源範頼の墓から修禅寺に向かう。途中、桂谷八十八ヶ所標の道の標識があった。そういえば源範頼の墓の所に 八十一番 四国香川綾歌山白峯寺 本尊千手観世音菩薩の石碑があった。
桂谷八十八ヶ所は昭和5年、丘球学修禅寺三十八世が四国八十八ケ所霊場の土を修善寺に移し桂谷八十八ケ所として弘法大師の像と札所本尊の梵字、寺号を刻んだ石碑を建立したものだという。桂谷八十八ヶ所案内図に「桂谷・けいこく」と音読みで振り仮名をつけている。地名の桂谷、桂川など「かつら」と訓読みなのでなにかややこしさを感じる。霊場巡りは年寄が多い。頭の鬘に気を配ったのかなと思ったが、修禅寺八塔司の東陽院、真光院、放光庵、松竹院、梅林庵、日窓寺、半経寺、正覚院のうち、いま一院だけ残る修禅寺奥の院正覚院が、弘法大師が修行址の桂谷の山寺で、修禅寺の本地だと云われている。お寺は基本、音読みなので「けいこく」というのも有りなのかなと思うが、無駄に煩雑さをかんじる。
修禅寺の正式な呼称を「福地山修禅萬安禅寺」としている。
寺伝によると、弘法大師十八歳の時、来りて悪魔降伏も法を修す。のち大同二年(807)再来りて仏像数体及自像を刻み安置し真言宗福地山修善寺を草創。その後、建長年間に臨済宗に改め、建治年間に村名はそのまま修善寺として、山号は肖廬山、寺号を修禅寺とし福地肖廬山修禅寺と改めたという。延徳年間、小田原北條氏は隆渓禅師(北條早雲の義叔父)に重修させ、曹洞宗に改宗している。明治時代の地誌には肖廬山修禅寺とも福地山修禅寺とも記述があるので、正式に福地山修禅萬安禅寺と称したのは何時からだったのだろうか。修禅寺を世に知らしめたのは、岡本綺堂作戯曲「修禅寺物語」が明治四十四年、明治座で初公演されてからだろう。家に戻ってから慌てて修禅寺物語を読んだ。前書きに「伊豆の修禅寺に頼家の面といふ面あり。作人も知れず。由来もしれず。木彫の假面にて、年を経足るたるまゝ面目分明ならねど、所謂古色蒼然たるもの、観来つて一種の詩趣をおぼゆ」とある。岡本綺堂が参考とした古面は修禅寺の端宝蔵で見てきた。写真は端宝蔵の入場券から転用させて貰いました。
修禅寺物語は面作り師・夜叉王は伊豆修禅寺に押し込められた将軍源頼家から面を依頼されていたが、満足のゆく面ができないでいた。出世を望む夜叉王の娘も巻き込み、頼家が持つ死への運命まで予見してしまう名人の物語ですが、最後の部分が凄まじい。頼家の冥途のおん共と、死直前の娘に、(夜叉王)「やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写ししておきたい。苦痛を堪えてしばらく待て」、「娘、顔をみせい」。(娘)「あい」。この親子、我が娘の断末魔を写し取る親と、死直前に顔を見せろと云われて「あい」と答える娘と、どちらが凄まじいのか分からなかった。綺堂は日露戦争に記者として従軍し明治四十二年この修禅寺物語を書き上げた。芝居が上演された明治四十四年、戦争が終わり、社会主義運動が高まっり、幸徳秋水らが大逆事件で処刑された年で、殺伐とした時代に上演された修禅寺物語を人々はどのように捉えていたのだろうか。綺堂は、室町時代末期の能役者が死に行く妻の面影を描き写し面の基としたという話と江戸時代初期の能役者が、誤って子を死なせた乳母の半狂乱の様子を見て演技を会得した話から修禅寺物語を作り上げたという。
修善寺に行った。三島駅で駿豆線に乗り換える。後発の電車がアニメの国木田花丸と黒澤ルビィのラッピング車両で、1本遅らせようかと思ったが修善寺でのバス乗合せ時間のため予定の電車に乗る。車内は思ったよりガラガラの一車両5.6人で、結局、終点修善寺駅で降りた客は10人程度で、ラッピング車両に費用をかけて採算が取れるのだろうか。バスを待っている間キョロキョロしていたら、地名の修善寺とお寺の修禅寺とで文字が違っていた。今までまったく気が付かなかった。
大昔は桂の里と称え、また桂谷・泉の里と呼んでいた。桂谷というのは、弘法大師が唐から携え帰った桂の杖を達磨山の源に立てて置いたものから、芽を吹き枝葉を生じたのが桂谷の桂の樹で、それが川の名となり、里名となったと伝わるという。終点のバス停から修禅寺までは約200m、修禅寺の手前にある日枝神社に寄った。
市の説明に「日枝神社は修禅寺の鬼門に当り、弘法大師の建立と言われている。明治元年(1868)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であった。また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある」とあり、信功院跡として、修禅寺の八塔司の一つである信功院のあった所で、建久四年(1193)、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉され、翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範朝は防戦の末に自害したといわれ、信功院は後に庚申堂となり、今は文政元年(1818)建立の庚申塔が一基残っているだけだという。
日枝神社の西、三,四町に小山と云う処の林の中に石塔があり源範頼の墓と伝わる祠あり、明治十二年九月、土地所有者の小山清三が祠の傍を開墾中に篇石で壺口が覆われた骨瓶を見つけた。中には焼骨が納めてあり、里民の口伝と同じであり、再び埋蔵してのちの世に伝えようと碑石を立てたという。源範頼の墓は苔むした五輪塔か宝篋印塔だと思い込んでいたら、コンクリートで台を固めた墓で、なんだこれはと言う感じだった。祠の傍に静岡県士族岩城魁撰文による「蒲侯碑」が残っていた。
吾妻鑑では建久四年(1193)八月、「參河守範頼書起請文。被献將軍」とあり、十五日あとの十七日、「參河守範頼朝臣被下向伊豆國。狩野介宗茂。宇佐美三郎祐茂等所預守護也。歸參不可有其期。偏如配流。當麻太郎被遣薩摩國。忽可被誅之處。」とあるだけで、自刃したとも、殺害されたとも記述はない。しかし、翌日の十八日、「參州家人橘太左衛門尉。江瀧口。梓刑部丞等。砺鏃籠濱宿舘之由。依有其聞。差遣結城七郎。梶原平三父子。新田四郎等。則時敗績之」として範頼の郎党を排除し、さらに廿日、「故曾我十郎祐成一腹兄弟。京小次郎被誅。參州縁坐」と参州(參河守範頼)の縁坐として曽我兄弟の兄、京小次郎を誅殺している。北條九代記にも建久四年八月三川守範頼被誅とあり、やはり範頼は修善寺で誅殺されたのだろう。範頼墓は下の道路から直線で100m、標高差20m程度の高台にあるが、これが結構きつい。
範頼墓の傍に岡本綺堂の随筆に出てくる墓畔の茶屋、今は家屋を改造した和風喫茶「芙蓉」があった。
銅鑼を叩いて入店を知らせるのがいい。年寄には、小山を登ってきて、なにか一息ほっと出来る場所があるのが嬉しかった。
伊東の東林寺から北西の方向へ500mほど歩いて、10分位の伊東大川の右岸に音無神社がある。
音無とは不気味だが神社の裏手には松川遊歩道が通っている。松川遊歩道は伊東大川沿いの音無町から河口までの約1キロの遊歩道だが、県ではこの川を伊東大川といい、伊東市では松川と呼んでいる。伊東大川上流にあるダム湖は松川湖と呼ばれており、県と市との間に何か軋轢があるのだろうか。
増訂豆州志稿に「音無神社祭神不詳、相殿八重姫。寛永十八年ノ棟札ニ云、豊御玉命トモ又豊玉姫共云ト又相伝フ伊東祐親ノ女八重姫ヲ祀ルト。音無杜ニ在リ源頼朝密ニ八重姫ト会セシ所、故ニ音無ト称スト云々」とあり、さらに「音無森、竹ノ内村ニ在リ傳云源頼朝、伊東ニ寓セシ日伊東祐親ノ女八重姫ト密ニ此森ニ会ス故ニ聲音ヲ悪メルヲ以テ此称アリト。其傍ニ音無川、不鳴瀬等ノ称アリ」また「源頼朝、八重姫ト会セントテ日ヲ此ニ暮ス故ニ名ク」と云う日暮森(ひぐらしのもり)もあったと云う。現在、伊東大川の対岸、桜木町(昔、岡村)に日暮神社がある。音無神社に二本のクスの巨木があった。
音無神社の東隣の最誓寺に向かう。門前に縁起の石柱があった。
「開創、鎌倉初期真言宗「西成寺」として建立さる。開基、北條二代の執権江間小四郎とその室八重姫の立願による。由緒、源頼朝が伊豆流配の折八重姫との間に一子千鶴丸をもうけしが平家の寵臣たる父伊東祐親の怒りに触れ「稚児が渕」に沈めしをその菩提を弔うため創建さる。変遷、慶長年間曹洞宗に改宗寺号も最誓寺と改め現在に至る。本尊、阿弥陀如来他に千鶴丸地蔵尊閻魔大王奉祀さる」とある。
伊東一族の墓前の説明に「一族の墓は東光寺及び東林寺に納められているが東光寺はこの地より南東0.5kの所にあって領主、伊東祐隆の再興によって栄えたが、徳川時代に至り伊東家のおとろえる同じうして江戸末期、ついに廃寺となり墓は当最、最誓寺に移されまつられるようになって云々、昭和三十四年本堂再建の時に整備供養され市文化財の第一号として指定され」とあり、さらに、八重姫と源頼朝との子、千鶴丸が稚児ヶ渕で殺されたあと、八重姫は北条家家臣江間小四郎に嫁ぎ、ゆるされてこの音無の森に一宇を建立し、西成寺と名付けたのが始まりだという。廃寺となった東光寺は伊東家の祖工藤祐隆(伊東家次)、法謚を東光院殿寂蓮といい、寺の再興開基にしてその法謚を寺号としたという。八重姫の再嫁先は伊豆国目代の平兼隆とも江間小四郎とも、はっきりしないが、江間小四郎が北条時政次男の北条義時の幼名だとすると、八重姫は頼朝の正室政子の弟義時のもとに行ったことになる。政子の生母は判っていないが、伊東祐親の娘が政子の父親北条時政に嫁いでいる。系図でも相関関係が複雑すぎて理解できなくなってしまった。
伊東七福神の一つで弁天さんを祀る、伊東駅の北西にある松月院にも寄った。
松月院は寿永二年(1184)に僧銀秀により真言宗の寺として松原村に創立、慶長十二年(1607)最勝院十二世宗銀により曹洞宗に転宗。のち寛文中激浪のため湮歿、宝永三年(1706)、僧亀丹により現地に移し再興したという。寺伝では中興の祖、鶴峰亀丹大和尚、享保七年(1722)弁天沢の高台に移し、山号を東源山から桃源山にしたという。