大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

会津 家訓第一条

2008-12-30 | 會津
会津藩 家訓十五條の第一条は、

一、大君之儀一心大切可存忠勤不可以列國之例自處焉
若懐二心則非我子孫面々決而不可従

「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て
自ら処すべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、
面々決して従うべからず」

Wikipediaの説明によれば、
「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が
裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と
記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。
幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の
中心的存在として最後まで官軍と戦った」とある。

前から疑問があった。第一条にある「大君」は何と読むのだろう?
「おおきみ」なら天皇、「たいくん」と読めば将軍の事になる。
読み方や解釈で忠勤を尽す相手が違うことになる。

会津藩が家訓十五條を制定したのは寛文八年(1668)四月、
松平家譜によれば、この年の二月に松平の名と葵章の使用を
許されたが、正之はこれを辞退したとある。
藩主の行動を正当化するため、後世に色々な細工が必要
だったのだろうか?

最近、福商の教師だった郷土研究家、坂内 萬氏が昔、
会津史談に書かれた「大君の辨」という史料を読んだ。

正之公が学ばれた吉田神道の奥義に「以護君之心」とあり、
この君とは覇者たる将軍の謂ではなく、山崎闇斎に学んだことを
一言でいえば「大義名分」であり、垂加神道を起した理由も
ここにあるとしている。

十五ヵ條制定の五年前の承応二年、将軍家の代参として、上洛参内
された際に用いた傘に模して創制したのが会津藩馬印の参内傘で、
これを永く子孫に伝えて、勤王の意思を表したと云われている。

天保八年(1837)に藩士遠山為章が大君之儀を
「我公将軍幕下懿親也」と注をいれて家禄を没収されている。
(懿親=近親)この時の藩主は高須藩主松平義和四男の容敬公。
この時、大君の解釈は天皇だったことになる。

戊辰戦争論やその後の明治維新(明治一新)論を読むと家訓で
いう大君は「おおきみ」ではないかと思う様になってきた。
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戊辰大阪引揚の一件(Ⅲ)

2008-12-27 | 會津
戊辰正月十七日、鳥羽伏見戦争手負いの藩士が収容されている会津芝藩邸に
容保は見舞に行き、二十日続いて徳川慶喜が会津藩の負傷者を見舞うが、
この時、藩士の高津仲三郎が慶喜を面罵したのは有名な話。

大坂城からの突然の立退きについては、家中で議論沸騰し、強行派の中には、
容保御隠居が当然の議論も生じ、二十一日帰着した萱野、内藤の両家老に
謝罪のうえ喜徳に家督を譲ることを話し、二月に容保は隠退している。

大坂で恭順説を唱えた神保修理は上屋敷に幽閉され、主君に面接を許されずに
鳥羽伏見の敗戦の責任と藩主の東帰の責任を一手に引受け、二月十三日、
三田藩邸にて剣に伏している。
自刃したのだろうか、それとも人の刃に伏したのであろうか?

この神保修理と共に東帰した浅羽忠之助もまた疑われ、閉門になっている。
神保修理との係りがない事を苦心しながら説明している。

忠之助は御宸翰の無断持出と慶喜・容保一行に追付けなければ天保山から
大坂城に戻るのが当然と非難され、この御品を持参し万一失えば如何に
申し開きするのかと詰問されている。

二月十三日に会津行きを命じられ、二月二十二日に小普請閉門を仰せ
付けられ、四月二十七日に閉門免除されたが藩中の噂に苦しめられている。

戊辰の役には軍事奉行添役として戦い、戦後は日光東照宮の宮司となった
容保に従っている。浅羽忠之助の戒名・葬所等未だに詳らかではない。

東京青山霊園立山地区の騎西家墓域の中の青森県士族・福島県士族とある
墓碑の前に、誠心院仁岳良忠居士と刻まれた墓石がポツンと1つある。

その側面には、
浅羽忠之助三男五三郎廿七歳 
明治廿一年六月十一日没
と刻まれていた。
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戊辰大阪引揚の一件(Ⅱ)

2008-12-26 | 會津
戊辰のとき、会津藩士浅羽忠之助は会津松平容保公の小姓を勤め、
大坂城にいた。この浅羽忠之助筆記の写本が会津に残っている。

それによれば、鳥羽伏見の戦いが始まった正月四日未明に御使として、
最前線を偵察し、午後10時ごろ大坂城に戻り容保に状況を説明している。

陸軍奉行戸田勝強の報告で味方大勝利と思っていた城中では、大苦戦に
驚く。忠之助は「皆々一時偸安(一時の目先の安楽をむさぼる)を以て
虚言を上申せしは亡国の機運とも申すべき哉」と書き残している。

七日午前2時頃、神保修理に呼ばれ、「宰相様御供にて内府公御東下につき
お供の御沙汰があり」と伝えられ、これは全部軍議の上で決定したと思った
忠之助は、それではと、かねがね変時に奥番が運ぶことになっている
孝明天皇より送られた御宸翰と出火不時変の節に使う御草履を取りに
戻ろうとすると、修理にこれは内密の事で他言無用と口止めされている。

やがて、会津宰相容保の立退きが修理だけに知らされているのが
わかり、容保を引きとめようと城内を右往左往する。

その内、慶喜一行の立退きの様子が追々聞こえてきて、すでに
容保が城内に居ない事を知って神保修理・浅羽忠之助は慌てる。
神保修理は将軍御東下の話を何時の時点で知ったのだろうか?

直ちに容保の後を追い大阪天保山を目指した二人は、途中で桑名藩の
三宅弥三右衛門・中島嘉取らと同行し、木津川から舟で漕ぎ出そうと
している吉田藩主大河内松平信と大坂城代常陸笠間藩主牧野貞直に会う。
両人とも手拭をかぶり羽織を裏返して、隠密行動の様子であったと云う。

悪天候により、慶喜の乗った蒸気船にたどり着けず、陸路で泉州堺路を
慶喜が立ち寄るであろう紀州由良に向うが、途中で松坂経由で桑名に向い
苦労しながらも十五日午後には江戸和田藩邸に着く。無事、御宸翰を
容保のもとに届けるが、これがかえって罪を問われることになった。
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戊辰大阪引揚の一件(Ⅰ)

2008-12-25 | 會津
太政官(三職)が設けられたのは慶應四年正月、三日に
戊辰鳥羽伏見の戦いが始まり、恐れをなした将軍慶喜が
軍を捨て大坂城を逃げだしたのが六日の夜。

昭和の初めに出版された維新の逸話を新聞から集めた
太政官時代という本がある。この中の東京日日の記事に、
正月十一日、開陽丸は浦賀に到着、浜御殿で出迎えたのが
勝安房守、翌日慶喜一行は浜御殿から馬で江戸城に向った。
(浜御殿は、今の東京築地、浜離宮恩賜庭園)

午前十時頃、六騎の馬を連ねて、先頭が山岡鉄太郎、
ついで第二騎が京都守護職会津松平肥後守、少し遅れて、
第三騎は錦の筒袖に立付の袴、裏金の陣笠に金梨地鞘の金紋
拵えの太刀の将軍慶喜、第四騎は前所司代桑名藩主松平越中守、
第五騎が老中板倉伊賀守、第六騎は同じ老中小笠原壱岐守で、
都落ちの淋しい江戸入りの人々であったとある。

徳川家が代々戦場で己の位置や武威などを誇示する為に
精神的支柱として用いられてきた軍旗が家康以来の金扇の大馬印。

慌てふためき、敵前逃亡した慶喜は大坂城にこの金扇を置いてきた。
部隊や家臣を置き去りにして、大切なものを残して大坂城を
あとにしたのは将軍慶喜だけでは無かった。
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京都 和ごころ 泉

2008-12-20 | 
12月9日、初めてお邪魔した。
ここは座敷2室とテーブル席1室だけのお店、それだけに
ご主人と奥さんの気の使いようは大変なものだった。
お二人の人柄がそのまま素直に感じられるお店で、
初めてでも、とても居心地の善い好感の持てるお店だった。



 

先、 百合根・雲子 玉子締
椀、 聖護院蕪・蛤 潮椀 

 

造、 伊勢海老・炙秋刀魚・文甲烏賊・平目

 

  


八寸、玉子カステラ・イクラ醤油漬・とんぶり
   鴨ロース・鯖寿司・ほうれん草干大根の胡麻掛浸



  

  

焼、 蟹
   鰆 大根おろしスグキ入り

 

炊、 鰤、海老芋・大根

 

飯、 鮭・茗荷の御飯 漬物 麩黒味噌汁



 

水、 チーズヨーグルト ルレクチェ 柿
   椿もち  お薄

  

和ごころ 泉
下京区四条新町366番アメニティマスオカ1F
075-351-3917

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京都冬 釜座 岩さき

2008-12-19 | 
12月8日 夜

岩さきは京都で一番お邪魔しているお店、
ようやく、手で訪ねた回数を数えることが出来るようになった。
これでやっと、京料理の味の基準ができた感じ。







先、 蟹・バイ貝・大徳寺麩・蕪・若布 土佐酢ゼリー掛
椀、 雲子 豆腐 

 

造、 グジ ヒラメ焼 
   焼かに 蟹ミソかけ
凌、 車海老・菊菜・ヒメジ茸 胡桃合    

  




炊、 焼目穴子 蕪 水菜 厚油揚
肴、 三筋肉山葵醤油掛

 



飯、 白御飯 漬物 合味噌
   スッポン出汁で味付けしたじゃこ
水、 大白柿 葡萄

  

釜座 岩さき
京都市中京区釜座通御池上ル723
TEL 075-212-7800
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伏見栄春寺 長沼宗敬澹斎

2008-12-14 | 掃苔
京都伏見の栄春寺に天明八年(1788)から会津藩の軍制に
取入れた長沼流軍学の祖、長沼外記宗敬墓とその横に会津藩が
文化七年(1810)に建てた長沼處士碑が残っている。



栄春寺は、伏見で最初の曹洞宗寺院として永禄十一年(1568)開創、
山門は伏見城の遺構を移したと云われている。ここには2つの門があり
それぞれ特徴のある魔除が屋根の上にあります。
国道から見える桃の魔除のある山門が伏見城の台所にあったと言い
伝えのある遺構です。

  

  


碑誌に處士、諱は宗敬、初名は廣敬、号は澹斎、長沼宗政の胤也、
出自は小山結城氏とある。さらに中世、長沼城主となり、
祖、山城守廣輝は永禄元亀の頃の戦いで敗れ一族離散したとあり、
新編会津風土記田島村に鎌倉右大将家の時、長沼悪五郎家政と云者
下野国結城長沼より此に来り始て住すとある。

  

会津四家合全に奥州長沼氏は長沼宗政を祖としており、
家政は小山政光次男宗政の間違いとすると色々な系図が繫がってくる。
碑誌にある山城守廣輝は尊卑分脈に宗政四代目の秀行から数えて
十一代目に山城守廣照がおり、同一人物ではないだろうか?
いずれにしても田島の長沼氏も信濃の長沼氏も遠祖は同じ五郎宗政で同族、
長沼外記宗敬の父、広政は結城秀康の三男松平直政に仕えている。

  


長沼處士碑誌
             従五位下大学頭林衡撰
会津侯伻来謁余曰吾祖中将以寛永中 命徙封魁
津会津東北之鎮世雖人安備不可弛恒練戎馬閲器
械子孫循守無敢墜焉及不肖之身軍政多採長沼處
士者成法處士亦有較猟法以寓練制今巳施用夫用
其法而遺其人可乎今者為置墓田以充時享願得子
之文掲於其墓敢請余乃受事状経緯之曰處士諱宗
敬初名廣敬号澹齋長沼宗政之胤也其先出小山結
城氏中世有守長沼城者遂以氏焉祖山城君諱廣輝
當永禄元亀之際嬰城戦没闔門離析其第六子諱廣
次是為處士之考處士幼穎敏知嚮学為文章号称奇
童迨長器識弘遠践履敦篤又喜談兵古今韜靡弗
博究至軒轅握奇武俟八陣恍然有悟自以千載不伝
之秘於今発焉又聞泉州隠士渡邉酔庵者少臨戦陣
練習其事乃訪質攻守之法其余聞有身歴戎馬者輙
必往問之旁摭明人戚兪之説参互綜錯汰択会萃別
創一家言著握奇八陣集解一巻乃所謂千載不伝之
秘在焉其諸議論多根於此又有兵要録分篇五曰兵
談曰将略曰練兵曰出師曰戦格凡二十二巻其所登
載裁度時宜事取試効又有四則之訣此為最後秘授
焉當時従学之徒後先数十百人處士之論兵恒以義
戦為主貪利争名其取深戒故與世之以兵学相標榜
者洵異門蹊云處士以元禄三年十一月二十一日病
没於城州伏見郷竹田村享年五十有四葬東山栄春
寺後邱享保中
大君命求其遺書賜 覧嘉賞可謂死有余栄者也衡
曰嗚呼澹斎之於斯術也殆所謂択而精者耶不然其
法與説行於百歳之後能如此乎会津侯用其法而不
遺其人四時之享為千秋計其於所崇可謂厚矣夫澹
斎且不遺況其閥閲功宗乎故不拒其請乃撮概略使
勒之貞    会津国臣加賀山知常謹書并篆額
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