会津暦
会津暦を何冊か分けてもらったが会津暦にいくつもの暦本があるとは思わなかった。それに縦約15、3cm横11、3cmと思ったより小さかった。
諏訪神社神職については「小野信濃権守高経が当社勧請の時、神輿に従い来る。高経の父は信州諏訪の神職だったが正嘉二年鎌倉右大将家より死を賜い、高経は相州小野村に蟄居、小野氏と称しその後諏訪氏に戻した。天文十七年信州大祝部神朝臣の姓を賜り、神朝臣と称し、佐久笠原の二家は祝部と称し姓は神直と云う。この諏訪、佐久、笠原三家共に暦学を善くし、京師大鑑寺伊豆国三島の神職と同じく暦本を梓行す」と新編会津風土記にあった。会津の諏訪神社の神職である諏訪、笠原、佐久の三氏によって暦が作られ、会津の菊池庄左衛門が版木に彫って刷り発行していたことになる。
陸奥国会津大鎮守鶴城郭内鎮座正一位諏方官大祝 諏方宮内神国彦
陸奥国会津諏方宮 笠原祝縫殿神勝道
属諏方板行 奥州会津菊池庄左衛門
左、嘉永五子年正月吉日 種村勇助 右、嘉永七年寅九月吉日 会津家中□□
元文二年の記録では惣暦数量は他所払七万五千五百巻、御当地払三万二千五百巻、扱高は諏訪宮内少輔、佐久雅楽助、笠原紀伊守が各二万六千五百巻、菊池庄左衛門が二万七千五百巻を頒布している。会津暦は年代により外寸、内寸とも異なり、特に元文六年以降、内寸は同じでも外寸は三種類に分かれ、寸法の大きいほうが上質の紙を用いているといわれている。会津図書館に「会津暦由来記」という写本があり、文政五年、渋川家暦役所からの問合せに会津暦沿革の記載がある。この中に貞享二年、中国の明の官暦「大統暦」から保科正之や徳川光圀の後押しで、安井算哲(渋川春海)が改良した暦「大和暦」の改暦に成功、「貞享暦」と命名されて貞享二年(1685)から用いられた以後、七十年にわたり使用された。会津暦も貞享暦以後は幕府暦役所の指図を受けて板行している。昨年、親戚から会津の事が書いてあると「天地明察」という本をもらった。この小説は、碁打ちで数学者でもある渋川春海が改良した暦、「大和暦」が採用されるまでの二十年にわたる奮闘、挫折、喜びを描いている。この本に出てくる安井算哲は二代目、二十一歳の年から囲碁で毎年台覧に備え、貞享元年台命により、碁を免じ天文者となり保井算哲と変え晩年渋川助左衛門(号は春海)と改めた。小説でも出てくるが寛文十年、御城で本因坊道策と打った碁は算哲が初手を天元(碁盤の中心)に打ったことで有名で棋譜が残っている。
棋院四家の林家林元美が残した欄柯堂棋話(東洋文庫)に「算哲こと、会津土津大明神の社内に土守神社と崇めこれある由、会津藩堀内仁助、語られ候」安井家八世知徳の話として載っていた。今、会津土津大明神を祭る土津神社内に土守神社は残されていない。