大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

虎に翼(三淵家の事)

2024-03-19 | 小田原

朝はお茶を飲みながらNHKの朝ドラをボ~としながらみている。家人が4月からの新しい連続ドラマは「虎に翼」だという。翼のある獅子と、どちらが強いかと馬鹿な話をしながら、誰の話かと聞いたら、なんでも小田原にいた三淵という名の女性裁判官の話で、何日か前の新聞に出ていたという。小田原で三淵氏と云えば戊辰戦争で責任を負い自刃した会津藩家老萱野長修の弟、三淵隆衛一族の事だと思った。慌てて新聞を探した。朝ドラ主人公のモデルは日本初の女性裁判官(東京地裁判事補)で隆衛の子、初代最高裁長官三淵忠彦の長男乾太郎後妻の三淵嘉子だと云う。
小田原三の丸ホールに写真パネル約10点、展示しているというので飛んで行った。以前、住んでいた近くの橋の架替え工事が平成18年(2006)に始まった。近くに会津藩江戸下屋敷があり、この橋が昔、肥後殿橋と呼ばれていた。近くのお寺には江戸で亡くなった会津藩士の墓碑が多く在ったが、年を追うたびに継承者が途絶えたのか、会津に改葬したのか、東京のある藩士の墓が無縁墓地として処分されてきた。今、残っているだけでも画像に残そうと「会津いん東京」というサイトを立ち上げた。諸士系譜や明治過去帳、東京掃苔録等を参考に東京にある会津藩士の墓標を探し回った。平成18年(2006)、新宿の正受院を訪ねた。ここ正受院は会津藩主松平容保公と二人の子供が大正六年(1917)、会津の院内に改葬されるまで埋葬されていた寺院で、何名かの会津関係者の菩提寺でもあった。ここに在るという三淵家の墓域を探したが、それらしき場所に見当たらなかった(現在ある湯河原出身の俳優、船越家の墓碑付近だったと思われる)。どこに改葬したか、お寺の若い僧侶に尋ねたが、分からないとのことだった。静岡藩に仕えた旧会津藩士林三郎惟純を調べていて、偶然白虎隊にいた西川鉄次郎のことを知った。新聞で昭和七年六月一日付、西川鉄次郎の葬儀広告を見つけた。葬儀が小田原板橋の興徳寺で行われたのを知り、興徳寺を訪ねた。住職の話では西川という檀家さんいないとの事とのだったが、近所に偉い裁判官が住んでいたと教えてくれた。小田原板橋地区のお寺を端から西川家の墓を捜し回った。偶然、広徳寺のお隣のお寺、霊寿院で見つけたのが新宿正受院から改葬された「三淵家の墓」で、しばらく立ち竦んでしまった。今年、近くの本屋の店頭で復刻版、三淵忠彦著「世間と人間」を販売していた。この随筆集の事は、北海道教育大学教授佐野比呂己氏による「教材 ろくをさばく考(三淵忠彦中心に)」で、存在は知っていたが、古本でも見つからなかった。「世間と人間」の中の「ろくを裁く」が昭和三十年(1955)発行の柳田国男監修高等学校国語教科書に収められている。忠彦が斗南藩所有の西洋型風帆船(栄丸、安渡丸)の操船技術を教えた軍艦運用石渡栄次郎の子、敏一の家に寄宿していたのを知って驚いた。「虎に翼」とは、強いものにさらに威力を加える例えだと云い、原典の韓非子難勢篇に「勢者便治而利乱者也、故周書曰、毋為虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之」とある。四文字熟語でいえば「爲虎傅翼」(虎の為に翼を傅(つ)く)で、五文字熟語では「毋為虎傅翼」と毋(なかれ:毋は母と別字)と否定の助詞が付いて、虎に翼を付けてはならぬと周書にあると韓非は云う。翼のある虎は人をえらんで食うとある。逸周書·寤儆解三十一篇では「無為虎傅翼、將飛入邑,擇人而食」とある。NHKの連続ドラマ「虎に翼」の作者吉田恵里さんが意図したタイトルとは少し意味合いが異なる様に思うが、どんなドラマになるか楽しみが増えた。いま小田原板橋に残っている三淵邸は甘柑荘と名付けられ保存会が設立されている。

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小田原 徳川家康陣地跡の碑

2024-03-12 | 小田原

箱根登山バスの小田原今井バス停のすぐ近くに徳川家康陣地跡への入口があり、60mほど入った所に今井権現神社と「神祖大君営趾之碑」がある。


今井の御陣場跡(現小田原市寿町4)は新編相模国風土記稿に「今村民市郎左衛門が宅地是なり、濶東西一町半、南北二町餘、廻りに土手あり、(高一丈餘、鋪八間)其外に堀蹟あり、(幅十二間餘、今は水田なり)又西南の方數十歩を隔てば、惣構の土手蹟あり、(今は田間の小徑となる)東の入口を御馬入場と唱へ、西の出口を御馬出し場と呼り、又東入口の外、南に寄て御馬立場蹟あり(今は陸田なり)此地は市郎左衛門が祖、柳川和泉守泰久、住居せし時、天正十八年、東照宮御出陣に、彼が宅地を御陣所に定められ、百餘日御滞留あらせられし御舊蹟なり云々」とある。

今井権現神社の中に葵紋を付けた甲冑すがたの座像が安置されていた。「御陣場蹟の構内西方に在、御躰は、幣束及尊影(御甲冑卯を著し給ふ、)を安置し奉れり、是は元和三年、和泉守泰久の子、忠兵衛と云者、御舊蹟たるをもて、御宮を造立し奉ると云、其頃松平右衛門大夫正綱・伊丹播磨守康勝、参拝し御宮造立の由緒を尋問せしに、忠兵衛巨細に言上せしかば、聽て、台徳院殿の高聽に達し、(市郎左衛門家蔵、寛永中正綱が寺社奉行安藤右京進重長、松平出雲守勝孝への書翰に、先年小田原御陣の刻、權幻様御陣場の御屋鋪、今井と申候所に、忠兵衛と申百姓、御ほこらを建守護いたし罷在候、其子、台徳院殿様御耳、奇特成事をいたし候と被仰出、其場所高二十石餘拝領申候と見ゆ)同八年、領主安部備中守正次へ、御宮御造營の事を命ぜられ、御本社(三尺に二尺五寸、)覆殿(二間に一間半)御拝殿(三間に二間)等落成す、此時、御宮地(方十二間)大門(長二十間、幅二間)の間數をも定らる、其後元禄十六年、地震の時、御宮破損せしかば、市郎左衛門の家にて、假に御本社(三尺に二尺五寸)覆殿(二間に三間、拝殿は造込なり)を造立し、今に至る、稲葉丹後守正道、領主たりし頃、御太刀馬代を献備して参拝あり、」と新編相模国風土記稿に東照宮御宮の記載がある。神社の横に「神祖大君営趾之碑」がある。

この碑は天正十八年(1590)の小田原合戦で徳川家康が布陣した場所に、小田原藩主大久保忠真が天保七年(1836)九月に造立したもので、碑文は大久保忠真、揮毫は儒学者で書家でもある藩士岡田左太夫光雄
による。

碑文

神祖大君営趾之碑

相模国足柄下郡今井邨
神祖大君営趾碑
      従四位下侍従加賀守小田原城主大久保忠真製文并題額
天正庚寅豊閤小田原之役   我神祖大君率師援之従間道踰箱根陥新荘足柄鷹巣三城遂軍
于酒勾十一世祖七郎右衛門諱忠世與其子相模守諱忠隣共従戒行忠隣子加賀守諱忠常別陪 
台徳大君軍営時年十一歳是役也諸将皆陣于箱根而   大君獨保今井一色海濱當時有柳川
和泉泰久者居今井邨   大君據其宅地権設営壘其遺趾今尚存焉一色邨中有一柵壘亦當時
忠世所築今為邨長四郎右衛門宅地家蔵刀匠康春鍛造刀一口並古鏡一面伝為刀忠世所与鏡春
日局所與云営趾之東北繞酒勾川四方有塁高丈餘遶壘有塹今為水田西南行数十歩有城脚今為
畛畦有地稱御馬入口有稱御馬出口又有稱御馬立場有一松稱御幟桂松在 祠之南偃盖老蒼龍
鱗挺秀其為當年物不容疑也又有一松稱御馬繋松蓋旧株朽頽後更裁新株以標其処耳泰久之子
称忠兵衛元和三年私就営壘剏   大君祠焉事 聞八年 官因 命改造焉至寛永七年 賜
営趾地於忠兵衛永除租入元禄中地震 祠壊又損私貨修造之子孫相継奉祀事以至于今今稱市
郎左衛門者實為泰久九世孫也其家寳蔵   大君所御之刀一口槍一幹刀則係刀匠則宗鍛造
盖方 大旆凱旋之日所 賜泰久之物云恭惟   大君営趾之存于他方者為不復少而存吾封
域者亦不可不表見焉但雖有記載歴歴可微如此恐楮墨易敞不能×保於是謹掇記顛末耈諸貞珉
以謀永傳爾
   天保七載歳次丙申九日辛巳朔十七日丁酉建      家臣岡田左太夫光雄謹書
                              刋字入宮亀年 以


注)本文、後ろから二行目×の一字、削られていました。

 

 

                              

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小田原福厳寺 天桂院墓

2024-03-07 | 小田原

JR小田原駅から北東に約1k、山王川右岸に曹洞宗圓通山福厳寺がある。


ここに久松俊勝と再婚した徳川家康生母伝通院の娘で、竹谷松平六代目家清に嫁いだ天桂院の墓が残っている。家康関東入国に伴い、家清は武蔵国児玉郡八幡山に一万石を与えられ、天正十八年(1590)十月、その国替えの途中、小田原今井の陣屋で天桂院は亡くなった。遺言により福厳寺に埋葬されたと伝わる。

新編相模国風土記稿福厳寺項に「圓通山と號す。曹洞宗(駿州阿部郡敷地村徳願寺末)、永正元年僧大用晨甫起立(本山世代、大永二年五月廿一日卒)、其頃は福門寺と號す(按ずるに古戰録に蘆子川角櫓より一町許上に當り、小田原城構の外に、昔福門寺と云る寺院の蹟方一町が程、小高き地に、塀を懸土居を作ると見ゆれば、往古と寺地の轉遷せし事知べし、今の地域小高き地にあらず)、三世徹巌の時、皆川市正通嚴、中興開基せしかば、大永二年今の寺號に改めしと、寺記に見ゆ。天正十八年十月、六世安州闔宅、台命を受、天桂院殿の御導師を勤め、則境内に葬し奉る、客殿に御位牌を安置す。天桂院殿御寶塔一基。本堂の背にあり、五輪塔なり、(高一尺五寸許)天桂院殿は、東照宮の御妹にて高瀬君と稱し、松平玄播頭家清か室とならせらる。(寛永譜曰、松平與次郎家清、後に玄播頭と稱す、天正九年、大權現御妹を娶せ、御諱の字を賜る)寺傳に天正十八年十月十七日、今井の御陣屋(郡内今井村に御舊蹟あり)にて逝去し給ふ(按ずるに、天桂院殿此御陣所にて逝せられし事疑ふべし、蓋御國替の折なれば、御旅中御不例に因て、御陣所の未毀たれざりしを以て、幸に爰に入奉り、御養生などありしにや)、時に曹洞宗寺院に葬るべきの御遺言に任せ、當寺に御葬埋ありしと云、御法名天桂院殿月窻貞心大禅定尼と稱し奉る、是より年毎に、佛供料を其家より(今子孫旗下の士、松平主水清良なり)贈り、且海道通行の序には自拝あり、又毎年の忌日に小田原城主より代拝の儀あり、(按ずるに家譜に據に、玄蕃頭家清室 神君御妹、天正十八年十月十七日死、廿二、號天桂院殿月窓貞心大姉、葬所武州八幡山、一寺起立仕、號月窓山天桂院、後年三州吉田へ改葬、又同國西郡へ改葬、右寺も同所に移す、其後慶安二年、天桂院全榮寺を一箇寺に仕、龍臺山天桂院と改と見ゆ、 されば始武州兒玉郡八幡山に、天桂院を建て御葬地とし、後三州へ改葬せられしなれば、當寺御葬地なりと云事覺束なし、されど今に主水の家、及び領主より香火の奠あれば、別に故あることなるべし)」とある。「別に故」とはどんな理由なのだろうか。

小田原城天守閣跡から福厳寺を結びさらにその延長上560m先に小田原北条氏と豊臣秀吉との小田原合戦で徳川家康が布陣した跡に「神祖大君営祉ノ碑」がある。

蒲郡 龍台山天桂院

 

 

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蒲郡西浦 光忠寺

2024-02-27 | 

名鉄蒲郡線西浦駅から500m、東に歩いて約10分、形原松平家菩提寺の法林山樹祥院光忠寺を訪ねた。

地図を見ると、この寺の北東500m位に形原松平氏居城だった形原城跡があった。城からみると光忠寺は未申(南西)の方向、裏鬼門になる。形原城の丑寅の鬼門は竹島の八百富神社では話が飛躍しすぎか。光忠寺は何時頃創建されたかは不明だという。「寛政重修諸家譜」では初代松平興副は松平信光の四男で永正年間(1504~1520)にこの地で死す、としており、法名光忠、形原の光忠寺に葬る、興副を開基とする所なりとある。それから二百五十年ほどのちに一族の丹波亀山藩家老松平敏が形原松平家五代家忠までの記録を編纂したという「形原記(形原遺事記)」では、信光の一男左京亮守家は竹谷の祖、二男右京亮親忠は安祥家と称し、三男與福は形原の城に居住し、形原家の祖とし、與福弟の光則(光重)は一寺を創立し興副を葬り法林山光忠寺と号し、菩提寺とするとあった。興副が形原に移り住んだのは何時の事だったのだろうか。「松平記」に松平氏親氏を初代として三代信光のとき、松平郷松平氏系統は岩津、形原、安城、大給、岡崎、竹屋、五井、長澤の松平家のみで、他の数多い松平を称する家は同名他家としている。文亀元年(1501)の大樹寺文書に興副の弟光重の子で形原左近将監貞光の名があるという。形原を名乗っていた二系統の松平氏がいたことになり、興副系の形原松平と光重系の大草(岡崎)松平との関係で大草松平二代親貞は光重の子親忠と同一人物という説もある。形原松平家にきて、徳川の十四松平、十八松平とも称される松平庶家間の関係が混同してわからなくなってしまった。

「光忠」も実名なのか法名か判らないが、本堂の左手手前に綺麗に整備された墓域に形原松平家、初代興副(与福)、二代貞副、三代親忠、四代家広、五代家忠の墓碑があった。



光忠寺は藩主形原松平家のお供寺として下総佐倉、摂津高槻、丹波篠山と移り、亀山で明治維新を迎え、六代から明治維新に至る亀山藩主最後の十八代信正と十九代以降の形原松平家の墓碑は亀岡の光忠寺(浄土宗総本山知恩院末寺)に祀られているという。桶狭間の戦いで今川義元討死により松平元康(家康)は今川方より離反、その時、東三河の武士団は元康に帰属したが、永禄五年(1561)三月、今川氏真は離反した武将(形原松平四代家広妻、竹谷松平四代清善娘、西郷正勝妻等)の人質十三人を龍念寺(龍拈寺)前で誅殺し中野新田に葬ったという。
(老津 太平寺から十三本塚へ)

形原松平氏の家紋は丸に利の字紋、馬印は利剱是。永禄元年(1558)、尾張の織田信長に寝返った鈴木重辰と今川氏麾下の松平元康は豊田寺部城で戦った。その帰途、織田勢の奇襲に会い、大樹寺に逃げ込み応戦した。応援した大樹寺の僧徒が旗として使用したのが「厭離穢土欣求浄土」の大幡で、この時、松平家広が目印として「利剱即是」の幡を使い、戦いのあと「利」の文字だけ残り、あとは悉く切り裂けてしまつたと云う。主君元康(家康)は家広の軍功を褒め、「利」の一字を家紋にと命じた。小牧・長久手の戦いでは又七郎家信が「利即是」を馬印として使用したという。沼田頼輔によれば寛政譜で利文字紋使用は形原松平氏のみだそうです。
光忠寺本堂左側の墓域の中央、井戸のそばに形原松平氏支族の松平貞幹と松平但馬家の墓石があった。


墓碑によれば、貞幹は形原松平七代信直の七男で八代信道、九代信志、十代信彰の三候に宿老として、また十一代信豪の時には江戸家老として仕え、随筆「芝陽漫録」を残している。

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蒲郡 龍台山天桂院

2024-02-19 | 

蒲郡西郡の四大寺の一つと言われている天桂院を訪ねた。


四大寺はいずれも戦国時代初期の東三河の西郡(現蒲郡)の地方小豪族、五井松平氏、上ノ郷久松氏、下ノ郷鵜殿氏、竹谷松平氏の菩提寺で、天桂院は竹谷(たけのや)松平氏の菩提寺になっている。竹谷松平氏は寛政重修諸家譜によれば「左京亮守家は信光君の長男也三河国宝飯郡竹谷に住せしより竹谷の松平と称す」とあり、さらに守家の項に「文亀三年八月七日竹谷にをいて死す法名全裕竹谷の西の岳に葬る男守親のとき永正九年其地の北に一宇を建て龍台院と称しのち清宗に至るまで葬地とす家清がときこの寺を吉田にうつし全栄寺とあらため清昌のとき宝飯郡西郡にうつしのち吉田の天桂院と合わせて一寺とし龍台山天桂院と称す寺をうつすごとに代々の墳墓を改葬す」とあるので、清昌(八代)のとき西郡、今の蒲郡町荒子にある天桂院を建て墳墓を改葬し菩提寺としたことになる。竹谷松平氏初代守家法名全裕が葬られた竹谷の西の岳が判らず尋ねられなかったが、あとで地図に市立塩津中学校グランドの西南端に四基の五輪塔と竹谷松平四代の墓一基、守家(龍台院全裕)・守親(松寿院全孝)・親善(延常院全?)・清善(自得院全保)があり、五輪塔は竹ノ谷松平四代五輪塔として市指定史跡となっていた。竹谷松平氏は松平信光の子守家を初代とする松平氏の庶流で四代清善まで今川氏に仕えていたが、桶狭間で今川義元討死の後、岡崎に戻り松平元康(家康)に仕える。このとき今川氏真は松平側についた松平玄蕃清善妻を含む人質十三人を龍念寺(龍拈寺)前で誅殺して吉田近郷中野新田に埋めた(老津 太平寺から十三本塚へ)。


天桂院は六代家清の妻、久松俊勝の娘で、家康異父同母の妹(久松俊勝と家康の生母、水野氏於大の方の娘)。天正十八年(1590)、夫清善が家康より与えられた采地の武州八幡山に移動中、小田原今井の徳川陣場跡にて他界、その遺言により曹洞宗の寺、福厳寺に葬られたという。寛政家譜に「天正十八年十月十七日逝す、年二十二、月窓貞心天桂院と号す、武蔵国八幡山に葬り、一宇を建て天桂院となづく、のち三河国吉田にうつして其地に改葬す」とある(小田原の福厳寺は後述)。天桂院は夫家清の采地である武州八幡山(本庄市児玉)に葬られたのか、福厳寺に葬られたのかはっきりしないが、蒲郡の龍台山天桂院の竹谷松平氏の墓域中央に夫君六代竹谷松平家清(清寶院殿業雲全霜大居士)と天桂院殿月窓貞心大姉の墓が並んでいる。
竹谷松平家墓域

左(家清墓)  中央(天桂院墓)


法名で判った墓石は六代家清(全霜)の左から五代清宗(全栄)、四代清善(全保)。天桂院から右に七代忠清(勝全)、八代清昌(全達)、九代清直(全通)、十代清当(全参)、十一代義尭(全忠)、十二代義緒(全徳)、十三代義峯(全功)と並ぶ。塀で囲まれた竹谷松平氏墓域の入口に丸の内一引の家紋のある松平家先亡累代諸精霊の墓があった。


寛政家譜に「家紋 丸の内一引 五枚根笹 もとは三葉葵を用う、後嗣はばかりて一引にあらたむ」とある。竹谷松平氏墓域に行く途中に一族の婦女子の墓があった。

 

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蒲郡 正祷山長存寺

2023-12-22 | 掃苔

下ノ郷鵜殿氏菩提寺である長存寺は、久松俊勝菩提寺安楽寺、五井松平氏菩提寺長泉寺、西郡松平氏菩提寺天桂院と共に西郡の四大寺のひとつで、三河国宝飯郡誌によれば「開基慶長十五年三月 日存上人 檀徒千百六十四任境内に乗円坊(寛永十四年十二月創立)智積坊(寛永十五年三月創立)ノ二坊アリ旧寺領三石當寺ハ往昔天台宗ナリシト云う鵜殿ノ墓アリ」とある。


長存寺鵜殿家墓域の墓碑に、室町時代紀州熊野より当地に移り下郷城主となった鵜殿又三郎長存は深く法華宗に帰依し当時実相坊と称した当寺を信仰した。その後、長存子の又三郎玄長が越後本成寺貫主日意聖人に願って寺号を長存寺としたとある。

鵜殿家墓域


一乗院殿日庵 幽儀(鵜殿長照墓)
天文十二年 長存院日長 二月十七日
鵜殿家墓域墓碑銘
鵜殿又三郎長存公は室町時代紀州熊野より当地に移封せ来て下郷
城主であった 深く法華宗に帰依し当時実相坊と称した当寺を信仰
し保護されたので人呼んで長存の寺と言われた後にその息又三郎玄
長は越後本成寺貫主日意聖人に願つて寺号を長存寺として永く父の
霊を弔うた。ここに墓地整備の特を幸として寺号となつた長存公を
偲び新らたに五輪の塔を建て永く後世に伝えんとするものである。

鵜殿氏諸々之霊供養塔

鵜殿氏由来碑銘 
鵜殿氏ノ者藤原ノ姓ニシテ左大臣師尹カラ出テ中将実方ノ
末裔ガ代々熊野別当職ヲ世襲シ 長政ニ至リ初メテ鵜殿ヲ稱
ス 紀伊国鵜殿村ニ住シ之レニ依ツテ、家号也
 南北朝争乱ノ後 元 熊野山領三河国西ノ郡ニ還居 上ノ 
郷ヲ始メ下ノ郷 柏原 不相 五井ニ築城 其ノ勢当時十二
万石ト云ウ 一族等中法華経ヲ信仰シ当地ニ長応寺 長存寺
ヲ建立 広ク参遠ニ位シ歴代今川氏ニ属ス
 悲シキ哉 永禄年中長照ガ時 鵜殿一族ハ徳川氏ト千戈ヲ
交エ城邑ト共ニ長応寺モ兵火ニ遭イ破廃ス  其後一族等ハ
悉ク徳川氏ニ隷属幕下ノ士トナリ 分レテ水戸 鳥取 島原
高松 阿波 長岡ノ諸藩ニ仕エテ明治ニ至ツタ 我ガ系ノ祖
 長照ガ末弟長法也 其ノ子長清 武田万千代君ニ仕エ四百
石 後 代々水戸藩ニ仕エ連綿ト続キ 今 家祖長近カラ十
五代ノ後裔也  今日 縁シノ地 蒲郡ニ家祖長近ノ五百回
忌ト諸々ノ鵜殿一族ノ霊ヲ併セテ供養シ 長存墓碑再建ノ側
  地ニ此ノ碑ヲ建立シテ永ク鵜殿氏由来ヲ銘ズルハ望外ノ
   喜ビトスルトコロデアル
    昭和四十八癸丑年四月
     家祖藤太郎長近十五代ノ孫  鵜殿 学  識

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安楽寺久松俊勝宝筺印塔から鵜殿長照墓所へ

2023-12-16 | 掃苔

西郡の四大寺の一つだという安楽寺に向かう。西郡の四大寺とは蒲郡の五井町の長泉寺、清田町の安楽寺、蒲郡町の天桂院、上本町の長存寺で、安楽寺は。三河十二本寺のひとつともいう。三河十二本寺と云うのは三河地方にある十二の浄土宗西山深草派寺院の総称で京都中京区の浄土宗西山深草派総本山誓願寺に次ぐ中本山の格式を持つ寺だと云う(蒲郡の安楽寺、岡崎の法蔵寺、崇福寺、圓福寺、浄珠院、大林寺、梅園誓願寺、西尾の不退院、桂岩寺、養國寺、養寿寺、恵験寺の十二寺)。蒲郡市観光協会公式サイト「安楽寺」の説明にまぼろしの西郡四大寺とあり、何が幻なのか解らなかったが、西郡四大寺とか三河十二本寺という呼び名は、地元での認知度は高いのだろうか。


安楽寺は山号を楠林山、院号は和合院、浄土宗西山深草派寺院で、応永十五年(1408)開基は本山龍芸上人。本尊は天台宗勧学院別院和合院の阿弥陀。勧学院が衰退し、その荒堂より楠林の精舎に移し、旧号並べ楠林山和合院とした。永禄五年(1562)、上ノ郷城主鵜殿氏の一族敗死の後、その戦功により尾州阿古居城主久松佐渡守長家(俊勝)が西郡城を賜り、之により安楽寺を菩提寺と定めたという。水野忠政の娘、於大は松平信元に嫁ぎ、広忠の長男竹千代(後、家康)を生んだが、兄、清水信元が今川氏に離反し、織田氏に属したため信元に離婚され、のち久松長家(後、俊勝)と再嫁した。本堂に安置してあった伝通院の位牌は、残念なことに平成27年(2015)10月の火災で焼失してしまったという。


仮の建物の近くに久松俊勝宝筺印塔があった。この安土桃山時代の久松俊勝宝筺印塔と江戸時代建立の安楽寺山門は市文化財に指定されている。安楽寺から西に5~600mの所に上ノ郷城跡があり、さらに西に400m位の先に鵜殿長照墓所が地図に載っていた。さほど遠くないと寄ってみた。ミカン畑に囲まれていて目印もなくたどり着くのに大変だった。


蒲郡市博物館のパンフレットに鵜殿長照墓所は神ノ郷町西門前又十墓地だとある。又十とは名前なのか、地名なのかよく判らなかったが、西門前の東側は東門前という地名になっている。城の北西に久古山正行院がある。三河国宝飾郡誌に「往古は久古山妙了寺と称し鵜殿家菩提寺なりし処永禄五年鵜殿落城の際廃頽し釈迦堂の名のみ存せりしを延宝六年二月再興し久古山正行院と号す」とある。さらに長応寺跡の項に「往古は久古山妙了寺の末寺にして永禄五年焼失により時の僧日応上人江戸皆咎門内(現日比谷)へ移転し其後芝高名輪に移り現今芳荷山長応寺と云これなり長応寺は鵜殿家代々の菩提寺にて七堂の寺なりし由なりと云」とあり、西門前には妙了寺末寺の勝光坊が永禄五年に焼失により廃寺となるとの記載もある。長応寺が具備すべき堂塔、七堂を全て備えていた寺だとすればかなり大きな寺だったと思われる。鵜殿長照墓所は旧長応寺の境内の中だったのだろうか。鵜殿長照は今川氏の武将鵜殿長持の嫡男で、桶狭間の戦いのとき大高城の城代で、この城に兵糧を運びいれたのが松平元康(後の家康)。桶狭間の戦いの後も今川方に属していた長照は松平勢と争い、永禄五年(1562)、家康勢に長照の上ノ郷城を攻められ落城、長照は討死、長照子の氏長と氏次は捕らえ、その後、駿府に送られていた家康の室築山殿と子信康との人質の交換となった。

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東三河 龍田山長泉寺

2023-12-09 | 掃苔

蒲郡五井の長泉寺を訪ねる。


参河誌によれば建久五年(1192)源範頼が国司のとき、奉行安達盛長が三河に七堂を建立、七箇寺と呼ばれその一つが龍田山長泉寺で、青龍山金蓮寺、煙巌山鳳来寺、赤岩山法言寺(現赤岩山赤岩寺)、船形山普門寺、陀羅尼山財賀寺、御堂山全福寺(廃寺)合わせて七堂が三河七御堂と呼ばれている。


本堂左側の渡り廊下の上に鐘楼を乗せた渡殿の先の本堂裏手に安達藤九郎盛長の五輪塔があった。墓とも供養塔とも言われている。盛長は鎌倉幕府に仕えた有力御家人で、伊豆に流された源頼朝に仕え、その後、奥州合戦の軍功により陸奥国安達郡を賜り、姓を安達と替える。正治元年(1199)、頼朝の死後、二代将軍源頼家の宿老として十三人の合議制(鎌倉幕府の集団指導体制)の一人となる。妻は源頼朝の乳母(比企尼)の娘丹後内侍。
戦国時代、五井に進出した五井松平の初代は諸説あり家譜もはっきりしていないが寛政重修諸家譜によれば、松平信光の七男忠景を祖として深溝松平忠定の兄、元心(長勝)を二代、信長を三代としている。永正五年(1508)、長勝は長泉寺を五井松平の菩提寺として再興し、天台宗から曹洞宗に改め、号を龍田山、開山は祥山恵禎、田原大久保の長興寺末寺となっている。祥山恵禎は曹洞宗雲龍山長興寺四世で満珠山龍海院を開山した模外惟俊の弟子で、のち長泉寺の本山長興寺の五世住職となっている。寛政重修諸家譜、五井松平忠景に記載のある「忠景より太郎左衛門景忠にいたるまで五井を領し、文明十七年七月十四死す、、、、これより景忠に至るまで葬地とする」とある。


五井松平家五代の墓をさがした。寺墓地の奥に無縫塔が並び、その横に一列に並んだ石塔があった。


これが五井松平五代の墓かと思ったら、石塔は六基、しかも大きさ順に並んでいる。左側三基が五輪塔の塔身(?)の上に宝篋印塔の笠を載せその上に受花、宝珠を乗せている。左から四基目に五輪塔、五基、六基目は五輪塔の笠から上が落ちた状態であった。六基並んでいるので、どれが五代の石塔か不明で、結局、五井松平家五代の墓は何処だかわからなかった。むしろ、途中にあった石塔群のほうが年代的に古そうな感じだった。忠景・元心・信長・忠次・景忠までの墓は別にあるのだろうか。天文四年(1535)安城松平四代広忠(家康父)は桜井松平初代信定と争いになり岡崎から伊勢に逃れた。五井松平三代信長も領地を捨てて広忠に従う。天文六年(1537)、広忠は再び岡崎城主となった。五井松平四代忠次は天文十六年(1547)、松平広忠に離反した一族の松平信孝(三木松平初代、家康の大叔父)勢と渡河内において戦い討死。父忠次が戦死のとき、嫡男景忠、六,七歳の幼年のため広忠の命により叔父の信次(忠次弟)に家政を執らせたという。六代伊昌は伏見城代となり大坂天満の正泉寺に葬られ、七代忠實は采地の海上郡岡野台(現銚子市岡野台)等覚寺に葬られる。

安達藤九郎盛長五輪塔は蒲郡市文化財として指定されている。

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幸田本光寺 深溝松平家墓所

2023-12-02 | 掃苔

愛知県幸田の本光寺は深溝松平家の菩提寺であり墓所になっている。深溝という地名、読名は「ふこうず」だと言う。深溝松平家の出自は十八松平という。十八松平は三河松平氏の庶家十八家のことで、寛政重修諸家譜でどこが十八の松平に該当するか探してしまった。三河松平氏のどの庶家が十八松平を指すかは書物によって異なるとウィキペディアにあった。一説によると松の異字体枩をばらして十八も数にしたとも伝わるが本当なのだろうか。三河松平の宗家は泰親の長子信広の松平郷松平家ということになる。三河の地名が分からないこともあるが、三河松平家の系譜を見ても親、忠、家、重とかの通字が入り混じっていて、すぐどこの松平氏かわからなくなってしまう。松平家の簡単な系図を作ろうと始めたが多すぎて直ぐ諦めた。寛政重修諸家譜の清和源氏義家流松平諸流略図にある新田太郎義重を遠祖、はじめ三河国松平郷に移り住み松平と称した親氏を初代として、二代泰親、三代岩津松平祖信光、四代親忠の孫長親は徳川家康の高祖父になる。寛政譜によれば松平信光の七男忠景の二男忠定を深溝松平家の祖とする。二代好景、東條の吉良義昭と善明堤の戦いで討死、三代伊忠、武田勢との長篠の戦いで討死、四代家忠は関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城で豊臣勢と戦い籠城討死、二代から四代まで家康に従軍し、何れも戦死している。
深溝松平家墓所は山門を潜ると正面の本堂への参道左側に初代から四代までと十一代忠祗の墓と五代忠利の肖影堂がある西廟所と山門右手の奥に六代忠房から十一代忠恕を除く十延滞的に九代忠諒までの墓がある東廟所に分かれる。

 

山門を入りすぐ右手の五輪塔は深溝松平十三代忠侯室天妙院(近江彦根藩十五代藩主井伊掃部頭直亮娘)と右隣は十五代忠精室俊光院(出羽国庄内藩八代藩主酒井忠器娘)の五輪塔がある。
東廟所


六代忠房墓と永春院墓

東廟所は六代忠房の室(永春院)の逝去に伴い新たに松平家墓所として造営された。忠房は吉田神道に帰依し忠房以降、神殿型墓標に葬られている。深溝松平家の正室、側室、庶子女の菩提寺は青山玉窓寺、中野宝泉寺としている。五代忠利から十七代忠愛までの藩主十三名が死没地にかかわらず、深溝の本光寺に埋葬されている。深溝への遺骸の埋葬は、五代忠利の遺命と伝承されている。
西廟所
初代から四代墓所


初代忠定墓           二代好景墓

三代伊忠墓           四代家忠墓

十一代忠怒石祠

左)六代長男好房墓   右)松平次章墓

深溝松平家では菩提を弔う「菩提寺」と廟の管理を行う藩士による「廟守」とに分かれていた。昭和の初めに寺に墓所の管理を一元化した。廟守は島原藩士とその子孫により昭和九年まで二百五十年近く続けられたという。

西廟所にある亀跌碑の向きが気になっていたが、航空写真をみると東廟所も全体的に真南を向いていない。西廟所にある亀跌碑は真南に対して反時計回りに約5度、東廟所の地形は真南に対して時計回りに約3度南北の軸から向きを変えている。亀跌碑の向いている延長線は450m先の深溝字権行寺にある素盞鳴神社本殿にぶつかった。東廟所中央の延長線上もこの素盞鳴神社の境内を通り山門の先で亀跌碑の向きの延長線とぶつかった。三河には素盞鳴神社が多くある。深溝素盞鳴神社の情報は何も分からなかつたが、祖宗紀功碑である亀跌碑の向きが、偶々素盞鳴神社の方向を向いていたのか、それとも何かほかの理由があるのだろうか。

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三ヶ根 瑞雲山本光寺

2023-11-26 | 

夏、渡り蟹のシーズンかと思い海岸に近い蒲郡に宿を取り、東三河に行った。最近では蒲郡付近の漁港の船は、深場の魚を主に獲っていてカニ漁の漁師はいないと聞いてガッカリする。初日は隣の幸田町深溝にある深溝松平氏の菩提寺、瑞雲山本光寺を訪ねた。

無人駅のJR三ヶ根駅からお寺の山門までは緩やかな登坂で僅か500m。標高差はたかだか20mだが、歩きでこれがきつかった。考えたら現在、JRでの最急勾配は40‰(1000mで40m上る)と同じなので無理もないと納得する。


深溝松平氏家紋
左:五本骨開扇紋(五代忠利使用紋) 
右:十本骨重扇紋(六代忠房嫡子好房使用紋)
   
本光寺によると大永三年(1523)深溝松平忠定が松平家の祈願所、菩提寺として建立、開山は曹洞宗血脈十五世希声英音禅師と伝える。三河国額田郡誌によれば創立は享禄元年(1528)、また三河堤では「寛文九年(1669)大炊頭忠房に肥後松原城を賜う此本光寺を彼の地に建立せらる依て深溝を本山とす、又深溝は島原を本山とす、相本山と云ふ」とある。本光寺は始め、JR三ヶ根駅西口から北西に600mほどあたりの向野墓所付近にあったが、家康関東移封に従い四代家忠も関東に転封、本光寺もお供寺として関東忍に移転した。慶長六年(1601)、五代忠利が深溝に転封され本光寺を再建、初代から四代墓所を整備したが、その場所は向野墓所なのか現在の本光寺の深溝松平家墓所なのかは特定できてないという。慶長十七年(1612)、忠利の三河吉田に転封により深溝の本光寺は端渓山源光寺と改称、忠利から家督を継いだ六代忠房は寛文九年(1669)肥前島原に転封となった。寛文十三年(1673)、源光寺を本光寺と改称し深溝松平家の菩提寺とし藩主の埋葬地とした。向野墓所(深溝西向野)に行くことは出来なかったが、ここに初代松平忠定と二代目松平忠景の首塚と呼ばれる碑があり、万治元年(1658)福知山藩主の深溝松平六代忠房が父祖所縁の地としてここを訪れたという。本光寺の六代忠房が建立した五代忠利を祀る肖影堂は補修のためかテントに覆われていた。その後ろの一段と高いところに亀跌碑があった。

二人の若い女性が亀の首に向けてお金を投げていた。何をしているのかと思ったら横の説明板に「願掛け亀 寛文12年(1672年)建立 参拝者の願いを聞きかなえるため、大きな耳がついている。亀のエリ首(ヘコミ)にサイ銭が入ると願いがかなえられ、万年幸せとなる。福知山城主忠房が領民のため10年がかりで作られた」とあった。万年幸せとなる説明では教育委員会も驚くだろう。この亀跌碑の碑文は史料によると、
参州額田郡深溝本光寺碑銘 
向陽軒林怒之道撰(林羅山三男、字は子和、号は向陽軒)
終行に
萬治三年庚子(1660)八月朔日
丹州福知山城主従五品 主殿頭源忠房立之
碑文に「忠房祖先墳墓之所在大夫立碑欲刻其世系履歴業傳於後世以不忘其本」、「墳在故里 寺曰本光 碑石新立 銘刻以彰 孝志追遠 武名無彊」とあり、残念ながら願掛けや領民の為を思う文字は出てこないが、同行した妻がエリ首にお賽銭を何回か投げていたのを見てガックリする。

撰文が萬治三年(1660)、三河深溝に建立されたのが寛文二年(1672年)七月、完成まで十年以上掛かったことになる。亀跌碑の前にある肖影堂に対して正確にはわからないが五度程度向きが異なる。亀跌碑の向いているところは何処なのだろうか。先祖の為に作らせた碑が五代忠利を祀った肖影堂と向きが異なるのは不思議に思う。元禄、寛政時の寺領絵図では肖影堂の後ろに亀跌碑が平行に描かれていた。十一代忠祗墓所はほぼ真南を向いて建てられている。いつの時代か分からないが肖影堂の向きを南に動かしたのだろうか。

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