大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

小河内衆杉田氏

2016-05-26 | その他

「湖水荘」は大津久バス停からバス停で一つ、青梅街道川野トンネルを出た中奥多摩湖バス停の傍なので、旧道を歩いて行くことにした。10mもない崖下はダムで堰き止められた多摩川の水が湛えられている。
 
小河内ダムの高さは149m、最大水深142.5m、ダム下の標高が408m、浄光院の標高が約539m、奥多摩駅標高が343mを考えると、西多摩郡奥多摩町川野という場所が多摩川の深い渓谷に挟まれた土地であることが分かる。
 
新編武蔵風土記稿に杉田氏の記載がある。「杉田某屋敷鋪蹟 村の西邊を云北條の臣杉田某の屋舗跡なり北条氏没落の後子孫民間に蟄居せしよりここに居れし今の農民次郎兵衛は舊家なれば猶舊家の條に辨せり」「百姓次郎兵衛 杉田氏にて村の里正なり 家系を閲するに杉田右近允重直武州多磨郡の内相馬保に住せりこの人杉田氏の始めなり按にこの邊杣保庄の唱あり杣保は相馬保をかきかへたりと云ことは已に前に辨したりさあらはこの人の時よりここに居りしなるへし、其子次郎兵衛尉入道淨泉北條氏直まで歴任していと長壽なりしことも家系に見えたりこは後にのする文書に入道殿とあるへなるへし其子次郎後に越後守と稱せしもの相馬保三ヶ所知行とあり又杉田清兵衛富久後但馬守なと云ものありこの外杉田氏を記せること連綿たり杉田越後守及杉田清兵衛にあたへし文書三通外に三田弾正えの文書一通を合せて家に蔵せるは後にのせり、」この文書により「舊くよりこゝに居りしことしるべし、北条氏没落ののち民間に下りしことは舊跡の條幷せ見るべし」とあり、天正十五年の北条氏照朱印状写では「大途御弓矢立ニ候間 小河内衆之證人 此度召上候 然者十二ニ成子所持申候由 被聞召届候 彼子を惣置ニ御扶持可被下間 速ニ證人被進上 心易谷中之走廻可致候 此度抽而走廻ニ付而を 随望知行可被下旨 被仰出者也 仍如件」(奥多摩町資料集より)とあり、杉田氏は日原の原嶋氏と共に小河内衆と呼ばれる武士団を形づくっていたことが分かる。
 
歩いて5分くらいで数軒のドライブインがある中奥多摩湖バス停に着いた。連休の後だったからか、お店はすべてお休みだった。近くに写真でみた建物は在ったが、名字が違う表札で、残念なこと杉田重直子孫の方が経営していた「湖水荘」は無くなっていた。
 
帰りのバスの時間まで30分あるのでバス停脇の閉まっているドライブインを覗いていたら、不審者に見られたのか、奥から人が出てきた。親切にも浄光寺や「湖水荘」の杉田さんの事を教えて貰った。もっと詳しくお話を聞かせて貰いたかったが、11時51分のバスを逃すと、次は13時58分と2時間も空いてしまうので、もう少し調べがついたら再訪しようと定時に来た乗客の誰もいないバスに乗った。
北條氏の家臣にはもう一つの杉田氏がいる。蘭学事始で有名な杉田玄白の杉田一族で、北條家滅亡後、武州久良岐郡杉田村に戻った玄白の遠祖杉田主水次郎長安が創建したお寺が川崎に残っていた。近いうちに訪ねたいと思っている。

奥多摩旧川野村杉田氏

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奥多摩旧川野村杉田氏

2016-05-19 | 會津

西多摩郡奥多摩町川野は昔、武州三田領小河内川野村とも武蔵多摩郡川野村と云われていた。戦国時代、ここの地侍で三田氏に仕えた杉田一族は三田氏滅亡後、北条氏に仕え、武州北條領と甲州武田領の境目の地として武田方の小菅勢と対峙していた。以前、神尾伊予(保科正之生母静ノ方父親)を探していて、たまたま新編武蔵風土記稿記載の杉田一族の舘跡の在った川野村に浄光院という寺があった。この寺の名は保科正之の生母、静の院号と同じであり、江戸幕府領になってこの地を検知したのが竹村与兵衛、時代は大分異なるが、神尾伊予の娘が嫁いだのが竹村助兵衛、この夫婦の次男を会津藩は杉田家を継がせ藩士として召抱えた。杉田氏、浄光院、竹村氏と正之誕生のとき、生母静に関係する名前が川野村に揃った。

5月の連休のあと奥多摩に向った。東京駅から青梅快速で1時間22分、青梅駅での乗換時間1分でどうなるかと思ったが、立川方面発着と奥多摩方面発着が島式1面2線ホームの隣り合わせで便利だった。青梅線は大体1時間に1本4両編成で今の時季、ハイカーでかなり混んでいた。中年の女性ハイカーが多いのに驚く。それでも沿線の駅でぽつぽつ降りて、終点の奥多摩駅まで乗っていたのは20人程度だった。以前、氷川駅と呼ばれていたころ、日原鍾乳洞や御嶽にはよく来たが、昭和46年(1971)奥多摩駅に改称されてからは初めてきた。単線だったのも忘れていた。
 
バスは10人ほどの観光客を乗せて発車したが殆ど途中の奥多摩湖で降りてしまい、
 
 
杉田氏の菩提寺がある大津久まで乗っていたのは1人だけになってしまった。
 
奥多摩湖は昭和32年、多摩川を小河内ダムによって堰き止めて造られた人造湖でバスはこの湖の北岸を曲がりくねって走る。
 
大津久バス停から浄光院まで歩いて2・3分で着いた。新編武蔵風土記稿の浄光院記載では「金剛山と号す禅宗臨済派鎌倉建長寺の末寺弘安五年(1282)の草創なりといえども開山開基の人を傳へず」とあるが、青梅の史家齋藤真指によって明治十一年頃から編纂された西多摩郡村誌に「開基創建は文安二乙丑年(1445)杉田右近允平重直にて、開山僧は、壁芸良鐡禅師なり、寛正元庚辰年(1460)八月十二日死す、法名を、西勝院浄空道光居士と号す」とあり「庭上に、一株囲み九尺有余の垂り枝の梅あり、花盛りには、銀光燐然しして、馨香馥郁たり、以て、近隣の美観となせり」とある。小河内ダム建設により浄光院も高台に移転したようで、枝垂れ梅も奥多摩湖の底に消えてしまったようである。
 
 
墓域もお寺の裏側の急斜面に段々に造られていた。比較的新しい幾つかの杉田家の墓域があったが、家紋はすべて「三本杉紋」で会津藩士杉田家の「丸に左根笹紋」では無かった。
 
ご住職にお話を聞きたいと思ったが、今は無住のお寺さんみたいで、兼任のお寺を聞こうと両隣のお宅を訪ねたがいずれも不在で、仕方なく、いま在るかどうか分からなかったが昭和50年代に出版された「奥多摩町異聞」に載っていた杉田重直の子孫の杉田さん経営の「湖水荘」を訪ねることにした。

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小田原酒匂界隈(酒匂神社)

2016-05-10 | 小田原

新編相模国風土記稿に浜邊御所についての記述がある。酒匂村の小名に「はんべ」という地名があり「東海道の通衛にて、西の方長一町余(109m余)の所を云、按ずるに「東鑑」に酒匂浜邊御所など見えしは、則此地なるべし」、事は旧蹟の條に詳なりとある。御所蹟は「八幡の社前なり、濶三千坪、白田を開けり、北域に土手の形尚残れり、高六尺、今は瓦屋舗と云、中古此所にて瓦を焼しと云、土人云、源廷尉義経の邸蹟なり」さらに「此地の南東海道の大路をはんべと呼び、はんべより北に折れて爰に至る横街を、もと御所小路と唱へし」という。文中に「文治元年五月十五日、義経内大臣宗盛父子を相具し、酒匂駅に著せしに、義経は鎌倉に入ことを停められ、暫らく此地にありて、六月九日帰洛せし」とある。酒匂浜邊御所の南の東海道大路を「はんべ」と呼び、ここから北に入る横道を御所小路と呼び、八幡神社前で今は瓦屋舗と呼んでいるという。

小田原市史に「いま、八幡神社は酒匂神社(もと駒形神社)に合祀されて存在しないが、もともとは酒匂神社のすぐ西側の、字瓦屋敷(舗) (瓦屋敷は河原屋敷とも記した)付近に鎮座していた」要するに、「宿の西寄り、東海道の北側の、酒匂川の渡渉地点にほど近い自然堤防上の微高地に浜辺御所があったと推定される」としている。さっそく、酒匂神社の近くの浜邊御所を探しにいった。境内にあった酒匂神社の由来によると「原神は、大和朝末期(650頃)大和朝から派遣された統治者が守護神として「八幡社」を祀ったのが最初であり、この頃、 高麗民族が渡米して、先進文化、特に棚織(はたおり)を広め「棚織社(七夕社)」等も祀られていた」また「安久五年(1149)に、箱根権現の富士上人参朝が、 寄進された地[免耕地(現在地)]に、箱根権現を勧請し「駒形社」を祀った」「明治初年に始まるさまざまな神仏分離令により、近くの八幡社を、明治十年四月に駒形社の場所に移して酒匂神社とした」とあった。
 
  
  
同じ境内に教育委員会で行った酒匂神社周辺の酒匂遺跡群発掘の説明板に「約90m西にある、現在の小田原市保健センター周辺にはかって鎌倉幕府の「浜辺御所」という将軍の宿泊・休憩施設があり」とあり、あっさりと酒匂浜邊御所の大まかな場所が判った。教育委員会の酒匂遺跡群の発掘説明と調査地点の図が掲示してあった。
  
調査地点のNO5では弥生後期の周溝、溝状遺構、NO4では近世鍛冶集落の存在を示す1800kもの鉄を製錬する際に出る不純物「鉄滓・てっさい」が見つかっている。
平清盛三男宗盛・宗父子を連行して鎌倉へ向け七日に京都を出た義経は、文治元年(1185)五月十五日夜、酒匂宿に着いたが、頼朝に鎌倉に入る事を許されず、暫く其邊で留まつよう指示された。此間、義経は酒匂邊で待機していたが、頼朝に拝謁することが叶わず、文治元年(1185)六月九日、前内府平宗盛を連行して京都へ向かった。その時の義経の心情を吾妻鑑は「其恨已深於古恨」と表現している。五月廿四日に腰越駅でいたずらに日を過ごしていた義経は前因幡守廣元に託して嘆願書一通、奉じた。これが世に腰越状と称するもので、風土記稿は「弁慶が書記せしと傳ふれどおぼつかなし」としている。しかもこの腰越は鎌倉の内、「不被入鎌倉中」と云われた義経はどうして腰越で「徒渉日之間」と過ごすことが出来たのだろうか。
鎌倉腰越 満福寺
 

参考 吾妻鑑(国会刊行会篇 1943)
文治元年(1185)五月十五日丁酉、
廷尉使者景光參着、相具前内府父子令參向、去七日出京、今夜欲着酒匂驛、明日可入鎌倉之由申之、北條殿爲御使、令向酒匂宿給、是爲迎取前内府也、被相具武衛者之所宗親、工藤小次郎行光等云々、於廷尉者、無左右不可參鎌倉、暫逗留其邊、可随召之由被仰遣云々。小山七郎朝光爲使節云々、
文治元年(1185)五月廿四日戊午、
源廷尉義經、如思平朝敵訖、剩相具前内府參上、其賞兼不疑之處、日來依有不義之聞、忽蒙御気色、不被入鎌倉中、於腰越驛徒渉日之間、愁欝之餘、付因幡前司廣元奉一通歎状、廣元雖披覧之、敢無分明仰、追可有左右之由云々、
文治元年(1185)六月九日庚申、
廷尉此間逗留酒匂邊、今日相具前内府歸洛、二品差橘馬允、淺羽庄司、宇佐美平次已下壯士等、被相副囚人矣、廷尉日來所存者、令參關参向東者、征平氏間事具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由思儲之處、忽以相違、剩不遂拝謁而空歸洛、其恨已深於古恨云々

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小田原酒匂界隈(大見寺・法善寺・法船寺)

2016-05-02 | 小田原

東海道分間延絵図(酒匂村)

新編相模風土記によると大見寺は「光明山無量院と号す、天文三年(1534)僧退堂、小菴の古跡に就て起立す、境内に小島氏の墳三あり、各五輪なり」という。
 
三つの墓石は、市内にある個人の墓のうち、年代を明記した最も古いもので、徳治三年(1308)銘の宝篋印塔は左衛門入道、天文二十一年(1552)銘の宝篋印塔は小島行西、天正二年(1574)銘の五輪塔は小島治部少輔だという。小嶋家十六代当主による由来碑によると、小嶋家は藤原氏を源流とした二階堂道蘊貞藤を開祖として、南北朝後の政変により二階堂姓を小島姓に改め、北條時代には代官として、小田原藩では郡代として務めたとある。
 
風土記稿によれば旧家徳右衛門、小嶋を氏として先祖小嶋左衛門入道、徳治三年(1308)の卒としている。小菴の古跡に大見寺が建立されたのは左衛門入道が亡くなってから二百年以上も後の天文三年(1534)、元禄十六年(1703)の大地震、宝永四年(1707)の富士山大噴火や酒匂川の氾濫にも敗けず、左衛門入道の宝篋印塔はよく残ったものだと思う。
一旦、東海道にでてから法善寺に向かう途中に武家屋敷と間違うほどの立派な門構えの建物があった。酒匂宿名主川辺家の屋敷長屋門といわれており、現在は児童養護施設ゆりかご園として使われている。
 
大見寺境内の本堂前には川辺氏代々の墓が並び、おくに円柱の上に仏様が腰掛けたような石柱が川辺家当主川辺清兵衛家次墓で当時の繁栄ぶりが残されていた。
 
江戸時代に整備された東海道五十三次の宿場は大磯宿の次が小田原宿で、東鑑にでてくる酒匂駅・酒匂宿はいつのまにか消えていた。東海道分間延絵図にも川辺本陣の記載はない。酒匂川の渇水期には土橋が架けられ、渡し賃は高くなるが水かさ四尺五寸(1.36m)まで渡れたようだが、増水期の旅人は少なかったのだろうか。
 
寺縁起に永享十一年(1439)、法善入道と云われる中野禅門がここに真言の庵を結び、十九年後、伯父にあたる本法院日敬聖人の教えにより号を神力山として日蓮宗に改宗した法善寺に寄ってから同じ日蓮宗の法船寺に向かう。
 
法船寺の寺傳に文永十一年(1274)五月十二日、日蓮鎌倉より身延山に赴く時、當所をめぐり歩くに、修験者飯山法船の帰依の餘り、日蓮を家に寓宿させた。のち宅地を捨て寺とし、越中阿闍梨朗慶を延て、開山第一祖とし、開基は法船夫婦。飯山入道夫妻の法號は「済度法船居士」「蓮慶妙船大姉」、山号を済渡山という。ここに小田原市内の全てのお寺を廻った訳ではないが、市内で唯一の五重塔があるという。法船寺の山門を潜っても五重塔が見えなかった。本堂の前に来て、やっと左手に相輪が見えた。
 
高さが想像したのと大分違っていた。しかし、小さいながらも総檜本瓦葺きの本格建築で、相輪まで含めると高さ8.55mあるという。神奈川県では藤沢の龍口寺を除き総木造りの五重塔は残っていない。身近で見られる貴重な五重塔となっている。

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