大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

蒲郡西浦 光忠寺

2024-02-27 | 

名鉄蒲郡線西浦駅から500m、東に歩いて約10分、形原松平家菩提寺の法林山樹祥院光忠寺を訪ねた。

地図を見ると、この寺の北東500m位に形原松平氏居城だった形原城跡があった。城からみると光忠寺は未申(南西)の方向、裏鬼門になる。形原城の丑寅の鬼門は竹島の八百富神社では話が飛躍しすぎか。光忠寺は何時頃創建されたかは不明だという。「寛政重修諸家譜」では初代松平興副は松平信光の四男で永正年間(1504~1520)にこの地で死す、としており、法名光忠、形原の光忠寺に葬る、興副を開基とする所なりとある。それから二百五十年ほどのちに一族の丹波亀山藩家老松平敏が形原松平家五代家忠までの記録を編纂したという「形原記(形原遺事記)」では、信光の一男左京亮守家は竹谷の祖、二男右京亮親忠は安祥家と称し、三男與福は形原の城に居住し、形原家の祖とし、與福弟の光則(光重)は一寺を創立し興副を葬り法林山光忠寺と号し、菩提寺とするとあった。興副が形原に移り住んだのは何時の事だったのだろうか。「松平記」に松平氏親氏を初代として三代信光のとき、松平郷松平氏系統は岩津、形原、安城、大給、岡崎、竹屋、五井、長澤の松平家のみで、他の数多い松平を称する家は同名他家としている。文亀元年(1501)の大樹寺文書に興副の弟光重の子で形原左近将監貞光の名があるという。形原を名乗っていた二系統の松平氏がいたことになり、興副系の形原松平と光重系の大草(岡崎)松平との関係で大草松平二代親貞は光重の子親忠と同一人物という説もある。形原松平家にきて、徳川の十四松平、十八松平とも称される松平庶家間の関係が混同してわからなくなってしまった。

「光忠」も実名なのか法名か判らないが、本堂の左手手前に綺麗に整備された墓域に形原松平家、初代興副(与福)、二代貞副、三代親忠、四代家広、五代家忠の墓碑があった。



光忠寺は藩主形原松平家のお供寺として下総佐倉、摂津高槻、丹波篠山と移り、亀山で明治維新を迎え、六代から明治維新に至る亀山藩主最後の十八代信正と十九代以降の形原松平家の墓碑は亀岡の光忠寺(浄土宗総本山知恩院末寺)に祀られているという。桶狭間の戦いで今川義元討死により松平元康(家康)は今川方より離反、その時、東三河の武士団は元康に帰属したが、永禄五年(1561)三月、今川氏真は離反した武将(形原松平四代家広妻、竹谷松平四代清善娘、西郷正勝妻等)の人質十三人を龍念寺(龍拈寺)前で誅殺し中野新田に葬ったという。
(老津 太平寺から十三本塚へ)

形原松平氏の家紋は丸に利の字紋、馬印は利剱是。永禄元年(1558)、尾張の織田信長に寝返った鈴木重辰と今川氏麾下の松平元康は豊田寺部城で戦った。その帰途、織田勢の奇襲に会い、大樹寺に逃げ込み応戦した。応援した大樹寺の僧徒が旗として使用したのが「厭離穢土欣求浄土」の大幡で、この時、松平家広が目印として「利剱即是」の幡を使い、戦いのあと「利」の文字だけ残り、あとは悉く切り裂けてしまつたと云う。主君元康(家康)は家広の軍功を褒め、「利」の一字を家紋にと命じた。小牧・長久手の戦いでは又七郎家信が「利即是」を馬印として使用したという。沼田頼輔によれば寛政譜で利文字紋使用は形原松平氏のみだそうです。
光忠寺本堂左側の墓域の中央、井戸のそばに形原松平氏支族の松平貞幹と松平但馬家の墓石があった。


墓碑によれば、貞幹は形原松平七代信直の七男で八代信道、九代信志、十代信彰の三候に宿老として、また十一代信豪の時には江戸家老として仕え、随筆「芝陽漫録」を残している。

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蒲郡 龍台山天桂院

2024-02-19 | 

蒲郡西郡の四大寺の一つと言われている天桂院を訪ねた。


四大寺はいずれも戦国時代初期の東三河の西郡(現蒲郡)の地方小豪族、五井松平氏、上ノ郷久松氏、下ノ郷鵜殿氏、竹谷松平氏の菩提寺で、天桂院は竹谷(たけのや)松平氏の菩提寺になっている。竹谷松平氏は寛政重修諸家譜によれば「左京亮守家は信光君の長男也三河国宝飯郡竹谷に住せしより竹谷の松平と称す」とあり、さらに守家の項に「文亀三年八月七日竹谷にをいて死す法名全裕竹谷の西の岳に葬る男守親のとき永正九年其地の北に一宇を建て龍台院と称しのち清宗に至るまで葬地とす家清がときこの寺を吉田にうつし全栄寺とあらため清昌のとき宝飯郡西郡にうつしのち吉田の天桂院と合わせて一寺とし龍台山天桂院と称す寺をうつすごとに代々の墳墓を改葬す」とあるので、清昌(八代)のとき西郡、今の蒲郡町荒子にある天桂院を建て墳墓を改葬し菩提寺としたことになる。竹谷松平氏初代守家法名全裕が葬られた竹谷の西の岳が判らず尋ねられなかったが、あとで地図に市立塩津中学校グランドの西南端に四基の五輪塔と竹谷松平四代の墓一基、守家(龍台院全裕)・守親(松寿院全孝)・親善(延常院全?)・清善(自得院全保)があり、五輪塔は竹ノ谷松平四代五輪塔として市指定史跡となっていた。竹谷松平氏は松平信光の子守家を初代とする松平氏の庶流で四代清善まで今川氏に仕えていたが、桶狭間で今川義元討死の後、岡崎に戻り松平元康(家康)に仕える。このとき今川氏真は松平側についた松平玄蕃清善妻を含む人質十三人を龍念寺(龍拈寺)前で誅殺して吉田近郷中野新田に埋めた(老津 太平寺から十三本塚へ)。


天桂院は六代家清の妻、久松俊勝の娘で、家康異父同母の妹(久松俊勝と家康の生母、水野氏於大の方の娘)。天正十八年(1590)、夫清善が家康より与えられた采地の武州八幡山に移動中、小田原今井の徳川陣場跡にて他界、その遺言により曹洞宗の寺、福厳寺に葬られたという。寛政家譜に「天正十八年十月十七日逝す、年二十二、月窓貞心天桂院と号す、武蔵国八幡山に葬り、一宇を建て天桂院となづく、のち三河国吉田にうつして其地に改葬す」とある(小田原の福厳寺は後述)。天桂院は夫家清の采地である武州八幡山(本庄市児玉)に葬られたのか、福厳寺に葬られたのかはっきりしないが、蒲郡の龍台山天桂院の竹谷松平氏の墓域中央に夫君六代竹谷松平家清(清寶院殿業雲全霜大居士)と天桂院殿月窓貞心大姉の墓が並んでいる。
竹谷松平家墓域

左(家清墓)  中央(天桂院墓)


法名で判った墓石は六代家清(全霜)の左から五代清宗(全栄)、四代清善(全保)。天桂院から右に七代忠清(勝全)、八代清昌(全達)、九代清直(全通)、十代清当(全参)、十一代義尭(全忠)、十二代義緒(全徳)、十三代義峯(全功)と並ぶ。塀で囲まれた竹谷松平氏墓域の入口に丸の内一引の家紋のある松平家先亡累代諸精霊の墓があった。


寛政家譜に「家紋 丸の内一引 五枚根笹 もとは三葉葵を用う、後嗣はばかりて一引にあらたむ」とある。竹谷松平氏墓域に行く途中に一族の婦女子の墓があった。

 

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三ヶ根 瑞雲山本光寺

2023-11-26 | 

夏、渡り蟹のシーズンかと思い海岸に近い蒲郡に宿を取り、東三河に行った。最近では蒲郡付近の漁港の船は、深場の魚を主に獲っていてカニ漁の漁師はいないと聞いてガッカリする。初日は隣の幸田町深溝にある深溝松平氏の菩提寺、瑞雲山本光寺を訪ねた。

無人駅のJR三ヶ根駅からお寺の山門までは緩やかな登坂で僅か500m。標高差はたかだか20mだが、歩きでこれがきつかった。考えたら現在、JRでの最急勾配は40‰(1000mで40m上る)と同じなので無理もないと納得する。


深溝松平氏家紋
左:五本骨開扇紋(五代忠利使用紋) 
右:十本骨重扇紋(六代忠房嫡子好房使用紋)
   
本光寺によると大永三年(1523)深溝松平忠定が松平家の祈願所、菩提寺として建立、開山は曹洞宗血脈十五世希声英音禅師と伝える。三河国額田郡誌によれば創立は享禄元年(1528)、また三河堤では「寛文九年(1669)大炊頭忠房に肥後松原城を賜う此本光寺を彼の地に建立せらる依て深溝を本山とす、又深溝は島原を本山とす、相本山と云ふ」とある。本光寺は始め、JR三ヶ根駅西口から北西に600mほどあたりの向野墓所付近にあったが、家康関東移封に従い四代家忠も関東に転封、本光寺もお供寺として関東忍に移転した。慶長六年(1601)、五代忠利が深溝に転封され本光寺を再建、初代から四代墓所を整備したが、その場所は向野墓所なのか現在の本光寺の深溝松平家墓所なのかは特定できてないという。慶長十七年(1612)、忠利の三河吉田に転封により深溝の本光寺は端渓山源光寺と改称、忠利から家督を継いだ六代忠房は寛文九年(1669)肥前島原に転封となった。寛文十三年(1673)、源光寺を本光寺と改称し深溝松平家の菩提寺とし藩主の埋葬地とした。向野墓所(深溝西向野)に行くことは出来なかったが、ここに初代松平忠定と二代目松平忠景の首塚と呼ばれる碑があり、万治元年(1658)福知山藩主の深溝松平六代忠房が父祖所縁の地としてここを訪れたという。本光寺の六代忠房が建立した五代忠利を祀る肖影堂は補修のためかテントに覆われていた。その後ろの一段と高いところに亀跌碑があった。

二人の若い女性が亀の首に向けてお金を投げていた。何をしているのかと思ったら横の説明板に「願掛け亀 寛文12年(1672年)建立 参拝者の願いを聞きかなえるため、大きな耳がついている。亀のエリ首(ヘコミ)にサイ銭が入ると願いがかなえられ、万年幸せとなる。福知山城主忠房が領民のため10年がかりで作られた」とあった。万年幸せとなる説明では教育委員会も驚くだろう。この亀跌碑の碑文は史料によると、
参州額田郡深溝本光寺碑銘 
向陽軒林怒之道撰(林羅山三男、字は子和、号は向陽軒)
終行に
萬治三年庚子(1660)八月朔日
丹州福知山城主従五品 主殿頭源忠房立之
碑文に「忠房祖先墳墓之所在大夫立碑欲刻其世系履歴業傳於後世以不忘其本」、「墳在故里 寺曰本光 碑石新立 銘刻以彰 孝志追遠 武名無彊」とあり、残念ながら願掛けや領民の為を思う文字は出てこないが、同行した妻がエリ首にお賽銭を何回か投げていたのを見てガックリする。

撰文が萬治三年(1660)、三河深溝に建立されたのが寛文二年(1672年)七月、完成まで十年以上掛かったことになる。亀跌碑の前にある肖影堂に対して正確にはわからないが五度程度向きが異なる。亀跌碑の向いているところは何処なのだろうか。先祖の為に作らせた碑が五代忠利を祀った肖影堂と向きが異なるのは不思議に思う。元禄、寛政時の寺領絵図では肖影堂の後ろに亀跌碑が平行に描かれていた。十一代忠祗墓所はほぼ真南を向いて建てられている。いつの時代か分からないが肖影堂の向きを南に動かしたのだろうか。

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松阪 愛宕さんから岡寺さんへ

2023-08-11 | 

松阪の愛宕町の龍泉寺にお城から移築した山門が残っているというので見に行った。


龍泉寺は真言宗高野山派に属し、火防の霊神「愛宕大権現」と「愛染明王」を本尊としあたごさんと親しまれている。昭和27年、三重県有形文化財に指定された山門は、桃山時代の様式の一間一戸の薬医門で、松ヶ島城裏門を移したとも、松坂城の門を移したともいわれている。いづれにしても、この山門は市内最古の木造建築物だそうです。五鈴遺響記載の寺傳記に「上古草創詳悉ならずといえども応仁文明年中に一志郡滝野川村の山中に弘法の開基と云い傳う」とあり、この地は多気北畠殿の領地でその祈願所だったという。龍泉寺は一山の惣寺号で下ノ坊が当院の旧号だったという。永禄十一年(1568)頃、戦火を逃れ松ヶ嶋に移り、天正九年(1581)良宗上人、正親町天皇より勧請仏法興隆の倫旨を賜い勅願所となり、また同時期に嵯峨御所大覚寺宮より令旨を賜るなど政治的な活動を強め、四五百森城主潮田長助(北畠具教家臣)らの援助を受け、一宇を建て上福院と号したという。天正十六年(1588)、松坂城築城に伴い現在地に寺域を定めた。


境内に大きな基壇のうえに乗った宝篋印塔があり、その手前に昌林院殿高岩□忠大居士、墓碑両側にかすかに文禄四、二月七とある小さな墓石があった。この墓が説明にあった松坂城主・古田織部正重勝の墓と思ったが、横に昭和10年に行われた蒲生氏郷卿の展墓祭の写真が掲示されていた。氏郷の戒名を検索したら「昌林院殿高岩宗忠大居士」とあった。展墓というのは墓参りの事で、ここは蒲生氏郷の参り墓ということか。宝篋印塔の隅飾りの反りをみると室町、桃山時代より新しい時代の造りみたいだ。傍に「木犀」とある石柱がある。意味はよくわからないが、金木犀の花言葉の隠世から死後の世界の神聖な場所、墓地を現したのだろうか。伊勢参宮名所図会の愛宕山龍泉寺古田織部正墓とあるものの絵図に墓の記載がない。帰宅してからgoogleマップで検索したら古田大膳墓所というのがあった。龍泉寺本堂から東に約190m(木挽町381-12)の地元で通称、大膳塚と呼ばれているという。寺務所で聞けばよかった。
松阪駅から北西約500mの継松寺に行く。


高野山真言宗、山号を岡寺山、院号は如意輪院、ご本尊は「如意輪観音」。日本最初の厄除け観音だと云われ、通称岡寺として知られている。山門前の筋塀が五本線なので驚いた。五本筋塀は通常、皇族や摂家などの御所や門跡寺院や勅願寺で用いられ最高の格式を示している。寺傳に聖武天皇勅により天平勝宝元年(749)、建立したと伝わると云う。これを以って勅願寺の格式を持っているのだろうか。明治二十二年発行の「伊勢名勝志」によれば天平十五年(743)僧行基により石津郷に創立、天平勝宝二年(750)の洪水により堂宇が流失したが、二見郷の三津正信が海中より本寺の本尊を見つけ旧地に堂宇を再建、剃髪して継松法師と称し、のちに寺号とした。五鈴遺響に江州木田北郡伊曽野の岡山右京允行雄という人、観音堂大日堂護摩堂山門等悉く中興再建し、この岡山の一字を取って岡寺と云うとあった。境内に市指定有形文化財の銅製香炉がある。


継松寺八世快雄上人撰文、韓天寿書、松坂の豪商、小津長保の父道慧が長谷寺に大香炉を寄進したのに習い安永六年(1777)、継松寺に香炉を寄進したもの。香炉を背負った台座が亀の形をしているので、これも亀趺の一種なのだろうか

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松阪の遥拝所(御厨神社 松阪神社)

2023-08-04 | 

松阪駅の北西約1k弱の所にある御厨神社の脇社に三囲稲荷社があるというので行ってみた。


御厨神社の御厨牛頭天王祠は伊勢内宮の神饌を用意する所として飯高郡下ツ牧(現、平生)に建てられ、勅使参向の時には当社に止館し、旅の安全を祈願したとも伝える。戦国時代に神垣を残して廃絶したが、天正十二年(1584)、 蒲生氏郷が四五百(よいほの)森に松坂城を築城のとき、城郭の大手先に奉遷、元和六年(1620)、紀州藩主徳川頼宣家臣の初代松阪代官長野九左衛門が城の鬼門として現在地に遷宮した。祭神は建速須佐之男命を祭る。大神宮儀式解因録に「中川経雅、天明五年(1785)本居宣長の所望により松阪御厨神社額を揮毫しこれを贈る」とある。今の社額はいつの時代のものだろうか。

三重県神社庁サイトによると御厨神社の祭神は建速須佐之男命、加夫呂岐命、火産霊命、木花之開耶姫命、大山祇命、奥津彦命、奥津姫命、応神天皇、宇迦之御魂命、市岐島姫命とある。明治の複数の神社の祭神を一つの神社に神社合祀によるもので明治六年御厨神社を改称のうえ村社に列せられ合祀が進んだと思われる。境内にある三圍稲荷神社は宇迦御魂之命を祭神として豪商三井家祖先の祈願社で東京向島の三圍神社の分霊が祀られ松阪の三井家の下屋敷から移されたという。


ここにも向島三圍神社と同じように宝井其角の句碑があった。

此御神に雨乞する人にかはりて
遊ふた地や田を見めくりの神ならは 普其角
「見めぐり」には「三囲」が掛かる。上五中七下五の頭を並べると「ゆたか」となる折句だそうです。
神社境内に宮城遥拝所の石柱があった。

皇居まで約320km、久しぶりに宮城遥拝所をみた。
松阪神社に行く。石段が急なのでしばらく見上げてしまった。


松阪神社は天正十六年(1588)、蒲生氏郷が当地飯高郡矢川庄の四五百森(宵の森)に城を築城の時、城の南側の森を鎮守社と定め、新しく壇を設け社殿を造営し正八幡を勧請し八幡宮とし松坂城の守護神とした。明治二年、天皇伊勢行幸のとき、伊勢路式内神社として神祇官権判事北大路左京権大夫を官幣使として代参させた。明治四年に、式内・意悲神社に比定され御城八幡から意悲神社に改称した(意悲神社は神舘神社の旧名との異説もある・飯南郡史)。飯南郡史では明治六年八幡神社と改称し、のち村社に列せられ、明治八年郷社に指定され、そのとき倭姫命の行在所の旧跡なので意非神社と改称する許可を得たとある。いづれにしても、明治二年三月、伊勢路式内神社として朝廷からの勅使を遣わされたのが大きかったのだろう。明治三十九年、県令により神饌幣吊料供進指定社となる。明治四十一年は全国で神社合祀が行われ近隣の十七の神社を合祀して、松阪神社と改称したとある。

ご神木の樟のそばに皇居遥拝所と神宮遥拝所があった。

三重県神社庁によると松阪神社のご祭神は誉田別命、宇迦之魂神、天照皇大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、建速須佐之男尊、豊受大神、思兼神、大山祗命、火霊神、金山彦命、蛭子命、猿田彦命、大国主命、少彦名命、熊野久須毘命、天御柱命、国御柱命、雅日女命、天棚機姫命、拷幡千々姫命、安徳天皇、多紀理毘売命、高木大神、因幡素莵神、多岐都比売命、市岐島姫命、天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、八百万神、事代主命、上筒男神、中筒男神、底筒男神と少名彦那尊御社。これだけ神様がいらっしゃると、何を頼んでも叶えてもらえそうな気分になる。

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縁切りの作法(弥勒院善福寺)

2023-07-28 | 

松阪駅から徒歩5分ぐらいに、みろく院善福寺の通称で親しまれ、水掛不動明王をも祀るというので善福寺いった。護り本尊が不動明王なので、近くに不動明王があると出かける。門前にみろく院縁切不動明王とあった。縁切不動明王とはしらなかったので驚いた。

この金生山善福寺、号は弥勒院、本尊は弥勒尊、真言宗醍醐山報恩院末、開基は行基。宝亀三年(772)釈勤操和尚により再興、天正十六年(1588)、蒲生氏郷が松阪城を築城、その時松ヶ島より現在の地に移したと云う。享保十四年(1792)二月、類焼により堂、社ことごとく消失、堂は延享元年(1744)三月、再建したという。


不動明王は大日如来の化身とも言われているので、縁切り参り、悪縁退散、病気平癒、諸願成就と何でも願いを聞いてもらえるのだろうか。本堂の左側奥に、不動明王尊があった。不動明王尊の前で若い女性が手を合わせていた。願い事が難しいのか10分ほど熱心に拝んでいた。我々に気が付いたのか場所を譲ってくれた。覚えたての不動根本印を結んで15秒で終わってしまった。社務所に縁切りの作法が書いてあった。

悪縁切りを希望される方は、左記の作法(手順)に従って下さい。
「先ず縁切り紙札(二百円)を買って、紙札に「願事」を書いて、その紙札を水かけ不動尊前の石鉢の水に浮かせて、溶けるまで祈る」とある。この二百円の神札を買うことが一番の肝要で二百円で、願い事が叶うなら安いものだと思いながら水かけ不動明王を振り返ったら、先ほどの女性が再び、願い事をしていた。昼飯はどこで、何を食べようかと悩んでいる人と違って彼女の悩みは深そうだった。旧松坂御城番長屋を見学する前に、腹ごしらえと松坂城跡のすぐ近くの自然薯料理をメインにした「本居庵」に行く。年寄り向けのランチと自然薯のかば焼きを頼んだ。


本居庵から徒歩2.3分の所、松坂城二ノ丸南隅の石垣のある裏門跡の先、旧三之丸に位置する石畳の小路を挟んで両側に二棟からなる松坂城を警護する「松坂御城番」という侍、二十人の組屋敷が保存されている。

各棟とも一戸あたり間口五間を基準として,東棟十戸,西棟九戸が残っている。平成16年12月、国の重要文化財に指定された。松阪市はこのうち一戸を借り受けて整備を行い、平成2年から一般公開している。



この松坂御城番というのは、家康が武功抜群の士九十名を三州横須賀の大須賀康高に属させ横須賀党と称していた。徳川頼宣が紀州徳川家初代藩主として転封に伴って、元和五年(1619)紀州徳川家、付家老として安藤直次も紀州田辺に転封させ、その時、横須賀党三十六家を二百石与力として田辺へ遣わした。安政二年(1855)、田辺に居住する紀州藩横須賀組一統に対し、突然十七箇条にわたる紀州家から支藩安藤家への支配替(藩主直属の直臣から藩主の家臣安藤家の家臣である陪臣)の通達があった。横須賀組二十二家(与力一統は、田辺安藤家に付けられた当初、三十六家だったが、安政二年時点では二十二家に減少)はこれに猛反発し拒絶し一統は浪々の身となりながら復帰運動を展開した。文久三年(1863)、直臣としての帰藩が叶い旧田辺与力二十人は四十石扶助を賜わり、松阪御城番となり、松阪城三ノ丸内に御城番長屋を賜ったという。

参考
田辺与力騒動 和歌山県史 
幕末武士の失業と再就職(紀州藩田辺詰与力騒動一件)中公新書

 

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松阪 樹敬寺

2023-07-21 | 

松阪市は南西に奈良県上山町大台ケ原の県堺まで直線で約60km、面積も623k㎡とかなり広く、東京の特別区部とほぼ同じ広さを持つ。街を歩いていても人を見かけることが少なく、目印になる建物もないので、スマホで地図を見ながらでないと、迷いそうになる。常教寺から樹敬寺へは歩いて5分程度。地図をみても山門の場所が分らず墓地と境内を結ぶ裏門から本堂に向かった。



樹敬寺は浄土宗寺院で号は法幢山、知恩院の末寺で建久六年(119)、俊乗房重源上人建立時は不断念仏院とした。正長年中(1428~)に兵火で一山悉く焼失、享禄元年(1528)、三州大樹寺二世敬誉上人当国に来り、廃墟のうちに小庵を結び、ついに伽藍を再建、このとき樹敬寺と号したという。元亀元年(1570)、知恩院より浄土一宗僧録職の勅命あり、それ以来蝕頭の職を伝える。寺の墓域に国学者本居宣長墓がある。無学を自慢するわけではないが、本居宣長の功績が何なのか全く知らなかった。係り結びに法則があることを発見し、「詞玉緒(ことばのたまのお)を刊行したとある。玉緒を検索したら、中村玉緒の笑い顔が出てきたのでガックリした。樹敬寺墓域の入口に鈴屋大人月参墓(本居宣長翁)と原田二郎翁墓所とある。

本居宣長一族の墓は「跡 本居宣長墓」とある高い石柱があるので直ぐわかる。


本居宣長墓 附本居春庭墓は昭和11年に国の文化財指定となっている。文化庁の説明に「本居家累代ノ墓所ニアリ宣長ノ遺言ニ拠リ營ミシ所ニシテ墓石ニハ高岳院石上道啓居士、円明院清室惠鏡大姉ト刻ス即チ夫妻ノ法名ナリ其ノ後ニ春庭ノ墓アリ明章院通元道永居士、雅靜院淑和慧厚大姉ト刻セリ」とある。同じ11年に松阪駅南西約7kにある山室山にある本居宣長墓も国指定文化財となっている。文化庁の説明に「山室内ノ上ニアリテ妙樂寺境内ニ接續ス宣長生前ニ自カラ他ヲトシ遺言セルニヨリテ葬リシ所ナリ。小塚ヲ築キ上ニ櫻樹ヲ植ヱ自筆ニテ本居宣長之奥墓ト題スル墓石ヲ建テ石柵ヲ繞セリ柵ノ傍ニ平田篤胤ノ歌碑アリ」とある。この説明を読むまで本居宣長の墓が、遺体を埋葬する所を「埋め墓」、墓石を建てる所を「参り墓」と呼び、遺体を埋葬する場所と墓石を建てる場所を別々に設ける「両墓制」の墓だとはしらなかった。伊勢見聞集に「山室村妙楽寺、本居宣長ノ墓 石碑面 本居宣長奥墓 銘年号等無之 宣長自筆妙楽寺ニ有之」とあった。

山室の妙楽寺の山にはか所をさだめかねてしるしの石をたておくとて  宣長
山むろに千年の春のやとしめて風にしられぬ花をこそ見め。
本居一族墓域の先に松阪出身の明治大正期、大阪の鴻池財閥の経営者で、原田積善会を創設した原田二郎、原田家之墓がある。

近くに墓名は海軍大将鈴木貫太郎書、墓碑は海軍中将杉坂悌二郎撰竝書による松阪出身の海軍中将須賀彦次郎の墓があった。

さらに小野田家とある大きな供養塔があった。

塔の陰文に小野田高重二十七回忌、末娘七回忌に樹敬寺の小野田家墓所を修理し遠祖並びにここに埋葬された諸霊のため供養塔を建立したとある。この供養塔に三井家の家紋、「四ツ目結」があることから、この小野田家は三井家の連家と思われるが、苔むしていて誰が建立したのは判読できなかった。

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松阪 来迎寺から常教寺へ

2023-07-14 | 

松阪駅で初めて、松阪は「まつざか」ではなく「まつさか」と濁らないで呼ばれているのを知った。

市のHPを見たら、「まつさか」とひらがなのルビが振ってあった。ネット情報によると、明治二十二年の市制、町村制の施行により「つちへん」の松坂から「こざとへん」の「松阪」に変え、さらに平成17年1月の市町村合併により読み方を「まつさか」で統一したという。白粉町の来迎寺を訪ねる。白粉町というから華やかな花街にあるお寺かなと思ったら、天正十二年(1584)、近江日野城主蒲生氏郷が伊勢国領主となり飯高郡松ヶ島城に入城した。天正十六年(1588)、現在地の飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに城を築いた。昔、白粉を商売とする家が二軒あり、名付けたという。戦国時代に白粉が商売として成立つほど売れたのだろうか。来迎寺開基縁起によれば、永正中北畠材親、戦死の者を弔い戦場の罪を懺悔するため、松ヶ島に一寺を建て教主山真盛堂来迎精舎と号したという。蒲生氏郷の松坂城築城に伴い来迎寺も現在地に移転し、山号は教主山。院号は無量寿院とした。三重県の文化財をみていたら松阪駅から南西の方向約20kの飯南町深野に浄土宗の来迎寺があった。白粉町の来迎寺は「らいごうじ」、県指定有形文化財の梵鐘がある飯南町にある来迎寺は「らいこうじ」と濁らないという。



白粉町の来迎寺本堂は国の重要文化財に指定されている。享保元年(1716)十二月の松坂大火で表門(現在の裏門)を除き焼失したが、焼失後の享保十六年(1731)三月に再建された。

境内建物のうちで裏門が最も古く、現表門(鐘楼門)は文政四年(1821)に完成している。建物再建時には松阪の豪商三井家が深く関わっていたという。来迎寺裏門は一間一戸の薬医門で大棟の鬼瓦に「寛永二年(1625)七月吉日伊勢山田乃住人藤わら吉左衛門作」とヘラ書きがあり、市有形文化財に指定されている。

境内に御神籤の創始とされる元三慈恵大師良源を祀る元三大子堂があった。
             
比叡山延暦寺)の角大師護符、降魔(鬼)大師護符 小田原本源寺の豆(魔滅)大師、角大師護符
来迎寺のそばにスッキリした感じのお寺があったので寄ってみた。


真宗高田派の常教寺といい、昔は松坂の駅部田にあり、寛文十一年(1671)蓮乗院文応上人が現在地に移遷させたという。本堂は寛政十一年(1799)の建立。「延享元年(1744)高祖親鸞上人自彫の木像を勧請安置せり」と明治二十二年発行の伊勢名勝志にあった。親鸞上人の入滅は弘長二年(1262)十一月と云われているので、どこかの寺社等に招請して安置したのだろうか。この境内に観音堂があり霊験顕著にして信者群れを成せりというが、具体的な由緒は不明だという。。
本居宣長の墓がある新町の樹敬寺に向かう。

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JR鳥羽駅

2023-07-06 | 

15年ほど前、0番線ホームを探してウロウロ、旅をしたことがある。宿は三重の松坂に取ったが、名古屋からJR快速「みえ」で鳥羽駅にいった。0番線は2021年3月に閉鎖されたが、未練がましく0番線のあったホームを見に行った。現在の1番線の手前に0番線ホームがあった。


鳥羽観光の拠点駅でもあるJR鳥羽駅も観光客のほとんどが近鉄を利用するみたいで、鳥羽駅で乗降客は自分たちを含めて3組の7名だった。JRの快速「みえ」は、名古屋駅 と鳥羽駅間を関西本線・伊勢鉄道伊勢線・紀勢本線・参宮線の4線経由で運行している。一方、名鉄特急は名古屋駅 と鳥羽駅間を名古屋線・山田線・鳥羽線の3線経由で運行している。JRのほうが1線多く乗れると同行の家人に行ったら早くて楽な特急の方が良いと云われてしまった。JR鳥羽駅は無人駅であまりの寂しさにびっくりしてしまった。出口で回りを眺めていたら、家人が戊辰の戦いは此処から始まったのかと聞かれた。一瞬、何を言っているのかと思った。家人は鳥羽伏見の戦いは、ここから始まったと思っていたようだ。
鳥羽には昼食を取りに行った。駅から5分ほど歩いたところに大きな飲食店や御木本真珠店がある。危険地帯には近寄らないことにして、駅から2分の長屋みたいに店が連なっている鳥羽さざえストリート(駅前商店街)の生け簀がある店に入った。

小田原の伊勢海老は夏が解禁になる。冬の伊勢海老はどうかなと、刺身と焼きを頼んだ。



焼きはほんのすこしだけ甘みがあったが、刺身は塩気が強く、甘みが感じられなかった。小さな水槽に入れられ、いつ食べられるかとビクビクしながら餌も食べられず、身が痩せてしまったのだろうか。伊勢海老の頭で味噌汁を作ってくれた。これは非常に美味しかった。アワビとカキも焼いてもらった。


伊勢志摩の地元でアッパ貝と呼ばれているホタテ貝を小さくして貝殻に赤や黄色の色がついている檜扇貝をサービスで焼いてくれた。この檜扇貝、メニューに「Noble scallop」とあった。スマホで検索したら高貴なホタテ貝とでた。檜扇貝の原産地はどこなのだろうか。

松阪に戻ろうと南口のJR鳥羽駅に行ったら辺境秘境の駅みたいに誰もおらず、構内がガランとしており何か気の毒になってしまう。時間の関係で、近鉄特急で松阪にいった。
JR側から近鉄への連絡通路と近鉄側ホームからJRホームを見る。


0番線ホームの旅(2001/9/11)

 

 

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敦賀 永賞寺から来迎寺

2023-06-22 | 

永厳寺から歩いて10分ほどの、大谷吉継の供養塔がある永賞寺に行った。


号は圓通山、曹洞宗の丹波圓通寺の末寺で、開山は天正二年(1574)、丹波圓通寺十四世の住持武山栄文和尚による。門を入ると右側に九輪の石塔があった。この九輪塔が大谷吉継の墳墓と伝わっている。元禄の大火で什物記録、ことごとく焼失して何も残っていないという。

天正十九年領主大谷吉継、寺の諸役を免除し、大谷家の菩提寺にしたという。大谷吉継については、関ケ原で西軍として戦い戦死した武将としか知らなかった。越前敦賀城主でわずか一万石の小大名だとは思わなかった。大谷家の軍勢は何人いたのだろうか。一万石に侍、約八十人程度として、五倍して侍が四百人、城に残した侍が五十名として、残り三百五十人の一族郎党、足軽、雑兵含めて三千五百人程度の軍勢だったのだろうか。関ケ原で東軍・西軍が衝突したのが慶長五年九月十五日に大谷刑部少輔吉隆(吉継)は戦場で自刃した。この時、介錯したのが家臣湯浅吾助隆貞だと云われている。吾助は吉隆の首を隠した後、藤堂高虎の甥、藤堂高刑に討取られたという。「慶長五年東照宮、石田三成ガ党ヲ御成敗アリテ諸侯領地ヲ没収セラレ及減禄セラルル者悉クコレヲ采録ス」という文化十一年草稿完成の廃絶録によると、九月十五日、関ケ原の戦場で自害又は討死した西軍武将は越前敦賀大谷吉隆、日向佐土原島津豊久、越前安居戸田重政、摂州茨城川尻直次と非常に少ない。関ケ原での戦いとはどんな戦だったのだろうか。
永賞寺から2kほど離れた松島町にある時宗の来迎寺に行く。開山は京霊山正法寺国阿。国阿北国修行の途中、突然現れた松林の上に紫雲たなびくを見て、その地に一宇を建立し、岡見山紫雲院来迎寺と称したと云う。



来迎寺山門は敦賀城中門を移築したものだという。戦国時代、五万石大名の中門ってこんな質素な門だったのだろうか。少しイメージが違ってしまった。慶応元年二月四日から十三日にかけてこの来迎寺域内で水戸天狗党三百五十二名を斬刑に処し三間四方の穴を五ヶ所に堀り、死骸を埋め、塚を築いたという。今この遺骸を埋めた墓地は土盛され、方十二間高さ八尺、西面十五基(討死一基。病死一基含)の墓石を立て石柵で囲っている。昭和九年十二月、武田耕雲斎等墓として二百五十六坪の地域が国の史跡として指名されている。来迎寺を訪れるのは初めてだと思っていたら、10年前の自分のブログをみたら来迎寺山門の写真が載っていたのでびっくりした。夕方、天気予報を見たら、10年に一度の大寒波が来る予報で慌てる。夕飯も10年前と同じ「まるさん屋」で慌ただしく済ましてしまった。



泊りをキャンセルして、翌朝、一番で帰ることにした。


水戸 天狗党(2012年1月)

敦賀 越前ガニ(2012年2月)



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