大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

麻布光林寺墓所

2013-12-23 | 掃苔

先日、ヒュースケンの墓を麻布光林寺に訪ねた。
 
 
お寺の表側からは想像出来ないほど、墓域は広く庫裏の右側にある道を進むと墓域にでる。麻布台の緩やかな傾斜地に①日向高鍋秋月家、②丹波福知山朽木家、③大和郡山柳沢家、④伊勢亀山板倉家、⑤肥前平戸松浦家、⑥対馬府中宗家、⑧伊予大洲加藤家(池之端加藤家)、⑨讃岐丸亀京極家、⑪美濃岩村松平家、⑬讃岐多度津京極家墓所などの大名家や旗本の墓域があった。
光林寺墓域略図(ヒュースケンの墓(A)、伝吉の墓(B))

墓域上段の右奥に①日向高鍋二万七千石秋月家六代からの九代までの墓がある。左から龍光院(秋月家六代種美)、法観院(秋月家七代種茂)、泰雲院(秋月家八代種徳)、俊徳院(秋月家九代種任)の墓が並んでいる。
 

秋月家墓所手前の②常智院は丹波福知山三万二千石朽木家五代稙治、常智院の隣が大和郡山十五万石柳沢家二代吉里室(姫路酒井忠挙娘)の③円徳院 
 
 お寺の庫裏の横を真直ぐ登って突き当りの右にあるのが伊勢亀山五万石板倉家二代重冬室(松浦鎮信娘)の④長慶院。
 
墓域の上側の水場の左側に二基、並んでいる右側が⑤本光院(肥前平戸六万石松浦家四代鎮信側室、その左側が対馬府中十万石格宗家三代義真室(京極家三代高和娘)の⑥円照院です。
 
反対側には⑦松浦家墓所があり、
 
その隣が⑧大洲加藤家から分地した旗本池之端加藤家墓所がある。ここに藤原泰周が誌した石板(石碑?)が残っている。泰周は旗本加藤家二代泰都(第三代藩主加藤泰恒の六男)の長男で後の黒羽藩主大関増業。
   
向側に石門、登楼を備えた⑨讃岐丸亀五万千五百石京極家の三基の墓がある。左から養性院は高和室で伊勢津石堂藩二代高次娘市子、中央松樹院は京極家四代高豊室(姫路酒井忠挙娘永)、右の天裕素性童子は京極家四代高豊男祐次郎の墓です。
 
讃岐丸亀京極家の前(池之端加藤家の隣)に⑩雲松院と彫られた石灯籠が幾つかあります、横に横たわっている石には京極家の四つ目結紋と大久保家の上リ藤に大字の紋が彫られていて、岩目地善左衛門の名もありました。石灯籠には京極高定奉納ともあり、高定は丸亀京極家六代高矩の初名であり、高矩の姉妹で大久保忠胤に室になった常子(恒)の法号雲松院なので、この場所に大久保忠胤室だった雲松院の墓所があったと思われる。
 
西側の上側に美濃岩村三万石大給松平家の家族の墓域がある⑪(右から芳池院五代乗保長男乗友室、敬信院・四代乗薀継室、清観院・乗喬子宝千代、後列右から清心院・五代乗保側室(平戸松浦鎮信娘)、桂株院・七代乗喬側室、千葉延子・六代乗美側室、) 
 
本堂の左側横に⑬多度津藩京極家墓所がある。
 
明治時代の実業家、志賀直道(旧中村藩主相馬家の家令、志賀直哉の祖父)と共同で足尾銅山を開発した古河財閥の創始者⑫古河市兵衛と家族の墓が本堂左側直ぐにある。本堂の裏手に同じ古河家の墓域⑭がある。ここは古河家の墓碑と古河財閥二代目の陸奥宗光次男で古河市兵衛の養子となった潤吉の墓所となっています。
 

池之端加藤家墓域石文
麻布光林寺(ヒュースケンの墓)

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光林寺池之端加藤家墓所石文

2013-12-20 | 掃苔

麻布台のゆるい南斜面にある麻布光林寺の墓域の最上段に池之端加藤家の墓域がある。ここに藤原泰周誌とある石板(墓碑?)があります。この墓域には三基の墓碑があり右側の徳院殿は初代加藤泰茂、左側の以心院は二代加藤泰都の墓碑です。中央の誠徳院は明治になってから建てられたもので何代目かは判らなかった。ここの石文によると「此廟我伊呂兄乃表之石文建給」とあり、伊呂兄(いろせ)が同母の兄弟を表すとすれば、藤原泰周は大洲藩主加藤泰みち七男(後の黒羽藩主大関増業)なので、石碑を建てたのは泰周の兄弟という事になるが内容がハッキリしなかった。池之端加藤家は大洲藩加藤家の分家で大洲藩二代藩主加藤泰興の三男泰茂を初代として旗本となった。


 
石文
草葉乃露止消給比尓□人之為尓止底此廟我伊呂兄乃表之石文建
給不礼留乎聞仁己将徒尓過須間使業尓有良祢婆諸共尓其事営仕奉曾尓
附氏聊石尓誌底曰良久柳峡消給比尓志人波女君尓於波志津禮杼
御心延乃誠々志左世尓須具禮給邊留事早久遠近尓聞衣仁多里秊老
給此底後波空蝉乃世乃穢良波志伎乎厭給此底頭卸志底墨乃衣乎纏志津都佛
乃御法乎明暮怠良世不給奈武□□然留波蓮乃上仁登給波□事波更
仁可疑業奈良祢杼猶濁□□世乃別□曾佐須賀尓忘礼難気□
朝夕尓君我佐々芳志法乃猶汲□閉武御佛之為
享和二季壬戌八月十又六日    藤原泰周誌
 
 
*上記文中(底)の文字は氏の下に横一の万葉仮名が使われていますが表記出来ないため底(て)を代用しました。
一応、仮名混じり文にしてみましたが、判別できない文字もあり誤読や、理解力の不足もあり、内容を十分に解読することはできませんでした。

草葉の露と消給ひに□人之為にとて此廟我伊呂兄の表之石文建
給ふれるを聞に己将徒に過すまし業に有らねば諸共に其事営仕奉そに
附て聊石に誌て曰らく柳峡消給いにし人は女君に於波志津禮杼
御心延の誠々しさ世に須具禮給べる事早く遠近に聞えにたり秊老
給いて後は空蝉の世の穢らはしきを厭給ひて頭卸して墨の衣を纏しつつ佛
の御法を明暮怠らせ不給なむ□□然るは蓮の上に登給は□事は更
に可疑業ならねど猶濁□□世の別□そ佐須賀に忘れ難き□
朝夕に君我佐々芳志法乃猶汲□閉武御佛之為
享和二季壬戌八月十又六日    藤原泰周誌

麻布光林寺(ヒュースケン墓)
麻布光林寺墓所

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麻布光林寺(ヒュースケン墓)

2013-12-16 | 掃苔

先日、築地居留地跡に東京中学院発祥の地を訪ねた。 それから、慌てて築地居留地の資料を漁った。 青山墓地内に外人墓地が決まるまで、麻布の光林寺が外国人の仮埋葬地になっているのを知らなかった。築地居留地でポルトガル人の子供が亡くなり、埋葬申し入れがあった。前例により暫定的な外人仮埋葬地を麻布光林寺としていたが、檀家の反対や外人だけの特定地区の設定等の要望もあり四年後の明治八年、埋葬地を青山共葬墓地と提案したが確定しなかった。外人死亡者のあった明治十年にやっと内務省の許可決裁となり、青山共葬墓地の一区画六百坪を外人墓地として、明治十二年になって墓地貸渡しの規則を定めた。青山霊園
 
仮外人墓地のあった五ノ橋の光林寺を訪ねた。

 
慈眼山光林寺は延宝六年(1678)市兵衛町(光林谷)に開創、元禄六年(1693)当地に移転、讃岐丸亀五万千五百石京極家三代養性院の発願により建立された。このお寺にH・ヒュースケン以外の外人の墓が残っていないか墓域を廻ったが見つからなかった。H・ヒュースケンは初代米国駐日公使ハリスの秘書兼通訳を務めた。万延元年十二月(1861年1月)、にプロイセン王国使節宿舎であった芝赤羽外国人旅宿から米国公使館のある麻布善福寺への帰途、古川中の橋付近で攘夷派浪士らの襲撃に遭い絶命した。 襲撃のあった中ノ橋と道路側欄干の説明
  
善福寺のアメリカ公使館跡の碑
 
赤羽接遇所(港区東麻布1の区立飯倉公園付近)は安政六年(1859)、芝赤羽根講武所附町屋敷地(弐千八百六拾坪余)に外国人のための宿舎兼応接所を設けたもので、間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行各十間のものとの弐棟の木造平屋家屋から成っていたという。
 
外国人旅宿の隣にある心光院(現在は東京タワー下)は明治四年八月から十月まで東京でどん底の生活を送っていた旧会津藩士の丹羽五郎が日本橋青物町に移転するまでこの心光院の門番所を借りていたところ。

光林寺本堂・庫裏の右側に墓域に行く道があり、墓域の中段、右手奥にヒュースケンの墓がある。その斜め前に東禅寺イギリス公使館で働いていたボーイ伝吉の墓があった。
 
 
伝吉の墓
 
伝吉は「栄力丸」の賄方として乗り込んだが、嘉永三年(1850)志摩沖で遭難、2ヵ月近い遭難のあとアメリカ船に救助され、10年近く外国を流浪して安政六年イギリス公使オ-ルコックを乗せた軍艦サンプソン号で江戸に戻ったが、わずか7ヶ月で刺殺された。

ヒュースケン墓碑文
   SACRED
 to the memory of
HENRY CJ HEUSKEN
 Interpreter to the
AMERICAN LEGATION
      in japan
BORN AT AMSTERDAM
 January 20 1832
DIED AT YEDO
 January 16 1861

光林寺墓域

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東京築地居留地の史跡

2013-12-06 | その他

築地聖路加病院の周り、居留地跡地に学校発祥の地の碑があるというので築地明石町に初めて行った。思った以上に色々な碑が建てられていて驚く。 右絵図)都史紀要四 築地居留地より
 
左)入船橋より    右)築地川公園から聖路加看護大
 
A、ガス灯 B、築地外国人居留地跡 C、カトリック築地教会 D、H・フォ―ルス住居の跡 E、トイスラー記念館 F、アメリカ公使館石標 G、浅野匠頭邸跡 H、芥川龍之介誕生の地 I、日本近代文化事始の地 J、アメリカ公使館跡 1~10は学校発祥の地

A、ガス街灯柱。この街灯柱は、以前この場所にあった「中央区立第二中学校」に設置されたもので、台座は学校の階段石が使われているという。
 
B、右側のレンガは、イギリス積みで積まれた築地外国人居留地時代のレンガ塀遺構の一部で、ベンチの座面に使われている花崗岩は大正15年に建設された復興小学校である明石小学校・明石幼稚園の旧校舎の階段に使用されていた石材を再利用したものだという。
 
C、鉄砲洲の稲荷橋付近で開いた稲荷橋教会がその前身のカトリック築地教会は明治七年(1874)、ここに司祭館と聖堂を建立した(昭和二年再建)
 
D、指紋研究発祥の地 英国人医師H・フォールズ住居の跡で日本の指印習慣に興味を持ち、科学的指紋法に関する世界最初の論文をネーチュアに発表した。

E、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町十九番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設され清水組(現在の清水建設株式会社)が施行した。平成元年に解体工事が行われ、平成十年に現在地へと移築復元された。
 
F・J、アメリカ公使館跡と石標 アメリカ公使館は安政六年(1859)、ハリスにより港区元麻布の善福寺に開設されたが、明治八年(1875)十二月に築地居留地内に移転した。のち明治二十三年(1890)に赤坂の現在地に移転したが、その時、八個の小松石の石標が残され、その内、3個が昭和五十九年(1984)に日米友好のシンボルとして赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、残る五個の石標は三個が旧病院前(現看護学校中庭)、二個が聖路加タワーの中庭前に設置した。
 
 
ハリスの秘書兼通訳を務めたH・ヒュースケンは万延元年(1861)、芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派に襲われ、翌日死去した。墓所は築地居留地の人々の外人墓地が青山墓地内に決まるまで、外国人の仮埋葬地になっていた麻布の光林寺にある。(麻布善福寺、アメリカ公使宿館跡)
 
G、元禄十四年(1701)、お家断絶となった播磨国 (兵庫県) 赤穂藩主、浅野家の江戸上屋敷地があったところで八千九百七十四坪の広さだったという。

H、「羅生門」「蜘蛛の糸」などでしられる芥川龍之介は明治二十五年 (1892) 三月一日の辰年辰月辰日に生まれたので、龍之介と命名されたという。

I、日本近代文化事始の地の左側に福沢諭吉の碑・右側には解体新書の碑が建てられている。
 

東京築地居留地(1~10は学校発祥の地) 

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築地外人居留地

2013-12-02 | その他

東京中央区明石町の築地居留地跡地に、ある学校の発祥の地を見に行った。明石町は隅田川の西側に面し、川中にある佃島を淡路島に見立て、明石の浦に似た風景とも、明石の漁民が住み着いた漁師町とも云われ、約400m×300m位の地域が明治元年十一月にから開市場として実施され外国人居留地が設けられ、原則として外国人はここに居住することになった。
 
左、青の地域(居留地)赤の地域(雑居地)茶の地域(明治五年大火後相対借り地域)
右、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A04017236400東京築地居留地調

欧米諸国との修好通商条約により、安政六年六月(1859)、神奈川(横浜)、長崎、箱館が開港場、慶応三年十二月(1868)兵庫(神戸)開港、大阪開市場は明治元年七月に開港場と改めている。通商条約によれば、開港地は居留地及び借地を行い、住居・倉庫の建築を認めた。開市場は逗留及びその為の家屋の賃貸を許したが、開港場と異なり外国商船等停泊を認めなかった。家屋を撤去して地所を造成し、外国人にこれら地所を貸与する居留地とその周りに外国人が日本人から家屋を借りて住むことができる相対借り地域、すなわち内外人雑居の雑居地を定めている。万延年間改正の築地・鉄砲洲の絵図に無理やり東京築地居留地の概念図を重ねてみた。

現地に行って歩いてみて思ったよりかなり大きな面積だった。東京築地居留地は横浜が既に貿易港として盛況だった為、貿易商には人気なく、空き地も多く、住民は主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため東京築地居留地を発祥の地とする学校は多く、「発祥の地」の碑を建立している学校も廻っただけでも十を数えた。
①東京中学院発祥の地 
 

②雙葉学園発祥の地 
 
③暁星学園 
 
④青山学院記念の地                        ⑤女子聖学院発祥の地 
 
⑥明治学院発祥の地                          ⑩慶應義塾発祥の地 
( 
⑦立教女子学院築地居留地校舎跡記念碑 ⑧立教学院発祥の地 
 
⑨女子学院発祥の地 (6番地より移転)
 
①「関東学院の源流東京中学院発祥の地」の碑文
「 一八九五年九月十日ここ築地居留地四十二,四十三番地で米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立した。関東学院教育の源流はここに発する。校訓「人になれ 奉仕せよ」。二〇〇九年 創立一二五周年記念 学校法人関東学院 」
東京中学院は明治二十八年、築地居留地四十二・四十三番地(計九百九十二坪)に設立、のち牛込に移り東京学院設立。大正八年、横浜市南区三春台に中学関東学院設立(東京学院中学部廃止)、初代院長坂田祐が校訓「人になれ 奉仕せよ」を訓辞した。東京中学院の初代校長渡瀬寅次郎は明治十三年(1880)、札幌農学校第1回卒業生で、翌年の第2回卒業生には、内村鑑三、新渡戸稲造。第3回卒業生に旧会津藩士中根明がいる。関東学院初代院長坂田祐は旧会津藩士日向内記の娘、ミエと中村富蔵(旧姓平野重吉・会津上野尻諏訪神社宮司)の次男で、数奇な運命を経て教育者となっている。

旧東京築地居留地の史跡
関東学院初代院長坂田祐

A~J は旧居留地の史跡
A ガス灯 B 築地外国人居留地跡 C カトリック築地教会 D H・フォ―ルス住居の跡
E トイスラー記念館 F アメリカ公使館石標 G 浅野匠頭邸跡 H 芥川龍之介誕生の地
I 日本近代文化事始の地 J アメリカ公使館跡 ①~⑩は学校発祥の地

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