大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

京都 和ごころ泉

2014-12-22 | 

ひとむかし前に訪ねた事がある四条の「和ごころ泉」にお邪魔した。
入口に「ぐるなび」から贈られたお祝いの胡蝶蘭が置いてあった。通された部屋でお給仕の子に聞いたら、ミシュランの二つ星になったお祝いだという。そんなことも知らないほど、ご無沙汰していた。部屋に掛軸が掛っていた。女将さんが来たらなんて書いてあるのか尋ねようと思っていたら、女将さんは小さなお子さんの面倒をみているのでお休みしているという。
若いお給仕さんに聞いて、スラスラ読めたら悔しいので聞くのを止めた。
 
このお給仕のYさん、ニコニコ明るく、こちらの話をご主人に伝え、ご主人の話をこちらに伝え、一生懸命に働いている姿は当たり前といえば当たり前なのだが、非常に好感が持てた。
 
お椀(湯葉)とお造り
 
八寸

   
   
焼き物(鰆)                    蕪蒸し
 
津居山カニ(兵庫 千鳥丸)
 
 
 
食事が終わって、表に出るとご主人がお見送りしてくれた。店から四条通りに向かって歩いて、暫らく経ってから後ろを振り向いたら、まだご主人が見送っていたのにはビックリした。

14年12月京都
和ごころ泉
京都市下京区四条新町下ル四条町366
075-351-3917
夜の部 17:30~21:30

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京都祇園 御料理たまりや

2014-12-19 | 

久しぶりに冬の京都に行った。当初、えちぜん鉄道三国芦原線の終点駅三国港で越前ガニをと思ったが、ここは以前に行った若狭の越前ガニと同じタグ色(識別マーク)に気が付き、慌てて他の港を探したが京都に宿を予約した後だったので、時間の制約もあり今回はカニを諦めて、市内での食事となった。
1軒は以前にお邪魔した店、もう1軒は行ったことのない店にした。
新しい店「御料理たまりや」はたまたま他のサイトで見つけた。まえに縄手通で同じ名前で店を、その後、移転して花見小路下る西側で九月に新たに再出発したという。新しく開店したところは板前さんも張り切っているのでどんなところか行ってみたくなる。
花見小路はいつ行っても人が多い。お店は二階にあるが「たまりや」の看板が小さく、ボ~ッとしていると通り過ぎてしまいそうになる。
  
カウンター6席、テーブルのある座敷が1部屋とこぢんまりとしているが、新しいカウンターは気持ちがいい。板前さんは福島中通り出身ということで同じ福島出身としてはポイントが高くなる。
  
先付(ウニとカニ)とお造り(アナゴは風味があって美味しかった)
 
スッポン鍋                     窓側にお客ごとに炊く鍋が並んでいた
 
いまでは貴重品のもろこの焼き物
 
椀物(極細の三輪ソーメンが珍しく、翌日買いにいった)
 
寒ブリと豆腐のもろみ漬け
 
本日はカキご飯(美味しくてお代わりしてしまった)
  
早い時間はおまかせ料理のみということだったが、女将さん含めて女性が2人、板前さんが1人、全員でお客に気を使い過ぎている所為か満席になると段取りが忙しそうだった。

お料理は関東人には嬉しい味でお酒が進む。これから春先や、夏にはどんな料理が出て来るのか楽しみな店だった。

14年12月京都

祇園 御料理たまりや
京都 東山区祇園町南側
四条通花見小路下る西側
075-541-5670
17時半~23時

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大久保氏六内庵(養託寺・慈眼寺)

2014-12-13 | 小田原

大久保忠職が加納五万石城下(岐阜市加納)に建立した三乗寺(旧宝源寺)、同じく忠職が加納城下に建立した本源寺(旧本性寺)、桃源寺、大久保忠職が明石七万石城下(兵庫県明石市)に建立した永久寺、大久保忠職が唐津八万三千石城下(佐賀県唐津市東城内)に建立した養詫寺、大久保忠増が小田原谷津に建立した慈眼寺を大久保氏六内庵と云う。
養詫寺は新編相模国風土記稿(風土記稿)に「侍屋敷にあり、浄土真宗(東六條本願寺末)瑞渓山養詫寺と号す、開基真暁法師、元和二年肥前国松浦郡唐津にて一寺を建、山寺号を本山より免許あり、四世普門、易学に精しき聞えあり、時の城主大久保出羽守(後加賀守と改む)、忠朝しばしば占考を命ず、忠朝延宝六年下総州佐倉に所替の時、其地に移し(此時本山に請ひ養託庵と改む、五世達秀の時、旧に復すと云ふ)、夫より随逐して当所に至る」とあり文久小田原城絵図によると養託寺の場所は今の小田原駅西口の神奈川県道73号小田原停車場線と小田原市城山を起点とする県道74号の分岐するあたりになる。養詫寺から養託寺に表記をかえた時期はハッキリしなかったが、寺は昭和39年(1964)に開通した小田原新幹線用地買収のため昭和30年代に現在地の城山二丁目に移転している。

左、明治二十六年小余綾城趾街略図(小田原市史資料編附録)。右、地図の上部斜線が新幹線
 
 

境内墓地には小田原藩家老挌杉浦平大夫久貫(左)、藩士で宝蔵院流槍術、曲全流半弧、石州流の三芸之師、畔柳宗拙政和(右)の墓碑がある。
   

大久保氏内庵の一、慈眼寺は風土記稿に「(字入谷津にあり」、黄檗宗(山城國宇治郡大和田村萬福寺末)、福聚山無量壽院と號す、大久保加賀守忠増、元禄十六年(1703)十一月廿三日大地震し、府内の人民横死許多なるを傷み、彼等追福の為に、一宇を建る志あり、幸に郡中府川村に、洞家の廃寺あり(久野村総世寺十世香馨、慶長十五年、隠栖の為に起立する所なり、萬治三年香馨卒後、廃蹟となる)、西光寺と號す、忠増彼寺の本寺総世寺の住僧(十八世實全)と謀り、宝永元年、引寺號の事を官に乞ひ、(寺社奉行安部飛騨守正喬奉れり)同四年許可あり、(本多弾正少弼忠晴奉れり)、是に於て寺名を慈眼寺と改め、正徳元年(1711)黄檗山の末となれり、同五年(1715)堂宇を此地に造立し、僧恵極をして住職とす(享保六年八月廿四日卒)、是を中興開山となす(實は開山なれど、舊寺を引遷せしを以て、中興とせしなり)。西光寺の舊地は(府川村内字天神下にあり)、今除地にして(今林となる、段別四畝四歩)、當寺の持なり、本尊三尊弥陀、領主より倉米三十苞、金若干両、及び伊張山にて(久野村の属)、山林(段別五十三町)を附す)」とある。
大久保氏長加賀守藤原朝臣忠増は正徳三年(1713)七月に亡くなっており、正徳五年に此地に造立された堂宇を見ることはなかった。この堂宇には小田原領内の元禄大地震で亡くなった被災者供養の為、五百五十余名の霊位の記録が残されていたという。松隈匡輔 編「小田原史実と伝説」
 
今ある小田原市板橋の宗福院地蔵堂は、明治八年、村内の出火で焼失した建物の後に、入谷津(現在 城山2丁目)の黄檗宗慈眼寺仏殿を移築したもので、桁行三間、梁間三間の主屋の四周に裳階をめぐらした方三間裳階付の構成で、外観は二重屋根です。前面の裳階を吹放しの土間とし正面中央の柱間を著しく大きくするのは黄檗宗仏殿の特徴だという。


大久保氏六内庵(三乗寺 本源寺)

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大久保氏六内庵(三乗寺・本源寺)

2014-12-02 | 小田原

小田原はお寺が多い。太政官が明治2,3年に亘り各藩より上申させ集録した「藩制一覧」によると小田原藩内のお寺は四百三十二寺あったと云い、新編相模国風土記稿(風土記稿)に小田原城下には五十一の寺院が記載されている。そのなかで、善立山三乗寺(浄土宗)、恵日山本源寺(天台宗)、龍鳳山桃源寺(曹洞宗)、盛徳山永久寺(臨済宗)、瑞渓山養詫寺(浄土真宗)、福聚山慈眼寺(黄檗宗)の各寺を大久保氏六内庵という。
桃源寺(曹洞宗)、盛徳山永久寺(臨済宗)の二寺については、小田原城山桃源寺(14-09-15)、小田原駅前北条氏墓碑(14-09-09)で載せた。

内庵については風土記稿に「およそ内庵と云るは、城主の開基なり、城主遷替あれば、随逐して其城下に至り、寺宇を結べるものなり、故に定れる寺地なく、侍屋敷中或除地の寺域中を借地して寺を建、城主より廩(蔵)米或扶助金を宛行へり」とあった。

小田原城主大久保氏は徳川家康譜代の家臣で、寛政重修緒家譜によれば、藤原道兼を遠祖とし宇都宮を名乗っていたが、秦道のとき宇津と称し、弾正左衛門秦昌の時三河松平郷にて信光に仕え、忠俊の時代に大久保に姓を改めたとある。家康関東入部で大久保忠臣が小田原城主となったが、嫡男忠隣のとき、家康重臣である本多正信・正純父子との勢力争いに敗れ改易となる。忠隣の子忠常嫡男忠職が大久保家の家督を継ぎ寛永九年(1632)、美濃加納五万石で入封、寛永十六年(1639)、播磨明石七万石に転封、慶安四年(1649)肥前唐津八万三千石に転封、忠朝(忠隣三男教隆の二男)貞享三年(1686)のとき、小田原十万三千石に転封となり以降、明治初期十代忠良まで続いた。

風土記稿に大久保氏六内庵の一つである三乗寺は善立山示現院と号し、寛永九年大久保忠職、濃州加納在城の頃、城下の宝源寺と云う古寺に一寺を起立し、播州明石に得替の時、城下西谷寺を修造し今の寺号に改め、是より領主に随従して小田原善照寺を借地し移住したとある。(文久小田原城絵図より)

善照寺
 

大正十二年の関東大震災により三乗寺と誓願寺が合併し「湘王山三乗院誓願寺」と改称したと云う。
誓願寺
 
石井啓文著「慶応戊辰小田原戦役の真相」によると戊辰小田原藩の責任を負って自刃させられた家老渡邊了叟の墓は三乗寺が誓願寺と合併したとき小田原板橋の明星山常光寺に移されたとあった。
(常光寺の渡邊家の墓域と渡邊了叟の墓)
 
 
大久保氏六内庵の一つである恵日山本源寺は大久保忠織亡父加賀守忠常のため、濃州加納に法華宗の一寺を建て、本性寺と号したが、貞享三年加賀守忠朝のとき、改宗して今の寺号に改め、天台宗東叡山(東叡山円頓院寛永寺)の末寺として僧宗海(下総国真岡圓林寺住僧)に住持させた。故に此僧を開山と称しているという。
 
この旧武家地の八反畑(栄町)の本源寺には元禄十六年十一月二十三日にこの地方を襲った元禄大地震による犠牲者の供養塔がいくつか残っている。
   
 
 

大久保氏六内庵(養託寺・慈眼寺)

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