大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

日本のミケランジェロ 石川雲蝶

2017-12-28 | 

今回、大湯温泉の先にある栃尾又温泉に泊まった。
 
 
小出駅から約14kと離れていて、歩くかバスか車で行くしか交通手段がない。泉質は放射能泉(ラジウム泉)だが、昔は肌にビックリするほど気泡がびっしりと付いたが、今回、ガッカリするほど気泡が少なく、かけ流しから循環式温泉に変えたか、源泉がやせてしまったのだろうか。青白く輝いた気泡が懐かしい。小出駅の待合室で栃尾又に帰るバスを待っていたら、「日本のミケランジェロ 石川雲蝶」というパンフがあった。ミケランジェロを説明しろと言われても難しいが、石川雲蝶は、三条の酒井家に婿入り江戸の彫り物師で越後に多くの作品を残したとある。小出に近い西福寺(開山堂)と永林寺を訪ねた。西福寺は思ったより大きな古刹で驚く。
 
   
 
お寺の説明によると、赤城山西福寺は天文三年(1534)に芳室祖春大和尚により開山、寺院内の開山堂は安政四年(1857)に蟠谷大龍和尚により創建されたという。
 
この開山堂天井にある石川雲蝶による彫刻、「道元禅師猛虎調伏の図」は迫力満点だが、残念なことに撮影禁止で写すことはできないので、魚沼市観光協会のパンフから雰囲気だけ拝借! 

写真ではその迫力を感じられないので、ぜひ実物の拝観をお勧めする。小出に40年も通っていて石川雲蝶のことを全く知らなかった。バスの待ち時間、駅で魚沼市観光協会発行石川雲蝶のガイドブックを見なかったら雲蝶のことも何も知らないで終わってしまった。雲蝶の作品が多く残る永林寺に向かう。
 
 
お寺のHPによれば「永林寺は、五百有余年前に創建され、徳川家康の孫松平忠直公(作州津山藩祖)、その子松平光長公(越後高田藩主)の香華所として本堂建築を認可され、三葉葵の紋章を許された由緒深い曹洞宗の名刹である」だという。ここも写真撮影禁止なので、「作州 松平家香華所 幕末名匠石川雲蝶の寺」と書かれた図録の写真を載せさせてもらった。
 
 
 
境内に色々な石碑が建てられていた。なかでも、「信誠敬愛 六根笑浄 日本四大イシ会:日本イシ会、日本医師会、日本意志会、日本慰師会、と世界四大美笑女美人:クレオパトラに楊貴妃と小野小町に俺の嬶」には、笑ってしまった。

石川雲蝶パンフレット(外部サイト)(魚沼市観光協会)

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会津藩小出島陣屋跡

2017-12-22 | 會津

四十年ほど前、冬、小出に行った。本町バス停からな横道に入っていくと半分、雪に埋もれた大きな碑があった。現在の第四銀行横を入り、観音寺傍のなかよし中央公園付近で、思えばこれが懐旧碑だったようにおもわれる。
 
 
正円寺から交差している水路の前を左折すると前方に草木の生い茂っている所がある。ここに篆額書子爵松平容大、撰文高等師範学教授南摩綱紀による戊辰戦争懐旧碑と戦死者姓名、自刃した会津藩士の辞世の歌、松代藩士蟻川賢之助の歌碑があった。
 
 

懐旧碑の原文は明治二十九年七月に書かれたが建立は明治三十五年、序幕式は翌年の三十六年に行われ、同時に戦死者姓名の碑も建立された。陣屋跡に小出小学校が建てられ、明治四十二年小学校移転、その後、小出町役場が建設され、これも昭和六十一年に土地区画事業により移動された。
碑文にある「臣為死忠 懐舊感恩」、臣として忠に死す、旧をおもい恩に感ず。これは戊辰後、旧会津藩士が皆、心情に持っていた事に違いない。碑文中にある「四月訛傳江戸上野戦争事」、上野戦争の訛傳とは何を伝えたかったのだろうか。
 
四日町覚張常五郎宅で自刃した会津藩士は障子に辞世の句と輪形月としたためた添書を残した。「つつおとに鳴くねやすめしほととぎす 会津に告けよもののふの死を」 輪形の月は満月を表しており、望月も満月、この会津藩士は望月武四郎とみられている。
辰閏四月下旬 小出島の戦ひにみまかりし敵なからやさしきもののふの心根を吊ひて、松代藩士蟻川賢之助は「ほとときす魚野川邊の夏あらし とわに傳へよ波騒の聲」と弔意を表した。昭和六十三年六月、戊辰百二十周年記念事業として歌碑が建立された。この松代藩士蟻川賢之助の蟻川家は上州蟻川村で浪人の時、真田昌幸に召出され、信之に仕える。松代真田宝物館の刊行物「松代」によれば、蟻川賢之助は「名は直方、自強堂と号す。佐久間象山門下。吉田松陰と同門。蟻川は文久3年(1863)藩の鉄砲奉行となり、幕府の講武所砲術教授並びに書役となる。慶応4年(1868)の戊辰戦争で活躍。明治2年(1869)兵部大丞となり、在職数年で辞める」とあった。

懐旧碑文
越後国魚沼郡小出嶋舊係高田藩封地有陣営後為会津藩所領又建陣営以治魚沼三嶋両郡二萬四千石余地明治戊辰之乱罹兵燹為鳥有乱平里人請官建小学校其址頃里人胥議将建石記其事以弔戦死者之霊且表営址於萬世使不忘舊侯之遺澤請余文余問其戦状曰四月訛傳江戸上野戦争事営長町野源之助率部兵二十人及郷兵六十人往守国境三国嶺二旬餘寂然無聲因帰郷兵僅留部兵閏四月二十四日拂暁官軍突進発砲町野等力戦不能支退守小出嶋営報急於小千谷隊長井深宅右衛門率三小隊馳来山内大学亦率一小隊自会津至二十七日昩爽大戦官軍數千人而我兵僅二百人衆寡不敵退向六十里嶺我兵死者十四人余聞之愴然涙下曰當時抗官軍者今皆浴一視同仁之澤共為太平臣民而死者擉不得蒙其恩何其不幸也然闔校生徒読此碑而記其事仰懐舊侯之澤俯祭死者之霊則迷魂亦應永有所帰矣嗚呼諸氏建碑之志可請厚矣仰学校教人之道以忠孝為本今是挙関教育蓋非尠少也矣
銘曰
  為臣死忠 香骨不朽 懐舊感恩 民徳帰厚 刻之豊碑 可傳悠久
明治二十九年七月
高等師範学教授
正六位勲六等南摩綱紀撰並陸軍騎兵少尉正五位勲五等子爵松平容大篆額

懐旧碑横の碑記載の会津藩戦死者姓名
町野久吉、沢田傳吉、郡内半五郎、小沼雄八、好川瀧之助、望月武四郎、
渡辺源次郎、古川深次郎、佐藤源右衛門、小檜山包四郎、須佐留四郎、
湯浅六弥、松尾延蔵、樋口常作

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小出戊辰戦争史蹟(大塚墓地・正円寺)

2017-12-16 | 會津

小出町の戊辰戦死者墓は大塚墓地と小出保健所との境、墓域右奥にある。
 
 
戊辰閏四月二十七日、小出島戦の会津藩戦死者を正円寺の大龍和尚が官軍に請い、自費を以て立ノ内火葬場に葬り戒名を授け、墓を建てた。昭和4年6月、この大塚墓地内に戊辰戦死者墓を新たに建立、その際に和尚の建立した十名の戒名のある墓と樋口常作の墓碑が隣に移転された。
    
同年8月、東軍戦死者の墓参のため、海軍少将子爵松平保男と町野主水嫡男陸軍大佐町野武馬一行が小出を訪問している。大塚墓地には戊辰戦死者墓と明治二年一周忌に大龍和尚は与えた十名の戒名を記した墓碑を建立する。この十名とは小出島と四日町における会津藩兵の戦死者、町野隊 佐藤源右衛門、井深隊 望月武四郎、渡辺源次郎、松尾延蔵、郡内半五郎、沢田傳吉の六名と戦傷小千谷にて斬首された町野隊 小檜山包四郎、古川深次郎の二名、青島村で自刃した井深隊 樋口常作、堀之内で斬首された山ノ内隊 須佐留四郎の十名と思われる。傍に負傷して青島にて自刃した樋口常作光孝の墓が残っている。

村の重立が協議して林泉寺より慶應四年の盂蘭盆会に戒名(鉄應義膽居士)を受けて建てられたという。「戊辰小出島戦争百二十周年記念誌」にあるエピソードが記載されていた。「四日町では捕虜となった山ノ内隊の某二人があり、堀之内に連行勾留されていたが、松代藩兵横田某の行為で一旦脱走したが、一人は再び捕えられ同所の川端で斬られた。五月四日のことであろうか、姓名は須佐留四郎のようにかんがえられる」とあった。この松代横田氏は戦国時代の武将、会津山ノ内氏勝の弟横田大学の子孫ではないだろうか。
大塚墓地から大龍和尚碑のある稲荷山正円寺に向かう。水に関係ありそうな名前の清水川辺神社を通って正円寺に行く。小出を訪れるのは殆ど雪の積もった時期が多かった為、町なかを水路が勢いよく流れているのに気が付かなかった。
神社の脇を水路が交差して流れるのをしばらくの間、眺めてしまった。冬、小出は豪雪地帯で除雪のときに水が道路に溢れないようにする知恵なのだろうか。

正円寺入口脇にある教育委員会の説明に「大龍和尚は文政三年(1820)五月二十日、高橋治良右衛門の三男として生まれ文政十年千溝村林泉庵で得度後に西福寺住職となり開山堂を作り石川雲蝶の大作の完成に大きく寄与した。正円寺隠居(監寺)として、戊辰小出戦の会津戦死者を葬り、戒名を与え墓碑を立てた。碑文の揮毫は永平寺六十三世管主曹洞宗管長龍谷琢宗、元正円寺住職である」とあった。
 
 
正円寺墓地には宝暦四年(1754)、勘定組頭となり、同五年七月、越後二度目の地検の時、亡くなった土山藤右衛門孝祖の墓(孝祖男宗次郎孝之の時、不始末により御家断絶)と良寛弟子貞心尼(奥村ます)と離別した漢方医、関長温の墓も残っている。
 
 

信州横田氏

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小出戊辰戦争史蹟(林昌寺・諏訪神社)

2017-12-10 | 會津

昔、新潟県小出の山奥にある大湯や栃尾又にはよく行った。駅から魚野川に架かる小出橋を渡った左岸には三階建ての木造の家がズラリと並んでいた時代だから、かなり大昔になる。小出にある戊辰戦争史蹟を廻った。魚野川から東に分れる破間川に挟まれた四日町にある小出島林昌寺からスタートした。
 
 
ここは銃弾を抱く大銀杏との伝承が残る寺だったが、倒れる危険が出てきたため、平成20年12月に伐採された。幹の部分から銃弾が発見されたという。破間川の対岸から150m位なので大きな木なら銃弾がまだ残っているのではと思う。林昌寺から1~2分の諏訪神社に行く。
 
 
平成八年(1996)、小出町の町制施行百年記念して会津松平十三代松平保定書「会津藩烈士之碑」が、境内に建てられた。
 
碑裏に
建立のこころ 作家の司馬遼太郎氏は幕末期の会津藩とその人々を「人間秩序を磨き上げた光沢の美しさ」と称賛していますが、会津藩と小出とは、一七〇〇年代、享保時代から一つの文化ルートとして密接につながっていました。戊辰の役の時も、小出の奉行は典型的な会津藩士で、薩・長・土軍の悲惨極まる小出における殺戮と放火に対し、身をもって抵抗しました。このため多くの会津藩士が小出の地で非命に倒れたのです。あれから、星霜百二十余年の歳月は過ぎ去りましたが、小出に生まれ育った者として、今日の小出の街の繁栄を思う時、志を後世に問うと、死をもって小出の地を守り殉じた会津藩烈士の魂を慰めずにはおられません。
戊辰戦争殉難者の皆様、どうか安らかにおねむりください。
 一九九六年六月二十二日 小出町町制一〇〇周年を記念して建立 
                    東京舟陵会会長池田恒雄
池田恒雄は小出町出身でベースボール・マガジン社の創立者です。
境内には小出の戦争戦死者を祀る忠魂碑(陸軍大将福島安正書、大正四年九月建立)もある。
 
丹後跳ね越しの石と呼ばれる大きな石があった。説明板によると「慶長五年(一六〇〇)八月二日、上杉遺民一揆の戦乱 に下倉山城を守る城将小倉主膳の苦戦を救おうと、六日町の坂戸城から堀丹後守直竒が援軍を率いて駆けつけた。 破間川原の激戦中、丹後守は大石に身を寄せ鉄砲で自分をねらい撃とうとしている敵兵を発見、真正面から立ち向かい、平安城という名槍を投げつけた。同時に敵が発砲、丹後守の馬は大石の直前で竿立ちになり、石と敵兵を一跨ぎに跳ね越した。間一髪で敵弾はそれ、槍は敵の胸板を貫いて穂先は土に突き刺さった。のちに丹後守は村上十万石の領主となり、参勤交代の 往き帰りに、「この石は、わしの命を救ってくれた石じゃ」と懐かしみ、馬で跳び越えてみるなどした。時代は下って元禄の頃、丹後守の子孫堀左京亮が、先祖のほまれを刻むこの石を身近に置きたいと、運び出そうとして時、四日町の村人は、「この石は『丹後跳ね越しの石』と申しまして、馬の病気を治してくれる大切な石ですから、持ち出さないで下 さい」と願った。その頃村人は丹後守をその法名「鉄団宗釘大居士」からとって「鉄団様」と呼んでいたが、この石のくぼみに大豆を入れて水に浸し、「南無、鉄団様、跳ね越し給え」と柏手を打って祈り、一晩おいて馬に食べさせると病気が治ったという。子供の夜尿にも同様のまじないが行われてきた。「そのような大切な石なら、川原に置いて洪水に流され でもしたら大変じゃ。神社の境内に運んで置け」という堀左京亮の指示で境内に運ばれ、大切にされてきたものである」。こんな昔話が残っていた。

小出戊辰戦争史蹟(正円寺・大塚墓地)

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小千谷 浦柄神社から小出 萬行寺へ

2017-12-05 | 會津

新潟小千谷市に標高342mの朝日山がある。ここは戊辰の北越戦争激戦の地で小千谷駅から北東約4K、山古志への入り口でもある朝日山北西の麓に浦柄神社がある。
 
 
境内脇の墓地には会津藩などの戦死者二十二名の墓碑が並んでいる。墓地入口に山本五十六の書で昭和十六年に建立された「戊辰戦蹟記念碑」がある。
 
小千谷市教育委員会の説明板に「慶応四年(1868)五月十一日から、ここ朝日山をめぐる攻防戦が始まった。前日、浦柄村(小千谷市大字浦柄)をはさんだ榎峠で、東軍と西軍の戦いがあった。その榎峠を長岡藩兵等の東軍が占領すると、戦いは榎峠を見下ろす朝日山に移った。朝日山を奪取した会津・桑名・長岡の各藩兵、それに衝鉾隊は、大砲を山頂にあげ、西軍陣地を砲撃した。西軍は朝日山をとろうと、たびたび攻撃した。とりわけ、五月十三日早朝の長州藩奇兵隊を中心とした攻撃は、激しい戦いだった。参謀時山直八など多くの西軍兵士が命を落とした。その遺体は、小千谷に送られ、のちに船岡山の墓地に改葬された。朝日山の戦場は、五月十九日、信濃川を強行渡河した西軍が、長岡落城に成功すると、にわかに戦いの要衝としての位置を失った。東軍兵士たちは、朝日山の陣地から離れ、戦いの場は蒲原の地に移っていった。残されたのは、戦死した東軍兵士の遺体だった。戊辰戦争が終わり、西軍が勝利すると、明治政府は遺体のとりかたずけを禁じた。なかでも旧会津藩兵にはきびしい放置を命じた。遺体は朝日山の各所に朽ち果てるままになった。これをみた小栗山村(小千谷市大字小栗山)の福生寺住職や浦柄村の人びとが、昭和二十八年に戦死の地に墓標をたて、遺体を手厚く葬るとともに、この地に二十二基の石碑を建立し英霊を祀った。今も浦柄町には史跡朝日山を守る史跡保存会があり、墓地や史跡を大切に守り伝えている。なお、戦死したなかに、会津藩白虎隊士新国英之助(十六歳)がいる。この墓標は、戦後二十数年を経て、父がその遺体を探し当てて建立したものである。」とあった。
 
小千谷から小出に戻り小出中島の萬行寺に向かう。
光了山萬行寺は会津藩小出島陣屋の菩提寺で、昭和四年八月、旧会津藩主松平保男子爵が町野武馬大佐の案内により藤沢正毅、町野英彦(源之助弟源五郎の子)を随行して戊辰戦死者の遵霊を小出古戦場にささげ供養するため萬行寺を訪れ、その記念として境内にイチョウを植樹した。
 
 
慶應四年(1868)二月、会津藩士町野源之助(主水)は小出島奉行に着任、西軍との戦いの臨戦態勢に入った。同年閏四月二十四日三国峠の戦いで小出島陣屋の会津藩士の初めての戦死者が町野主水弟久吉行年十七才であった。小出町歴史資料集によれば町野主水は、明治二年と明治四年に萬行寺に寄って、戊辰戦死者と家族五人の永代供養を依頼している。
 
萬行寺には越後小出での町野隊「戊辰戦死者位」五名の位牌、小林勝四郎(實誠良忠)・町野房吉(誠心大忠士)・佐藤源右衛門(誠忠義信)・小桧山包四郎(義道)・古川源二郎(義立)。武孝院顕誉誠心清居士及び町野一族、町野源之助重安(武孝院顕譽誠心清居士)と慶応四年九月、勝方寺で自刃した家族五人の位牌も祀られている。
 
町野主水が亡くなったのが大正十二年で戊辰六十年祭の翌年、小出町の東軍戦死者の墓参に松平保男子爵と町野武馬(主水長男)一行が訪れた。ご位牌はこの時に作られたものだろうか。  勝方寺の町野家墓域
 
町野一族の墓域は会津若松の融通寺にある。  左)主水重安墓 右)久吉首塚
 

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