大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

会津暦

2011-10-24 | 會津

会津暦を何冊か分けてもらったが会津暦にいくつもの暦本があるとは思わなかった。それに縦約15、3cm横11、3cmと思ったより小さかった。

  

諏訪神社神職については「小野信濃権守高経が当社勧請の時、神輿に従い来る。高経の父は信州諏訪の神職だったが正嘉二年鎌倉右大将家より死を賜い、高経は相州小野村に蟄居、小野氏と称しその後諏訪氏に戻した。天文十七年信州大祝部神朝臣の姓を賜り、神朝臣と称し、佐久笠原の二家は祝部と称し姓は神直と云う。この諏訪、佐久、笠原三家共に暦学を善くし、京師大鑑寺伊豆国三島の神職と同じく暦本を梓行す」と新編会津風土記にあった。会津の諏訪神社の神職である諏訪、笠原、佐久の三氏によって暦が作られ、会津の菊池庄左衛門が版木に彫って刷り発行していたことになる。

陸奥国会津大鎮守鶴城郭内鎮座正一位諏方官大祝 諏方宮内神国彦

 

陸奥国会津諏方宮 笠原祝縫殿神勝道

 

属諏方板行 奥州会津菊池庄左衛門

左、嘉永五子年正月吉日 種村勇助  右、嘉永七年寅九月吉日 会津家中□□

元文二年の記録では惣暦数量は他所払七万五千五百巻、御当地払三万二千五百巻、扱高は諏訪宮内少輔、佐久雅楽助、笠原紀伊守が各二万六千五百巻、菊池庄左衛門が二万七千五百巻を頒布している。会津暦は年代により外寸、内寸とも異なり、特に元文六年以降、内寸は同じでも外寸は三種類に分かれ、寸法の大きいほうが上質の紙を用いているといわれている。会津図書館に「会津暦由来記」という写本があり、文政五年、渋川家暦役所からの問合せに会津暦沿革の記載がある。この中に貞享二年、中国の明の官暦「大統暦」から保科正之や徳川光圀の後押しで、安井算哲(渋川春海)が改良した暦「大和暦」の改暦に成功、「貞享暦」と命名されて貞享二年(1685)から用いられた以後、七十年にわたり使用された。会津暦も貞享暦以後は幕府暦役所の指図を受けて板行している。昨年、親戚から会津の事が書いてあると「天地明察」という本をもらった。この小説は、碁打ちで数学者でもある渋川春海が改良した暦、「大和暦」が採用されるまでの二十年にわたる奮闘、挫折、喜びを描いている。この本に出てくる安井算哲は二代目、二十一歳の年から囲碁で毎年台覧に備え、貞享元年台命により、碁を免じ天文者となり保井算哲と変え晩年渋川助左衛門(号は春海)と改めた。小説でも出てくるが寛文十年、御城で本因坊道策と打った碁は算哲が初手を天元(碁盤の中心)に打ったことで有名で棋譜が残っている。

棋院四家の林家林元美が残した欄柯堂棋話(東洋文庫)に「算哲こと、会津土津大明神の社内に土守神社と崇めこれある由、会津藩堀内仁助、語られ候」安井家八世知徳の話として載っていた。今、会津土津大明神を祭る土津神社内に土守神社は残されていない。

 

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金谷山狼谷会津墓地

2011-10-14 | 掃苔

JR高田駅からタクシーに乗る。女性の乗務員だったが、金谷山の会津墓地を知っているか確認して行ってもらった。躊躇なく連れて行かれたところが旧高田藩和親会の金谷山墓地。ここには高田藩士慶応丙寅戦死之碑(二次長州戦役)があり、坂の途中には戊辰戦役の長州藩士や西軍に組した時の高田藩士等の官軍墓地、また招魂社付近には西南之役の旧高田藩士殉難者の埋葬地もある。会津墓地は県道63号に面した大貫の関根学園から金谷山側に(約400m)入ったところにある。

 

高田で謹慎した荒川勝茂『明治日誌』二年七月十五日に、「不気候ニテ脚気病或ハ腫病流行致シ、御人数ノ内七拾人余病死ス、病死ノ者高田候ノ御取扱ヒハ士分は寝棺、以下ハ座棺、大亀谷(狼谷)ト云所ニ葬ル」とある。この会津墓地入口に説明板があった。

  

会津墓地「明治元年九月会津落城にともない翌二年正月降伏人千七百余人は高田藩にお預けの身となりましたが、厳冬の越後路を傷病のからだに鞭うっての長途の旅と酷しい幽囚生活に苦しみ疲れ病死者続出しわずか一年余にして六十八名の人々がこの地に葬られるに至りました幕末、動乱の世にあたり主家に殉じて勇戦空しく異郷に斃れましたことはまことに痛恨の極みでありますがその名節に生きた高い志は永く人の心に銘記されることでありましょうなおここには他にその後高田に在住された福島県人(旧会津藩関係)の墓が三十余基あります」(注)明治元年(慶応四年)戊辰戦役 昭和五十七年五月 会津墓地管理者 上越市大町二丁目 田村堅幹

 

1江川治郎八、2荒木重義、3松川小傳治、4下司昌泰、5金成源四郎、6小田川平八、7小松悦之助、8下司三郎、9市野左源、10三留又右衛門、11樋口留治郎、12兼子直記、13森山五郎、14大久保利信、15和田平吉、16長尾久兵衛、17五十嵐数馬、18林八彌、19吉村篤右衛門、20町田倹助、21秋月新太郎、22深田長兵衛、23大束親高、24鵜飼五郎、25塚原義則、26福田亥之助、27佐藤源之助、28田中幾之助、29遠藤留弥、30中井兼吉、31長谷川豊記、32大戸義直、33井口隼人、34太田鉄之助、35橋本義久、36   竹山圓盛、37横山吉之助、38甲嶋傳輔(田島)、39富本八太郎(斎本)、40片岡長義、41鈴木久馬、42横山次郎、43小滝善吉、44宮下栄之進、45鈴木信吾、46目黒栄之助、47山口昌玄、48臼井喜代三郎(臼田)、49阿妻重多、50藤田信忠、51野田栄蔵、52小室義光、53河原田包彦、54鈴木伝次郎、55小林橘蔵、56安藤常次郎、57平野代助、58鈴木長助、59菊地清之助、60遠藤良助、61小林幸之進、62藤森留四郎、63吉川長太郎、64竹尾勝太、65増子清之助、66船尾宗蔵(丹尾)、67大竹倉治、68篠嵜久八

(昭和二十九年田村堅幹氏作成会津墓地戊辰役関係墳墓一覧参考)

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旧会津藩士野口家菩提寺

2011-10-07 | 掃苔

宮崎十三八氏の幕末維新人名事典に会津藩士野口九郎大夫墓は品川大崎の妙光寺と記載があり5年前、お寺を訪ねた。23年10月、3年ぶりに妙光寺を訪ねた。その前が2年ぶりだったので、5年間で3回、訪ねたことになる。野口家の墓域は正面階段右側の墓域ではなく、階段を上った庫裏の奥側墓域です。

 

妙光寺墓域(裏門から)

  

初めての訪問時に「野口先祖累代之霊 明治四十四年十二月建之 勲五等 野口鉄彦」と書かれた碑を見つけたが鉄彦氏と野口九郎太夫成元との関係が判らなかったため、その時は旧会津藩士野口家の墓標と特定できなかった。今年、明治初期に旧会津藩士の子弟が多く在籍した海軍兵学校や三菱商船学校関係の資料を見ていて明治23年13期三菱商船学校卒に青森出身野口鉄彦氏の名前があり、会津図書館に野口鉄彦氏の弟邨彦氏が作成した野村家の系図が残っていた。この系図によると、この鉄彦氏は初代九郎右衛門成重から数えて九代目(八代九郎太夫成元)にあたる。

 

初代野口九郎右衛門成重墓    野口氏家紋丸雁

    

大正三年十一月(1914)、海軍省は第1次世界大戦序盤にドイツ領南洋諸島攻略に派遣した南遣枝隊より西海岸のメキシコ革命の影響を受けるカリフォルニア移民の保護のため遣米枝隊を編成し派遣した。この時の運送船鳥取丸の船長が勲五等野口鉄彦だった。

 

野口家菩提寺の妙光寺。5年掛ってやっと旧会津藩士野口家のお墓と特定できたことになる。その間、神戸の追谷墓園に野口九郎太夫の弟でアーネスト・サトウに仕えた野口富蔵成光のお墓も訪ねた。

  

 旧会津藩士野口家の会津での菩提寺隆国山法華寺。

 

 

野口富蔵のこと

野口九郎太夫のこと

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上越高田 料亭「宇喜世」

2011-10-01 | その他

戊辰戦争で敗れた会津藩士の謹慎所と金谷山狼谷にある会津藩士墓地を高田に訪ねた。この上越高田の駅から5~6分の所に幕末から続いている宇喜世という割烹料亭がある。最初は仕出し屋から始まり、昭和になり宇喜世という屋号にかえたという。明治の中期、ほんの一時期、「日進館」という洋食屋に変えた話が伝わる。字こそ違え「にっしんかん」という言葉には反応する。宇喜世は木造2階一部3階建の桟瓦葺、東西37m南北14mで、北面西端に突出部を設けるL字型の平面で、北面中央西寄りには唐破風造屋根の玄関を付け、2階の153畳に及ぶ大広間や、部屋ごとに意匠を違える3階客間などをもつ近代料亭建築の一例として平成20年、造形の規範となっているものとして登録有形文化財に登録された。同時に東門、北門も国土の歴史的景観に寄与しているものとして登録有形文化財として登録されている。

  

 

客がお部屋を使っていなければ他の部屋も見学させて貰えそうなのでお昼にお邪魔した。お部屋での食事は室料が掛るという事で、おそるおそる予約をいれた。時季外れだったのかこの時のお部屋代は一人当たりタバコ代にも満たない金額だった。食事代より部屋代が高かったら如何しようと思っていただけにホッとする。使用の時間帯や季節によって、お部屋代も変わるのだろうが、料亭でお部屋代が掛ると書いてあると躊躇するものがあるが、ここは是非、図々しく電話で室料を確認して部屋での食事をお薦めしたい。

写真はお昼の松花膳

  

   

大広間と水車の軸を利用した階段手すり

 

 

 通されたのは「月の間」、お店からこの部屋のポストカードを貰った。

  

掛け軸の月 壁にくりぬかれた月 庭の木立の向こうの月、座卓には江戸切子のグラス。

温かみがあって余韻の残るイラストはひぐちキミヨさんの作品。写真より何倍も雰囲気が出ているので載せさせてもらった。この方の原画を見てみたい!東京で個展でもやれば飛んでいくのに。

 

料亭 宇喜世

上越市仲町3-5-4

025-524-2217

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