大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

長州 萩の旅(毛利家墓所篇)

2011-11-27 | 

毛利家歴代藩主の墓所は、萩市にある旧天樹院墓所、大照院墓所、東光寺墓所と、山口市の香山墓所の四ヵ所にあり、萩には毛利輝元、萩藩主初代秀就以下十二代藩主までの歴代藩主の墓がある。萩藩は毛利輝元が慶長五年(1600)、関ヶ原の乱の責任をとって隠居して、子の秀就がわずか六才で家督をついだことにより、秀就を萩藩主初代としている。

萩市堀内に以前、輝元の隠居所である四本松邸があり、死後そこを菩提寺として天樹院(輝元の法号)が創建されたが、明治二年(1869)廃寺となり輝元と夫人の墓石のみが残こされている。ここには殉死者長井治郎左衛門の墓石もあると説明にあったがどこにあるのか気が付かなかった。

 

 

 

大照院墓所は萩市椿にあり、二代藩主毛利綱広は亡父の初代藩主秀就の菩提寺とするため、承応三年(1654)旧月輪山観音寺跡に墓地造りを始め、二年後の明暦二年に大照院を完工し、その時初代藩主秀就の法号にちなんで大椿山歓喜寺を霊椿山大照院と改めた。

ここには、初代藩主毛利秀就のほか、二代、四代、六代、八代、十代、十二代の歴代藩主及び夫人の墓があり、奥平謙輔墓もここの寺域墓地の中にある。

   

 

  

 

東光寺墓所は萩市椿東にあり、この墓所には三代藩主毛利吉就のほか、五代、代、九代、十一代の歴代藩主及び夫人の墓がある。この東光寺の山号は護国山、萩藩三代藩主毛利吉就が元禄四年(1691)建立した黄檗宗のお寺です。

 

 

 

 

 

 右手にあった一族(子、孫、側室、侍女)の墓。

 

萩毛利家の初代と偶数代藩主の墓は大照院、三代以下奇数代藩主の墓は東光寺にあり、この分け方は中国古代春秋時代の王侯の廟の配列「昭穆の制」を取り入れられたといわれている。昭穆(しょうぼく)は太祖の廟を挟んで「昭」と「穆」が交互に向い合せになる。毛利秀就を初代藩主はとして、二代藩主と共に大照院、三代藩主は東光寺、毛利輝元は別格として天樹院として、その墓所から東側3、7Kに東光寺、南側2、3Kに大照院があり、「昭穆の制」を取り入れた葬制としているが、寺院の配置をみると萩毛利家の精神的な藩祖は毛利輝元という事に思えてくる。

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長州 萩の旅(奥平謙輔・前原一誠篇)

2011-11-22 | 掃苔

古都というべきなのか、時代から取り残された町と云おうか、長州藩の城下だった萩の町を回った。司馬遼太郎の街道をゆく第1巻は「長州路」。「天誅だぁ」という子供のあそびが、昭和の初年ごろまで、山口県下のどの町でも村でもおこなわれていた。これが薩摩へいくと「チェスト!関ヶ原」という掛け声になる。この短い文章が長州藩と薩摩藩がもつ属性を的確に表しているように思える。ここも40年前に訪れたが、毛利家菩提寺の東光寺と松下村塾と萩焼のぐい飲みしか記憶が残っていない。今回も駆け足で萩の町を通り過ぎたが見どころはたくさんあった。

 

東光寺、毛利家墓所、吉田松陰の墓所・誕生地・幽囚の旧家、高杉晋作草庵跡地顕彰碑、玉木文之進旧宅、伊藤博文旧宅、吉田稔丸誕生地、松陰神社、松下村塾、大照院、毛利家墓所、奥平謙輔墓、前原騒動慰霊碑、周布政之助旧宅地、奥平家長屋門、前原一誠旧宅地、弘法、寺前原一誠墓、天樹院毛利家墓所、旧毛利家別邸表門、高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、野山獄跡、岩倉獄跡と内容を別にすれば廻った所だけ列挙するとすごい数になった。

会津では長州藩士奥平謙輔には特別の感情を持っている。戊辰の戦いの後、会津藩秋月悌次郎らは会津の将来を託する人材として会津の子弟を奥平謙輔に預けた。のちの東京帝国大学総長山川健次郎や戊辰の戦いで父親小川傳吾(号清流)に「死ねや直道死ねや直道」と送り出されたのが、のちの工兵大佐小川亮である。この奥平謙輔の墓を毛利家墓所でもある大照院に訪ねた。

 

大照院奥平家墓域

 

(中央、奥平謙輔墓、 弘毅齋源居正墓 奥平氏枝葉合葬)

 

奥平家墓域は大照院庫裏右側の駐車場脇の道を上がって二股を右に進み、2枚目写真の所の右墓域の中央の石段を上がると左側にブロックで囲まれたところが奥平家墓域です。

  

右、奥平家墓域から写したもの

 

奥平家長屋門

 

萩でやたら目に付いたのが椿という地名。椿という苗字も椿三十郎だけだと思ったらとんでもない話だった。徳川幕府により交通に不便な日本海に押し込められた毛利家の地にも、昔、若狭の八百比丘尼が玉椿を持って諸国に椿を植えてまわった話のように、信仰を運ぶ旅人が神ノ樹として植えた椿がその土地に根付いて地名として残っていったのだろうか。

 

佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱に続き木戸孝允と対立して萩へ帰郷した兵部大輔前原一誠は奥平謙輔らと明治九年(1876)挙兵した。前原は親交のあった思案橋事件(千葉県庁襲撃事件)の元会津藩士永岡久茂とも連絡を取り合っていたという。この前原騒動慰霊碑(萩市椿2094-3道前の川沿い三角地)と弘法寺の前原一誠墓にも寄った。

 

前原騒動慰霊碑(この碑は、地元の方が、この激戦地で戦死した方々の霊を慰める為に建てたと言われています)

前原一誠旧宅地

 

弘法寺と前原一誠墓

 

 

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下関紀行

2011-11-18 | 

長州上陸の第一歩は下関から始めた。昨年も同じ時期に下関に来たが、門司港から船で渡り、唐戸市場で飲んでまた船で門司港に戻ったので、ここの観光は四十年振りになる。その時、赤間春帆楼でパサパサのフクを食べた記憶しか残っていない。今回、この下関が高杉晋作・奇兵隊、奇兵隊・高杉晋作とこんなに賑やかだったとは知らなかった。幕末に「凡戦者、以正合、以奇勝、戦勢、不過奇正、奇正之変、不可勝窮」という奇兵隊の「兵者詭道也」に正々堂々の戦いでと云っている場合ではなかった。地方に行くと、なるたけ招魂場には寄るようにしている。桜山神社のある日本初の招魂場、桜山招魂場を訪ねた。

 

 ここは主として奇兵隊、報国隊の人々が祀られていて、今はその数391柱の銘碑が建てられている。神霊碑の真ん中は台座が二段の「松陰吉田先生神霊」、むかって右が「高杉晋作春風神霊」、「入江直八養直神霊」、左に「久坂義助道武神霊」「吉田稔麿秀実神霊」と並んでいます。桜山顕光録(復刻版)によると、二列広瀬徹和義と五列廣世徹和儀は同一人としているが、さらに詳しく調べると、六列久松と奇兵隊付郷侠組久松(同日傷死)、同六列奇兵隊小者利吉と奇兵隊別当利吉(顕光録解説では同日病死、碑文は異なる)と数名の重複碑があるみたいで、祭祀者数は391名から388名の間ということになる。 

 

高杉晋作は功山寺挙兵後、厳島神社入口横にあった萩藩新地会所を襲撃し、一時屯所として立て籠もった了円寺に向う(桜山神社裏側の道からすぐ)。了円寺本堂横の小部屋の丸柱に二箇所、斜めに切られた形で残されている刀痕を見せてもらった。この刀痕、見る人が見るとかなりの技量とのことだがよくわからなかった

 

海を司る神霊を鎮めるために、嚴島三神を祀って安全と恵みを祈願している長門国嚴島神社で嫌なものをみた。ここは高杉晋作が戦勝祈願をし、小倉口戦いで小倉城から略奪した大太鼓を奉納した。この神社は略奪した大太鼓を自慢げに鐘楼に吊り下げしかも毎年9月の第一土曜日に小倉戦争戦勝記念として「太鼓祭」を催しているという。今、小倉側が返還請求して神社側がそれを断っているという。ここの宮司は戦利品を飾ってなんの安全と恵みを祈願しているのだろう。

 

 

高杉晋作終焉の地から奇兵隊のパトロンでもあった白石正一郎旧宅跡を通る。   

壇ノ浦の砲台跡に寄ってから安徳天皇阿弥陀寺陵から我家遠祖とおぼしき平家一門の平家塚にお参り

  

 

 

馬関攘夷戦の口火をきった亀山砲台、最後に白石正一郎が建立した鳥居のある大歳神社に行く。ここの石段はきつかった。後日、久坂玄瑞が各地の浪士等と結成した光明寺党結成の地である光明寺、奇兵隊の一時本陣となった東光寺にいった。 

              

 

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斗南藩 安渡丸

2011-11-02 | 會津

明治八年十一月(1875)、「交通運輸ノ機関稍々興起スト雖モ独リ海員ニ至リテハ有為ノ材ニ乏シク特ニ国歌ノ有事ノ日我航海権ヲ委棄スルノ患アルヲ以テ之ニ備フルノ必要アリ」と海員養成のため東京に設立されたのが私立三菱商船学校。明治十五年四月、官立の東京商船学校となり、その後平成15年、東京商船大学と東京水産大学が統合して今の東京海洋大学となっている。明治十一年、三菱商船学校の第一回卒業生は楡井次郎、春日融、浅岡俊吉、郡寛四郎、三崎彬次郎、吉沢信吉、森田盛嗣、岩永敬四郎、野中高庸の九名。全員士官として三菱会社に迎えられた。この中に斗南藩(旧会津藩)の関係者は楡井次郎、浅岡俊吉、郡寛四郎の三名。特に兵学校在籍の経験があった第二回運用科本科浅岡俊吉については十年一月商船学校入学、座学を1年で修了し実地航海に派遣され本則を1年6ヵ月で卒業した三菱商船学校最短学歴者として、浅岡俊吉の航海履歴が商船大学史に記載されている。この実歴に「明治二年五月ヨリ旧斗南藩所轄風帆船栄丸、同三年二月ヨリ同藩所轄風帆船安渡丸ニ乗組ミ稽古人トナリ」とある。旧会津松平氏が家名の再興を許され華族の列に加わり陸奥国で石高三万石支配は明治二年十一月のことで旧藩士の大部分は三年春から閏十月にかけて新天地に移住した。斗南の名称は移住と同時に使われたものとおもわれるが、斗南と名付けた時期は明確ではない。斗南への移住費と当面の生活費に四苦八苦していた藩に西洋型風帆船を買い入れる余裕があったとはとても思えなかったが日本郵船船長河原勝治によれば尾張藩より大金を借り風帆船二艘を購入したとある。一艘の船は明治三年秋、鹿島洋に於いて大暴風雨に遭遇し着岸破潰したという。安渡丸はのち開拓使所属船となっているので、この鹿島洋で破潰した船は風帆船栄丸だったと思われ、浅岡俊吉の航海履歴の年月には疑問が残るが、工学院大学の前身である工手学校の第四代校長石橋絢彦(工部大学一期卒、大竹多気は五期卒)が旧会津藩士岸俊雄の塾に通っていた明治四年頃、築地の河岸に会津藩の安渡丸が係留してあり、船長は小笠原賢蔵という幕臣で、角田秀松、加藤勝彦、楡井次郎、郡寛四郎等二十人計り乗り組し、昼間は安渡丸にて甲板上で稽古を行い、昼後は岸先生の塾に通学していたという。この頃の永岡久茂の詩がある。

何科死灰不再燃 乗除元自有天縁 斗南港上十年後 欲繋五州々外船

永岡久茂は十年後には、斗南港(今の大湊港)が五州の船で賑わうことを夢見た。明治四年二月、斗南藩は幕末から下北の海運の中心だった安渡湊に面した安渡と大平を合わせ大湊村とし大湊港を開港場として貿易の振興を図った。藩所轄風帆船安渡丸はこの地名からきている。

大湊湾(轄製二十万分一図(明治二十四年~二十六年製))

この安渡丸については函館海運史に長さ百五間、幅二十一尺スク―ネル型源名インデベンデスとあり、明治五年二月、斗南藩より開拓使が購入して石狩との運送に使用したのは判ったが、いつから斗南藩がこの安渡丸を所有していたかは不明だった。ところが今年、公開された外務省記録の中にこの安渡丸の航海免状と買入の件(願出)があった。英国ア・ファ―ブルボエルン商会斡旋により売主は横浜米国ヂ・ライス并エン、代金が洋銀で五千五百。帆前船スク―ネル形一艘、木製、二本檣、頓数百十、長百零五尺、幅二十一尺、深九尺、元船名インデベンデンス改名安渡。やっと安渡丸の素性がはっきりした。

 

 

 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B11092319200

スク―ネル型帆船(東京海洋大学百周年記念資料館資料から)

明治四年六月十七日、御免状を受け取ったのが斗南藩少属堀悌助。悌助は羽山氏養子となり羽山光和と改名、開拓権大主典官、准奏任御用掛等を経て根室県大書記官となっている。その時の県令は湯池定基、その妹は乃木将軍の妻となった静子。「根室県大書記従六位羽山光和之墓碣」とその墓は谷中霊園にあり、書は会津の書家佐瀬得所の三男、佐瀬得三による。

  

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