小田原に板橋という地名がある。小田原城の南側の湿地に板を掛けたとも、そこから水を取り込むために作られた堀に板を渡しとも云われている。板橋の東海道に面したところに大久保氏菩提寺の大久寺がある。
風土記稿に「(越後國本成寺末)、寳聚山随心院と號す。天正十八年、大久保七郎右衛門忠世、當城を賜はりし時、遠州二俣に住せる僧日英(自得院と號す三州の人)を招き、暫し石垣山秀吉の陣所跡に在しむ(今石垣山三丸蹟に聖人屋敷と唱る地ありと云)、日英朝暮伺候せしに、忠世其老體の労を思ひ、當所へ寺地を與へ、大久山保聚寺と號す。のち寳聚山大久寺と改む」とあり、大久寺墓域にある大久保氏墓所の墓石は正面右から小田原大久保氏三代加賀守忠常、二代相模守忠隣、藩祖七郎右衛門忠世、勤三郎忠良(忠勝五男)、五郎左衛門忠勝(忠俊の子)、常源忠俊(忠世の伯父)、忠良の娘の墓で、これから前期大久保氏一族の墓所として小田原市の史跡に指定されている。
世田谷の教学院にある目青不動はもともと麻布谷町の観行寺の本尊であったが、同寺の廃寺で教学院に移されたもので、この教学院が大久保氏の菩提寺の一つになっている。世田谷区教育委員会の説明板によると「竹園山最勝寺教学院(天台宗)、本寺は慶長九年(1604)玄応和尚の開基により、江戸城内紅葉山に建てられたという。後、明治四十一年(1908)青山からこの地にうつされた。本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられる。また、不動堂の目青不動は東都五色不動の一つとして有名である。境内には相州小田原城主大久保家歴代の墓、南画家岡本秋暉、その子書家岡本碧巌等名家の墓がある。」とある。この教学院に西南ノ役で戦死した小田原藩最後の藩主だった陸軍伍長大久保忠良の墓を訪ねた時、忠良の墓文を撰并書した陸軍大尉岡本隆徳の号が碧巌であることを知らず、書家岡本碧巌の墓を訪ね損ねてしまった。
寺墓域の左側に下野烏山三万石大久保家墓所が在り、その背後に相模小田原十一万三千石大久保家の墓所がありその中央に大久保家九代、小田原藩七代目藩主大久保忠真の碑が建立されている。
小田原大久保家墓所
故閣老小田原侍従加賀守藤公墓碑銘 従五位下大学頭林皝撰文
皇孫従四位下加賀守小田原城主大久保忠愨題額
家臣小山安恭謹書 嘉永二年巳酉春三月
裏面は小田原彰道公碑陰銘
大久保忠愨は天保二年(1831)、父・忠脩が早世したため嫡子となり、天保八年(1837)、祖父の忠真が急死したために家督を継いでいる。
教学院墓域左手最奥には荻野山中一万三千石大久保家の墓所がある。
故陸軍伍長従五位大久保忠良墓
公諱忠良大久保氏従五位教義家子母加納氏其先小田原城主諱忠
世公世為其支封明治元年宗家忠禮獲罪於朝国除徳旨撰旅為嗣公□
甫十一入承家優詔賜封七萬五千石叙従五位任相模守二年四月納封
士更任小田原藩知事賜禄若干列華族四秊藩撤公亦免居四年謝疾忠
禮再承家公概然思所以報国請入陸軍教導団自以請非起身於
卒伍則安得為良将乎十年西南変起公任陸軍伍長奮従王師三月
二十九日遂戦死于肥後国木留葬于国見山享年十有九朝廷追慎賜
祭祀料聞者無不哀惜越十二年□遺髪于東京先塋之次嗚呼公
碑文右側二行のほとんどが人為的に削られており判読できませんでした。
明治十三年七月陸軍歩兵大尉叙正七位岡本隆徳謹撰并書
岡本隆徳は小田原藩に仕えた岡本秋暉の長男(天保七年三月生で、荻野山中藩に仕える。維新後は陸軍に在籍、明治十三年当時は陸軍省総務局軍法課ケ僚兼法則掛として勤務、明治二十六年の陸軍省現員調書に奏任官理事岡本隆徳の名があり、明治二十七年に退官して、読書と書道三昧の生活を送ったという。尚、皇居広場に在る楠正成銅像の銘文の揮毫者でもある。
小田原市史に、明治十一年二月「松原神社境内に西南の役忠魂碑建碑概要記事」が掲載されていた。
小田原駅県社松原神社境内の良地を撰び、西南の役に戦死した人の為、招魂碑を設立しようと出願し許可になった。豪額は有栖川宮、文は重野一等編纂官、書は巌谷修で、その費用は千七百円の寄贈が集まったと云う。
松原神社は、風土記稿によると「古は鶴森明神と号す、こは後醍醐天皇の時、当所に真名鶴が棲みけるをもて、故鶴の森と唱へしによれり、遥か後天文年中、山王原村海中より金佛の十一面観音石窟に入て、松原に出現あり」「是に於て神号を改しと云う」また「一説に古は山王原村の松原に在り、古此神号ありと云ふ」とあり創建年代がはっきりしないものの由緒ある神社で、早速出かけた。
あまり広い境内ではなかったが、高さ一丈二尺余、横八尺のへんこ石で建立されたと云う招魂碑はどこにも見つけられなかった。アレ?という感じだった。
前述の記事によれば「既に文章は出来したる様子なれども、彫刻は凡五ヶ月余も掛らねば落成せずと、依て石碑竣工迄を待ち兼ねて、祭典のみを執行せらるる」とあり、数百の毬灯を点し、七八百人の人出だったという。祭祀だけ先に行ったということか。
小田原町誌によれば西南役に政府筋より旧藩士に対して別働隊として徴募巡査の交渉有ったが実現せず、当町より従軍の兵員も極めて少数で人心を衝動するにいたらなかったと云う。碑が無くなったのかと調べてみると小田原城山の大久保神社傍に在ると云う。昭和42年3月発刊の小田原市郷土文化館研究誌「小田原の金石文」記載の靖献之碑所在地はまだ本町の松原神社となっており、いつ動かしたのだろうか?
靖献之碑を城山に探しに行った。大久保神社をまず訪ねた。蜘蛛の巣だらけの石段を登ると本殿があり、右手の金網に遮られた道路の反対側に広場の入口があり小さな石碑がみえた。
一旦神社を出て、坂を下り小田原高校前バス停の裏側の坂道を登ると高校に入る石段にぶつかる。その手前を左に折れると右手の林のなかに石碑群がみえ、その脇に小さな小道があった。
蜘蛛の巣をかき分けていくと何のことは無い、先ほど神社の金網越しに見えた広場の反対側にたどり着いた。
やっと靖献之碑を見つけた。碑裏には西南戦争に従軍して戦死した大久保忠良以下二十五名と戊辰戦争で官軍方に付いて戦死した小田原藩士十三名の名が刻まれている。
華族でもあった小田原藩最後の藩主大久保忠良が陸軍伍長として西南の役に参加したのは何故だったのだろう。なぜ大久保忠良は下士官の養成機関の教導団に入団したのだろうか。明治十年五月二日附陸軍省記録によると、大久保忠良は教導団生徒として修学中、西南の役勃発により三月十日、伍長拝命同日大坂鎮台付となり征討軍団として二十二日博多に着、二十五日柳川から連絡を最後に音信不通となったようで養父の大久保忠禮が東京府知事を通じて陸軍省に音信の途絶えている忠良の在陣地と部隊名を問い合わせている。その回答によると、第一旅団歩兵第三連隊第三大隊第三中隊華族陸軍伍長大久保忠良は三月廿九日肥後国山本郡木留口に於いて頭に刀創を受け戦死したというものであった。大久保忠良は肥後国木留国見山に埋葬されたが、のち遺髪を持ち帰り教学院の大久保氏墓域に埋葬されている。
教学院本堂と小田原大久保氏墓域
小田原大久保氏墓域入口と陸軍伍長従五位大久保忠良墓
大久保氏菩提寺