大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

虎に翼(三淵家の事)

2024-03-19 | 小田原

朝はお茶を飲みながらNHKの朝ドラをボ~としながらみている。家人が4月からの新しい連続ドラマは「虎に翼」だという。翼のある獅子と、どちらが強いかと馬鹿な話をしながら、誰の話かと聞いたら、なんでも小田原にいた三淵という名の女性裁判官の話で、何日か前の新聞に出ていたという。小田原で三淵氏と云えば戊辰戦争で責任を負い自刃した会津藩家老萱野長修の弟、三淵隆衛一族の事だと思った。慌てて新聞を探した。朝ドラ主人公のモデルは日本初の女性裁判官(東京地裁判事補)で隆衛の子、初代最高裁長官三淵忠彦の長男乾太郎後妻の三淵嘉子だと云う。
小田原三の丸ホールに写真パネル約10点、展示しているというので飛んで行った。以前、住んでいた近くの橋の架替え工事が平成18年(2006)に始まった。近くに会津藩江戸下屋敷があり、この橋が昔、肥後殿橋と呼ばれていた。近くのお寺には江戸で亡くなった会津藩士の墓碑が多く在ったが、年を追うたびに継承者が途絶えたのか、会津に改葬したのか、東京のある藩士の墓が無縁墓地として処分されてきた。今、残っているだけでも画像に残そうと「会津いん東京」というサイトを立ち上げた。諸士系譜や明治過去帳、東京掃苔録等を参考に東京にある会津藩士の墓標を探し回った。平成18年(2006)、新宿の正受院を訪ねた。ここ正受院は会津藩主松平容保公と二人の子供が大正六年(1917)、会津の院内に改葬されるまで埋葬されていた寺院で、何名かの会津関係者の菩提寺でもあった。ここに在るという三淵家の墓域を探したが、それらしき場所に見当たらなかった(現在ある湯河原出身の俳優、船越家の墓碑付近だったと思われる)。どこに改葬したか、お寺の若い僧侶に尋ねたが、分からないとのことだった。静岡藩に仕えた旧会津藩士林三郎惟純を調べていて、偶然白虎隊にいた西川鉄次郎のことを知った。新聞で昭和七年六月一日付、西川鉄次郎の葬儀広告を見つけた。葬儀が小田原板橋の興徳寺で行われたのを知り、興徳寺を訪ねた。住職の話では西川という檀家さんいないとの事とのだったが、近所に偉い裁判官が住んでいたと教えてくれた。小田原板橋地区のお寺を端から西川家の墓を捜し回った。偶然、広徳寺のお隣のお寺、霊寿院で見つけたのが新宿正受院から改葬された「三淵家の墓」で、しばらく立ち竦んでしまった。今年、近くの本屋の店頭で復刻版、三淵忠彦著「世間と人間」を販売していた。この随筆集の事は、北海道教育大学教授佐野比呂己氏による「教材 ろくをさばく考(三淵忠彦中心に)」で、存在は知っていたが、古本でも見つからなかった。「世間と人間」の中の「ろくを裁く」が昭和三十年(1955)発行の柳田国男監修高等学校国語教科書に収められている。忠彦が斗南藩所有の西洋型風帆船(栄丸、安渡丸)の操船技術を教えた軍艦運用石渡栄次郎の子、敏一の家に寄宿していたのを知って驚いた。「虎に翼」とは、強いものにさらに威力を加える例えだと云い、原典の韓非子難勢篇に「勢者便治而利乱者也、故周書曰、毋為虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之」とある。四文字熟語でいえば「爲虎傅翼」(虎の為に翼を傅(つ)く)で、五文字熟語では「毋為虎傅翼」と毋(なかれ:毋は母と別字)と否定の助詞が付いて、虎に翼を付けてはならぬと周書にあると韓非は云う。翼のある虎は人をえらんで食うとある。逸周書·寤儆解三十一篇では「無為虎傅翼、將飛入邑,擇人而食」とある。NHKの連続ドラマ「虎に翼」の作者吉田恵里さんが意図したタイトルとは少し意味合いが異なる様に思うが、どんなドラマになるか楽しみが増えた。いま小田原板橋に残っている三淵邸は甘柑荘と名付けられ保存会が設立されている。

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3 コメント

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山之内氏について (萩田八郎右衛門)
2024-06-10 10:22:43
突然のコメントを失礼いたします。
私は最近自分のルーツについて知りたくなり、原戸籍を取り寄せた者です。辿れる一番古いご先祖の名前が「萩田八郎右衛門」でした。ネット検索をかけるとこちらのサイトがヒットし
「葦名盛氏家頼諸士役附家名之事」の「小人頭十二人・外小人百二十人但一組に十人宛」の中に名前を発見しました。同姓同名かもしれませんが、少し興奮しました。この方はいつ頃の時代の方かご存じでしょうか。お忙しいところ恐縮ですが、お返事いただけると幸いです。
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山之内氏について (大佗坊)
2024-07-03 10:43:39
管理人の大佗坊です。
「葦名盛氏家頼諸士役附家名之事」は、天正の戦国時代、奥会津の武将、葦名・長沼・山ノ内・河原田の四家について書かれた「会津四家合全」の中の葦名氏家頼諸士役附家名之事に萩田氏の名があります。巻末に此四家合全誕葬歴代牌銘家継記之、吉川八郎九衛門政詮・杉岸因幡盛憲・星刑部丞秀長・山ノ内治部少輔俊之、寛永四年丁卯(1627)十二月と記載があり、元文三年(1738)戊午八月に山ノ内豊俊が子孫に傅えるため新に之を写したとあります。返事が大変遅くなり、申し訳ございません。
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Unknown (萩田八郎右衛門)
2024-07-13 20:25:32
> 大佗坊 さんへ
> 山之内氏について... への返信
ご回答ありがとうございます。
私のご先祖さまの萩田八郎右衛門は出生の記録がないのですが、その息子は1853年に誕生しておりますので、その辺りに生きていたとなると資料に掲載されていた人物とは残念ですが別人となるのかもしれません。
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