大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

下町の居酒屋

2010-10-25 | 
「神田 みますや」「門前仲町 魚三酒場」編
   
みますや

大通リから一本奥に入った所に、外観は古いと言うより、「どぜう」の
提灯が下がった、見た目、小汚い感じのお店が神田の名店「みますや」。
なんでも、大戦の空襲では近所の人達が消火に駆けつけてくれて、店が
残ったという。道理で店構えが古い訳である。



開店の5時に入っても、いつも、もう呑んでいる人がいるので、店内の
写真を撮れないが、店を入ると土間にはいった感じで、右側に小上がり
左側が椅子席、左奥が座敷で、板場との間に帳場がドンとあり主人が目を
光らしている。中は外目よりかなり広い。

  
馬刺し   河豚唐揚げ

柳川鍋   牛煮込み
 
飯蛸     饅(ぬた)
 

この店が落ち着くのは、かなりの客が入っていても、居酒屋の
ざわざわ感を感じないこと。天井が高いのか、客層が良いのか、
自分たちが一番うるさいのかいつも不思議に思っている。

「みますや」千代田区神田司町2―15
17:00~   日曜・祝日 休


魚三酒場

安く魚をツマミにするなら、絶対この店。普通は酒にツマミだが、
ここはツマミに酒という居酒屋。とは言っても土曜日は開店前から
人が並ぶ。50人から100人も並ぶと異様な感じになる。

 

 
カキフライ   マグロブツ


 
兜煮
 


 
1階は定連さん専用というより1人専用フロアー、連れがいる客は
2階より上に追いやられる。2階も窓側はすぐ人で埋まるので、
大勢人がいると、慣れるまでツマミを注文するタイミングが難しい。
この店は食べて、呑んでという店なので、接客がどうのこうのという
店ではないのでご注意を。

「魚三酒場」江東区富岡1丁目5−4
16:00~   日曜・祝日 休
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静岡藩 林又三郎

2010-10-22 | その他
戊辰後、幕臣が集まり作られた同方会会報に明治二年二月調とある
静岡県職員録に寄合衆林又三郎惟純と記載があるのは前に書いた。
奉行衆として小島奉行勤番組頭林又三郎とも記載があった。

明治三年三月末の静岡藩職員録が静岡県史十六卷に記載がある。
これには林又三郎小島勤番組之頭とあった。静岡藩職員林三郎は、
開業方藩政補翼手ニ附可相勤候とある。

前田匡一郎著「駿遠へ移住した徳川家臣団」で、1篇編補完
として林惟純(633)、林昇(636)両名について3編で履歴を
訂正している。林又三郎惟純は、元会津藩士であと静岡藩職員と
なった林三郎惟純と高三千五百石の幕臣林昇(学斎・平仲)とが
ごちゃごちゃになった姓名であることがわかったが、この本では
林又三郎が林学斎と同一人物であることがはっきりしなかった。

江戸時代初期の朱子学派儒学林家祖の林 羅山、諱は信勝、号が羅山
通称は又三郎。やっと又三郎が出てきた。林家十一世復斎の通称が
又三郎、十世壮軒の通称が又三郎、九世檉宇も通称は又三郎。
林家十一世復斎の次男で林家十二世を継いだ林学斎(昇)が又三郎を
通称名としても不自然ではない。

林述斎の系図をみていて思い出した。述斎の三男はあの妖怪こと
鳥居耀蔵(名は忠耀、通称甲斐のち胖庵)。学斎とは伯父甥の関係になる。

鳥居甲斐から数えて四代目子孫の鳥居正博氏が、この鳥居甲斐が晩年に
残した日録というか日記を整理し、頭注・補注を加え「鳥居甲斐 晩年日録」
として刊行している。

晩年日録の慶応四年十二月廿五日に林又三、林右近へ書通とあり、
頭注に林又三(林又三郎学斎・甥)、林右近(復斎)とあったが、
林復斎は安政六年九月に亡くなっている。明治二年七月十日項に
右近妻幸女とありこの頭注に林右近・鶯渓とあった。明治初期には、
林学斎は又三郎、兄の林鶯渓は右近を通称名として使っていたと思われる。

新宿区市谷山伏町に初代林羅山以下累代徳川幕府に朱子学をもって
仕えた学者とその一族の墓地が残っている。ここに林学斎の墓碑がある。

幕府大学頭従五位下文靖林先生墓銘
「先生諱昇字平仲号学斎林氏徳川幕府儒宗羅山先生十二世嫡孫也
考諱韑号復斎妣津田氏嘉永中先生以次男為嗣子始謁温恭公安政
四年命助父学識別給廩米参百苞六年襲世職大学頭家禄三千五百
石叙従五位下班諸大夫文久三年従照徳公入朝明治維新後徳川氏
更命為寺社奉行、、」と碑文を撰んだのは東宮侍講でのち二松學舍を
創立した三島毅。

この市ヶ谷の林墓地の中に紀年銘が昭和十二年十二月とある
「林又三郎之墓」がある。学斎が亡くなったのは明治三十九年。
そうするとこの林又三郎は誰のお墓なのだろう。

市ヶ谷の林氏墓地は大正のとき国史跡に指定され、いまは新宿区で管理、
毎年11月の初めの土日2日間だけ公開されますが、今年は11月3日
(水・祝)と6(土)・7日(日)の3日間(10時~15時)です。
コメント (2)
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馬門山海軍埋葬地

2010-10-15 | その他
京浜急行「北久里浜駅」から徒歩約7・8分の根岸町にある
旧海軍墓地、今は市営墓地となっている馬門山墓地を訪ねる。




馬門山墓地全体図


国道134号からの入口左側に古くて読みづらい説明板があった。

昭和五十二年市制施行七十周年記念横須賀風物百選
馬門山墓地
右手の門内約 二万五千平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が
明治十五年一月に馬門山海軍埋葬地と定めたものです。以後、昭和二十年
八月の第二次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理運営にあたって
きました。横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治十七年十二月に
市内の楠ヶ浦(現米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の
中枢的存在でした。昭和三年に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」
によれば、埋葬面積は階級によって六段階に分けられており、仕官は八尺四方
(約五.六平方メートル)、兵は四尺四方(約一,五平方メートル)となって
いました。墓地は、地形に従って三段階に分けられています。下段、中段は
兵たちの墓地で、高さ 一メートルほどの墓石が整然と並んでいます。
芝生が敷きつめられた上段には、七基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
終戦後、市営墓地となると、新たに約 四,三五六平方メートルを造成し、
墓地を持たない、一般市民に提供されました。現在、この墓地に眠る、御霊は、
次ぎのとおりです。

海軍関係
単独埋葬者                         二七九柱
供養塔
軍艦河内殉難者の碑(大正八年二月建立)        六二一柱
軍艦筑波殉難者の碑(大正八年四月建立)        一五二柱
特務艦関東殉難者の碑(大正十四年四月建立)       六八柱
北京龍城軍艦愛宕戦死者の碑(明治三十四年五月建立され
昭和七年八月この地に移転)                   五柱
上海事変戦死者の碑(昭和八年一月建立)          五九柱
第四艦隊遭難の殉難者の碑(昭和十一年六月建立)     三六柱
支那事変大東亜戦争戦没者の碑(昭和二十八年九月建立) 三七二柱
一般市民                            三〇五基 
下段墓域                      中段墓域

中段から最上部への石段




横須賀市のサイトでは「馬門山(マモンザン)墓地は横須賀市根岸町の
丘の上にあります」とあった。
大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶの看板では
「馬門山の名の由来は字名か屋号(馬門・まかど)を読み替えたもの
といわれています」とあり、馬門は「まもん」と読ませるのだろうか。



下段の兵卒の墓域に、海軍三等水兵井戸川金三郎二十二歳、
海軍一等機関兵古関冨助二十四歳、福島県出身者二名の墓碑があった。

明治初め、この公郷村支配飛地官有馬門山は松苗木を植付けしていた所で、
埋葬用地には松苗木高さ一尺五六寸数おおよそ二万二千参百本あり、松苗
代金は壱百拾壱円五拾銭だったと言う。

昭和十五年、海軍省発行の海軍沿革に
「馬門山海軍埋葬地は横須賀海軍病院に於ける死亡者を埋葬する為海軍省より
内務省へ交渉の上神奈川県三浦郡公郷村支配地内官有馬門山の内約二町三反
四畝十五歩を海軍埋葬地に充て明治十四年九月以降工事に着手し同年十二月
完成翌十五年一月以降該地に埋葬し、埋葬に関する事項は総て白金海軍墓地に
準じて施行」と馬門山葬儀場ノ沿革の説明があった。

白金埋葬地は、明治初年軍艦船の根拠及び水兵屯営地が品海から浦賀付近に
限られていたため、明治六年一月軍人軍属等死没者の為、埋葬地を五百参拾
円で六千七拾坪の土地を買い上げた東京白金台町の旧松平丹波邸と定めた。



この白金埋葬地は明治近代海軍初の官修埋葬地で、今は明治学院大学傍に
旧海軍軍人白金墓地記念堂として残されていた。
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会津阿弥陀寺の会津葵紋

2010-10-12 | 會津
会津の七日町に阿弥陀寺というお寺がある。
ここに戊辰戦争殉難者の戦死墓がある。

この戦死墓は、明治元戊辰年八月廿三日後、若松城中にて戦死者の
屍を官軍方に阿弥陀寺への送葬を願い出て、当(明治2年)二月廿四日から、
改葬方は領地戦地に赴き、また引続き城中の屍も残らず阿弥陀寺に集め、
次いで郭内外の仮埋の場所より纏めた人数は都合千二百八十一人を改葬した。

1つは東西四間余、南北十二間余、高さ四尺、壇を築き戦死塚として、
もう1つは戦死の者、城下所々寺々の埋葬仮埋葬地から、少しづつ土を
集め、東西弐間、南北弐間半、高さ七尺程、四方に柵を廻し、戦死者を
いたむ為の招魂場を築立した。

現在の墳墓は、奥に会津藩相萱野長修遥拝碑、その前面、左に「報国尽忠碑」
右に「戦死墓」が建っていて、四方を柵で囲まれている。
報国尽忠碑は明治十年西南役に殉ぜられた佐川官兵衛ほか七十名の名が
刻まれている。



 

この正面の鉄の扉に浮彫の葵紋がある。阿弥陀寺の葵紋を
図案化してみた。なんとなく葉の数が多い。



19年8月、同じ鉄柵にあった古い葵紋は19葉の会津葵。
22年9月、阿弥陀寺にあった新しい葵紋は葉が21枚。



会津藩家世実記によれば、会津保科家が「松平之御称号、葵之御紋
御拝領」を許されたのが元禄九年(1696)、会津松平の家紋は
宮崎十三八著「手作り会津史」に、当時の徳川五代将軍綱吉と同型
紋を使用とあるが綱吉の使用葵紋は23蕊と27蕊の葵紋。

御服所後藤縫殿助書き上げの「御紋控書」にある家綱の19蕊の葵紋と
阿弥陀寺の葵紋は同型(巴の茎の太さは異なる)だった。これは
会津藩の正史「家世実記」によれば、将軍、保科正之に松平姓並びに
葵の御紋を受けるもこれを辞退したのが寛文八年(1668)だという。
この時の将軍が四代将軍家綱、会津藩も葵紋の蕊の数では苦労している。
阿弥陀寺の新しい葵紋の一番上の部分は蕊がないので、これもやはり
19蕊の会津葵紋ということか。
コメント (4)
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