏毀釈で廃寺となった善福寺が上寺、中寺と呼ばれてきた長福寺、下寺の龍福寺を関本の三福寺と呼び、財産(上寺)、健康(中寺)、智慧(下寺)の三福を願う人々で賑わったという。廃寺の関昌山観音院善福寺の御本尊等は同じ真言宗寺院である弘済寺に移されたという。


長福寺は新編相模風土記稿によれば「開雲山と号す、臨済宗 狩野村極楽寺末、開山子文、文明二年(1470)八月廿七日寂」とあるが、文政四年(1821)に鎌倉円覚寺の直末寺となった。ご本尊は十一面観世音菩薩、円覚寺百観音霊場第二十番札所となっている。本堂屋根に正三角形の三鱗紋があった。臨済禅 黄檗禅の公式サイトをみると、円覚寺の寺紋は二等辺三角形の三鱗紋(北条鱗)で建長寺は正三角形の三鱗紋だという。



山門前に馬頭観世音、百番観世音、万霊等の石碑があり、境内に古そうな宝篋印塔と五輪塔がたくさんあった。隅飾がほとんど垂直で古い小さな宝篋印塔や五輪塔をみると、名もなき中世相模武士の供養塔に思えてくる。長福寺から歩いて4,5分の龍福寺に行く。
   
龍福寺は瀧澤山吉祥院と唱え時宗にて国府津蓮台寺末、開山は遊行二世他阿真教、真教は一遍上人の最初の弟子で、「他阿弥陀仏」の他阿の名を授かったという。門前の寺号標石に龍澤山龍福寺、遊行七十三代 一雲□とある。一雲とは時宗の七十三世法主、藤沢清浄光寺五十六世の法燈を相続した河野憲善氏の号。寺号標石の山号の瀧澤山が龍澤山に、どっかでサンズイ(三水)が抜けてしまった。天保三年(1834)の龍福寺地誌取調書上帳に瀧澤山吉祥院とあり本堂の山号額も瀧澤山とあったので、瀧と龍は違うなと思いながら、瀧と龍の音が一緒なので、細かい事は考えないことにした。「隅折敷に三文字紋」が本堂の屋根にあった。隅折敷に三文字紋は時宗の宗紋で一遍上人の出自である伊予河野氏の家紋から採られたのだろう。


境内に大正11年に建立された大きな「下田隼人翁碑」があった。下田隼人と云う名前、最近どこかでみた名前だと思いながら、碑文を読んでいたら、一時間ほど前に訪ねた雨坪の弘行寺の境内に下田隼人「観理日圓」と戒名を贈られた供養塔があったのを思い出した。

小田原藩は万治年中の検地により新しい麦租徴収令を発布、これに反対した足柄上下郡二百余村の代表として近郷の大庄屋を務めていた下田隼人が一身を犠牲にして藩主稲葉正則に強訴したという。大正13年発行の足柄上郡誌には「万治三年十二月廿三日死罪、龍福寺の重阿上人は亡骸を引き取り境内に葬り「相阿弥陀」の法名を授けた」とある。


この下田隼人翁碑の下部に墓標なのか、中央に「南無阿彌陀佛」、右側に「相阿彌、萬治二年十二月廿□」。左側に「利佛房 延宝五巳年十二月二日」 下に「施主下田□□」とあり、「相阿彌 萬治二年」となっていた。雨坪の弘行寺にある下田隼人の供養塔の日付も万治二年か三年かはっきりしなかった。文政十年(1827)の下田隼人施餓鬼供養を呼びかけた文書には萬治二年十二月廿三日死罪とある。処刑日が萬治二年か三年かはっきりしない。萬治元年から同三年の小田原藩の総検地と萬治三年(1660)の大災害による減免が直訴事件と結びついて、近世に処刑が萬治三年になってしまったのだろうか。

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