大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

伊勢原 上行寺

2020-03-04 | 掃苔

太田道灌の胴塚のある洞昌院から真南に5分位、歩いたところに上行寺がある。途中、太田神社と地図にあったので、太田道灌と何か関係が或のかと寄ってみたが、鳥居はあったものの普通の家みたいで入り難く、頭を下げて通り過ぎた。

後で知ったが神道大教の神社だった。
上行寺のHPによると「当山は、永禄十年(1567)旧本門宗本山西山本門寺第十三世妙円坊日春上人により、相模の国小田原花木の地に開創せられ富士山上行寺と号す。その後外護檀越の推移により慶長元年(1596)には江戸桜田に移転したが、元和元年(1615)には御用地となった為八丁堀銀座の地に、寛永十二年(1635)には港区芝伊皿子、寛文八年(1668)芝二本榎、昭和に至り三八年伊勢原に移転す。寺には、俳人宝井其角、初代将棋名人大橋宗桂、蘭学者桂川甫周、由井正雪の乱の宝蔵院流槍の名人丸橋忠弥の墓地がある」という。
左)安政四年、高輪辺絵図    右)明治十一年、実測東京全図

安政四年の二本榎の絵図を見ると、今の高輪警察署のはす向かいに載っていた。

慶安四年(1651)、幕府転覆を図った由井正雪に加担して、捕縛され鈴ケ森の刑場で斬首となった丸橋忠弥の墓があったのは意外だった。

寺の説明では、母方の姓である石橋を使い「石橋麟」として葬られたという。町奉行所の「捕物帳(出動記録)」に丸橋忠弥召捕り記録が残っている。召捕りに北奉行所、南奉行所から与力四名、同心二十四名、出動している。通常与力には中間一人、若党二人、草履取一人の計四名、同心には従者一名同行し、それに捕方の小者が加わる大捕物だった。江戸文化・風俗の研究家である三田村鳶魚の「捕物の話」に「丸橋忠弥召捕」「火付盗賊改」「八州取締出役」など面白い話が載っていた。丸橋忠弥の墓の隣に宝井其角の墓がある。


赤穂浪士大高源吾に両国橋で其角が「年の瀬や水のながれも人の身も」と詠みかけ、源吾が「あした待たるゝその宝船」と受けた忠臣蔵の話は残念ながら後世の創り話だが、其角自撰の発句集「五元集」に、其角が赤穂浪士の初七日に詠んだ句とされている「うぐひすにこの芥子酢は涙かな」がある。この句の前書きに「故赤穂城主浅野少府監長矩之舊臣大石内蔵之助等四十六人同志異体報亡君之讐今茲二月四日官裁下令一時伏刃齊屍 万世のさえづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく」とあり、討入した赤穂浪士、富森助右衛門、大高源吾、神崎与五郎が其角の門人だったという。


その隣が前野良沢と「解体新書」を共著した桂川甫周の墓域がある。正直、どの墓が甫周だか分からなかった。少しは離れた所に将棋の大橋家の墓域があった。

一世名人初代大橋宗桂と二世名人大橋宗古の墓所と墓碑は、京都の深草の深草山寶塔寺塔頭霊光寺と上京の叡昌山本法寺塔頭教行院に現存する。押上の妙榮山本法寺にあった大橋本家歴代の駒形墓碑四基も、大正十五年に高輪の上行寺に移され、昭和三十八年オリンピックの道路拡張のため、上行寺は高輪から神奈川伊勢原に移転した。大橋家の墓所には五基の駒形墓碑が並び、中央に萬治三年(1660)に亡くなった初代大橋宗桂の孫、三代宗桂(玉龍院宗桂日將居士)の墓があった。一旦、伊勢原駅に戻って太田道灌の首塚がある下糟屋に向かう。

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