大佗坊の在目在口

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築地外人居留地

2013-12-02 | その他

東京中央区明石町の築地居留地跡地に、ある学校の発祥の地を見に行った。明石町は隅田川の西側に面し、川中にある佃島を淡路島に見立て、明石の浦に似た風景とも、明石の漁民が住み着いた漁師町とも云われ、約400m×300m位の地域が明治元年十一月にから開市場として実施され外国人居留地が設けられ、原則として外国人はここに居住することになった。
 
左、青の地域(居留地)赤の地域(雑居地)茶の地域(明治五年大火後相対借り地域)
右、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A04017236400東京築地居留地調

欧米諸国との修好通商条約により、安政六年六月(1859)、神奈川(横浜)、長崎、箱館が開港場、慶応三年十二月(1868)兵庫(神戸)開港、大阪開市場は明治元年七月に開港場と改めている。通商条約によれば、開港地は居留地及び借地を行い、住居・倉庫の建築を認めた。開市場は逗留及びその為の家屋の賃貸を許したが、開港場と異なり外国商船等停泊を認めなかった。家屋を撤去して地所を造成し、外国人にこれら地所を貸与する居留地とその周りに外国人が日本人から家屋を借りて住むことができる相対借り地域、すなわち内外人雑居の雑居地を定めている。万延年間改正の築地・鉄砲洲の絵図に無理やり東京築地居留地の概念図を重ねてみた。

現地に行って歩いてみて思ったよりかなり大きな面積だった。東京築地居留地は横浜が既に貿易港として盛況だった為、貿易商には人気なく、空き地も多く、住民は主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため東京築地居留地を発祥の地とする学校は多く、「発祥の地」の碑を建立している学校も廻っただけでも十を数えた。
①東京中学院発祥の地 
 

②雙葉学園発祥の地 
 
③暁星学園 
 
④青山学院記念の地                        ⑤女子聖学院発祥の地 
 
⑥明治学院発祥の地                          ⑩慶應義塾発祥の地 
( 
⑦立教女子学院築地居留地校舎跡記念碑 ⑧立教学院発祥の地 
 
⑨女子学院発祥の地 (6番地より移転)
 
①「関東学院の源流東京中学院発祥の地」の碑文
「 一八九五年九月十日ここ築地居留地四十二,四十三番地で米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立した。関東学院教育の源流はここに発する。校訓「人になれ 奉仕せよ」。二〇〇九年 創立一二五周年記念 学校法人関東学院 」
東京中学院は明治二十八年、築地居留地四十二・四十三番地(計九百九十二坪)に設立、のち牛込に移り東京学院設立。大正八年、横浜市南区三春台に中学関東学院設立(東京学院中学部廃止)、初代院長坂田祐が校訓「人になれ 奉仕せよ」を訓辞した。東京中学院の初代校長渡瀬寅次郎は明治十三年(1880)、札幌農学校第1回卒業生で、翌年の第2回卒業生には、内村鑑三、新渡戸稲造。第3回卒業生に旧会津藩士中根明がいる。関東学院初代院長坂田祐は旧会津藩士日向内記の娘、ミエと中村富蔵(旧姓平野重吉・会津上野尻諏訪神社宮司)の次男で、数奇な運命を経て教育者となっている。

旧東京築地居留地の史跡
関東学院初代院長坂田祐

A~J は旧居留地の史跡
A ガス灯 B 築地外国人居留地跡 C カトリック築地教会 D H・フォ―ルス住居の跡
E トイスラー記念館 F アメリカ公使館石標 G 浅野匠頭邸跡 H 芥川龍之介誕生の地
I 日本近代文化事始の地 J アメリカ公使館跡 ①~⑩は学校発祥の地

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