大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

桜田通り(正源寺・寿昌寺)

2013-08-30 | 掃苔

国道1号の桜田通りから都道312号、通称目黒通りの日吉坂を少し登った白金に萬栄山浄喜院正源寺がある。
 

慶長八年(1603)、木挽町に開創、元和四年芝金杉に転地、又延宝七年(1679)、現地麻布白金村に転じた。もともと正源寺は法然を開祖とする浄土宗のお寺でしたが、現在は宗派から独立して単立寺院となっている。ここは会津藩御側医師永峰晴水家の菩提寺でもあったが残念ながら見つけることが出来なかったが、会津藩士瀬野家の墓域があった。墓碑には瀬野久吾戊辰之役八月二十三日大野ケ原にて戦死とあった。8月23日(旧暦)と云えば、白虎隊士中二番隊十数名が大野原・戸ノ口原での激戦の末、飯盛山にて自刃した日でもあり、西軍が若松城下になだれこんだ日でもある。

 
久光院忠山義芳清居士 寿貞院笑誉妙顔清大姉
     
墓碑陰
会津藩士瀬野久吾戊辰之役
八月二十三日於テ大野ケ原
戦死ス遺骵ハ戦地ニ埋ム
慶應四年八月二十三日

お寺で近所に同じ名のお寺さんがあるのを教わり、後日、念のため高輪の正源寺を訪ねたが瀬野氏については判らなかった。
 
さらに1号線を高輪台方向に向かい、袖ケ崎神社の先を左に入った所に大崎寿昌寺があります。
 

正保二年(1645)、深川新田嶋に開創、伊達政宗夫人寿昌尼により大崎袖ヶ先に移転、ここは仙台伊達家下屋敷隣地にあたる。会津藩諸士系譜によると、このお寺は小室庄左衛門常則家の菩提寺。残念なことに寺墓域に小室家の墓域は残っていなかったが、かろうじてお寺の入口に積み重ねてある無縁仏の中に一基の会津之臣 小室氏の墓石があった。
 
  梅渓慧螢信女
  微方童女
お寺さんに確認すると戦災の火災ですべて燃えてしまって古い記録は何も残っていないとのことだった。
新編武蔵風土記稿に「寿昌寺、禅宗臨済派京都妙心寺末大崎山ト号ス大悲円満国師深川新田嶋ニ起立ス(旧地今詳ナラズ)、開基ハ松平陸奥守政宗ノ室陽徳院栄庵壽昌尼ナリ此人国師ニ帰依シテ堂宇以下ヲ造営シ法名ヲ貴テ寺号トス承応二年正月二十四日卒ス」とあった。

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三田界隈(蓮乗寺・南台寺)

2013-08-21 | 掃苔

三田綱町には幕末、会津松平家下屋敷があり、かってはその周りに会津藩士の菩提寺が多くあった。三田にある会津松平家菩提寺で松平肥後守位牌所の実相寺やその傍の薬王寺を除くと、江戸詰めの会津藩士の菩提寺でもその墓域は今、殆ど残っていない。
古代中世の通行路で,商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き,その宿所も在ったため聖坂と呼ばれる坂下、三田三丁目に光秀山蓮乗寺がある。
 

この日蓮宗のお寺さんは慶長十九年僧浄蓮、芝金杉浜へんに堂を建て、慶安元年赤羽根に寺を起しのち現在地に移転したと云われている。ここは堀之内妙法寺三十世・岡田日帰上人により昭和二年(1927)に創設された立正高等女学校(現堀之内学園)と関係が深く、ここの先々代のご住職が校長を務めている。ここは俳優勝新太郎(本名奥村利夫)の菩提寺でもあり、奥まったところにある墓域は何時行っても花やお供え物で華やかに飾られている。勝新太郎の墓域の近くに無縁仏としてひっそりと会津藩士、栗原治右衛門共高家四代目治右衛門共房乃墓があった。
      
奥村家墓域

他に春日与吉忠友家の菩提寺でもあったが見つからなかった。戊辰後、春日荻左衛門が斗南に行っている。芦澤三平直陳家の江戸での菩提寺は聖坂蓮乗寺となっていたが、明治にはいって青山霊園に移転したと思われる。

聖坂を登りきって、幽霊坂を下る途中、左側に入った所に高峰山南台寺がある。
   
 
慶長四年(1599)、八丁堀に開創寛永十二年、現在地に移転したという。ここに会津藩士高木縫殿右衛門盛重一族の墓域がある。
 
「要略会津藩諸士系譜」によると会津高木氏は五流あり、いずれも高木縫殿右衛門盛重を祖として分かれている。南台寺の高木氏は諸士系譜によると会津高木氏本家筋の高木弾右衛門重任流で菩提寺は武州箕田南台寺、祥雲山善龍寺とある。戊辰後、司法官となった高木盛之輔の姉が元新撰組隊士斎藤一の妻となった時尾で同じ高木一族ということになる。

延宝九辛酉年二月十日 一空證無居士 高木縫殿右衛門盛重 生于信濃死于武蔵江戸
 
高木家墓に操光院貞室善性大姉 慶應四年九月十四日とあった。若松落城の約一週間前である。この方が墓陰文にある戊辰兵戦に遭遇し城中にて死、若松七日町阿弥陀寺に埋葬された高木三平重言の奥さんなのだろうか。

顯徳院叟天居士  昭和五十三年十二月十三日  欽三行年九十八才
重言妻旧会津藩士三宅氏之
娘也戊辰兵戦遭遇城中死因
若松七日町阿弥陀寺葬
旧会津藩士高木三平源重言
奥州会津産維新後東京住行
歳七十七歳離世之長歌遺而
歿乃記以永子孫傳

南台寺には旗本松下家の墓域と碑が ある。
 

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箱根湯本から箱根板橋へ

2013-08-01 | 

箱根登山鉄道の箱根湯本駅前、早川の対岸を旧東海道が通っている。この街道沿いの早雲寺からスタートした。
 
       
北条五代墓や連歌師宗祇墓が残る早雲寺を戊辰史跡のため訪ねるのは初めて。ここに明治十三年六月、静岡県士族で茨城県令の人見寧によって建立された「遊撃隊戦死主墓」と「供養碑」がある。
  
人見寧は幕臣人見勝之丞(鉄砲奉行組同心)長男で慶應三年(1867)、遊撃隊に加わり、鳥羽・伏見の戦いの後、関東から東北地方を転戦、明治二年(1869)、新政府に降伏後、人見勝太郎を寧に改めている。静かな佇まいの早雲寺から旧東海道を小田原方面に下って早川に架かる三枚橋を渡り山崎ノ古戦場跡石碑を探しに行ったが所在が判らなかった。
 
この古戦場跡については関東地方整備局横浜国道事務所のサイトに「慶応四年(一八六八)五月二十六日に起こった、幕府遊撃隊と小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑。「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれている。この一戦で、遊撃隊長の伊庭八郎は小田原藩士高橋藤太郎との一騎打ちに及んで左手を失い、高橋は討ち死にした」説明と地図が掲載されていた。何故、地方整備局のサイトに説明があったかと云うと、いま小田原市風祭~足柄下郡箱根町湯本約2,2k間について小田原箱根道路4車線バイパス道を建設中で山崎ノ古戦場跡石碑については近所にお住いの方に聞いたら整備局の方で保管しているようだと話をしてくれた。
 
旧道を入生田駅に向かう。小田原稲葉氏一族と春日局の墓がある長興山紹太寺に行ってみた。
 
 
杉木立の間の石段を登る。この石段の参道は下からは見えなかったが石段と平らな石畳とを繰り返しで、かなり長い石段にグッタリする。長興山山上にある墓域までは三百六十段あるという。
 

入生田から箱根板橋に向かい、板橋の南谷山香林寺に寄る。開山は大樹乗慶禅師で中興開基は北条左京大夫氏綱室の養珠院。境内に江ノ島弁天を勧請した弁天社を祀っている。
 
ある旧会津藩士を探して墓域を探したが空振りだった。本堂裏の竹林が見事で、大雄山最乗寺第二代目韶陽以遠禅師が応永年間に修復した韶陽窟と名付けられた洞窟があった。鎌倉の崖に多くみられる「やぐら」と呼ばれる横穴式の墓とおなじなのだろうか。
 
香林寺から駅に向かう途中、上板橋の宗福院地蔵堂にも寄った。
    
この境内に寛政七年(1795)建立の一刀流元祖伊藤一刀斎影久の一刀流六代目横田常右衛門豊房と七代名坂四郎治政宣の供養碑がある。ウィキぺディアによると「鏡心一刀流とは、横田豊房が開いた剣術の流派。小田原藩で伝承された」とあった。横田常右衛門豊房は伊藤一刀流六代目で鏡心一刀流元祖ということになる。渡辺誠著「刀と真剣勝負」で幕臣心形刀流伊庭八郎と小田原藩士鏡心一刀流高橋藤太郎の一対一の真剣勝負に言及している。真剣での一騎打ちの戦いは、想像するのとはだいぶ異なるようだ。また境内に明治戊辰の役で犠牲者となった軍監中井範五郎ら十三名の慰霊碑もあった。
   

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